春花の章
白くふっくらとした頬に柔らかな笑みを浮かべて、お雛様は今日も笑う。優しい目元に、花の色をした唇。ぬばたまの黒髪に、儚げな白い手……。昔、一人の姫がおりました。
昔、一人の姫がおりました。
姫は大層美しく、当代一と謳われた絵師も、姫のお姿をお納めしようとした際、あまりのまばゆさに手が震え、絵筆をとることがかなわなかったと申します。
お顔の美しさもさることながら、姫は大層美しい手をしていらっしゃいました。お袖の影からほんの少し覗いている指先は俗世間の穢れなど一つも知らない無垢な白色をしていて、その先に五つ整った爪は、はんなりと色づいて桜の色をしておりました。
姫の御父君は今を時めく左大臣様、母君はその北の方様で、その一の姫君でいらっしゃったので、私たちは姫のことを、大姫様、とお呼びしておりました。お二人とも姫を大層可愛がられ、大切に慈しんでお育てになりました。
「もし、そこの方」
私の呼び声で、庭の桜を眺めていた一人の男が振り返りました。切れ長な瞳の、背が高い男の方でございます。枯色の狩衣を、風流に着こなしております。
「何か御用でしょうか?」
少し低めのその声は、ざわつく春風の中でもよく通りました。男はちょうど姫より二つ、三つ年上位の若さで、おそらくは貴族の子弟であり、庭の桜に見とれて迷いこんでしまったと言ったところでしょう。突然声をかけられたにしては落ち着き払ったその態度が、妙に鼻につきます。
「先程からその桜を眺めていらっしゃるご様子。もしお気に召したのでしたら、一枝差し上げましょうかと姫様がおっしゃっています」
姫の乳兄弟であり、女房でもある私は、そのお言葉を外の男に伝えてやりました。
すると男は、見透かそうとするかのように、御簾の内をじっと眺めました。それから何も言わずに桜の木に近付き、手近な枝に手を伸ばします。パキリと乾いた音がして、今を盛りと咲き誇る桜の木が、その一枝を男の手の中に預けました。それからこちらに戻って来ると、桜の枝先がほんの少し御簾の内に入るように置きました。私が驚いて目を見張り、顔を上げるのが、おそらく御簾の向こうの男にもわかったのでしょう。彼は不敵ともとれる笑みを浮かべると、朗々とした口調でこう言いました。
「花は見る人が見てこそ価値が生まれるもの。この花は私のようなものではなく、姫君にこそ愛でていただくべきものなのでしょう」
なかなか小憎らしい返答をする男だな、と思いながらも、私は桜の枝をこちらに引き寄せて、姫様にお見せしました。それから、そのお言葉を男に伝えてやります。
「姫様が御礼を申し上げます、とおっしゃっておられます。それから、お名前をお伺いせよ、と」
「菅原高遠と申します。こちらに大姫様がいらっしゃるとは存じ上げず、春の香りに誘われて迷いこんでしまいました。姫君にご迷惑がかからぬよう、早々に退散させていただきます」
高遠様はそれだけおっしゃると御簾の内に向かって深々と礼をし、歩き去ってしまわれました。
「菅原高遠様と申されますと、当代一の笛の名手と謳われる方ですよね? 一度お聞きしたかったわ」
「そうそう、あの涼しげな風貌と類まれな笛の音で、帝が何かと目をかけていらっしゃる方ですわ!」
「あなたたち、何ですか、姫様の前で。はしたないですよ。それに、いくら帝が目をかけていらっしゃるといっても、五位でしょう? うちの姫様とは全く釣り合わない身分の方じゃありませんか。軽々しく姫様に近付かないでいただきたいわ」
姫様は裳着は済ませたものの、未だに縁談は来ておりません。どの貴族の方も姫様の類稀な美しさの話は風の噂で聞き及んでいるのでしょうが、そのような麗しい姫、ましてや左大臣家の姫ともなれば、いずれ女御として入内し、中宮となる運命にあると見て、初めから諦めているようでありました。それは姫様の入内を望む私や姫様の御父君からすればありがたいことなのですが、姫様ご自身は寂しくお思いなのではないでしょうか。このような贈り物や、胸が躍るような恋文というものをもらうと、やはり嬉しいものなのではないでしょうか。
私は、隣に座しておられる姫様のお顔をそっと盗み見ました。いつものように白く俯きがちなお顔は、黒く豊かな絹糸の髪に隠れて、よく見えなませんでした。
白くふっくらとした指先がお袖の影からほんの少し顔を覗かせて、その爪先と同じ色の儚さの象徴を、愛おしむように撫でていらっしゃいました。
北の方……正室、正妻
枯色……表地と裏地に緑色と黄色を重ねて、黄緑色に見せる重色目
五位……殿上(天皇がいる清涼殿に上がること)が本来であれば許されない位。特別に許された人間であれば殿上が叶う。
こんにちは、霜月璃音です。
自宅に飾られた雛人形を眺めていて、ふと思いついたのがこのお話です。
このお話は、短期集中で書きあげてしまいたいと思っています。早く書いてしまわないと時期外れになるので……。
どうぞよろしくお願いいたします。




