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レジェール・ソレット  作者: 伯修佳
第2章 王都から国境へ
8/18

バジ=ストフコ

「しかしまあ、昨今の人々の冷たい事と言いましたら全くもって嘆かわしい限りですわ! ガンターヴァの凍風にも劣りません。中には貴方がたの様な親切な御方がいない事もありませんが、本当に稀。嫌なご時世になったものです。これも魔の凋梁ちょうりょうする世の中、致し方ないと言うべきなのでしょうか? エンデゲルド様はその辺り、どう思われます――」

 そこまで言って、アーティルダは同室になった相手がさっきから一言も相槌を打ってない事に気が付いて振り返った。二人部屋はもっぱら商人武人向けな宿のせいか、素っ気ない程飾り気ない寝台が二つ、小さな卓が一つ間にあるきりである。広さもはっきり言って狭い位なので、彼女が自分の言葉が聞こえていない、などというわけではないと思うのだが。

「あの、どうかしまして? どこかお加減でも?」

 子供の様に邪気のない、紫色の瞳をくるりと向ける。

「いえ、大丈夫です。ただ、ちょっと」

 返事が出来ないのは、アーティルダの話に息継ぎがないからだ――とはさすがに言い出しかねた。何と言っても、彼女とはさっき会ったばかりなのだから。

「ちょっと、何ですの?」

 エンディが適当な返事を返す間もなくアーティルダは一人得心がいった、と言わんばかりに頷いた。

「もしかして、よくしゃべるとお思いになったのでしょう? 私、昔から口下手な割にはよく人から『しゃべり過ぎだ』と注意されてしまうんですの。近所ではキルゴー家のアーティルダと言えば、それは有名だったそうです。そう、あれは3年程前――」

「あっ、ところで!」

 また昔話をされては敵わない。エンディは無理矢理話に割って入った。

「アーティルダさんは、どちらからいらしたんです?」

 ウィリアードは「深入りするな」と言っていたが、この程度の世間話は構わないだろう。

「えっ」

 何の気なしに返答が返ってくると思いきや、何故かアーティルダは目を見開くばかりで答えない。そんなに聞いてはならない事を聞いた様には思えなかったのだが。

「あ、ごめんなさい。答えたくないなら無理には聞きません」

 どうせ話を遮る為に持ち出した話題だと、エンディはあっさり引き下がった。

「あなた方こそ」

「え?」

 アーティルダの紫の瞳が探る様な色を帯びている。

「あなた方こそ、とても仲良く趣味で旅をされている様には見えません。きっといずこかの城に使える騎士なのではありませんか?」

 殊更身分を隠さなければならないわけでもないのだが、こうも言い当てられるとどこか気まずい。しかもエンディが何とか誤魔化せないかと思案している内に、

「やっぱりそうでしたの。見たままですわね」

 と彼女にさっさと納得されてしまった。

「あの強さ態度の大きさといい、只者ではないとにらんでいましたわ。特にあの、何て言いましたかしら、ベントルさん? あの人と来たら――」

「……ヴェンツェル卿は確かに普段から優しくはないですね」

 彼を庇う気は全くないけれど、アーティルダに対するあの路傍の石を見るがごとき態度の理由もわからないではない。

――しかし、ああ明からさまに嫌うとは。

 おかげでこっちが逆に親切にする羽目になったではないか。渋っていたウィリアードでさえも、彼を見てこの予定外の「旅の仲間」に同情せざるを得なくなったのだ。

――あれ?

 今、何か核心を突く考えが通り過ぎた気がする。

「まあ、普段からあの様な無愛想な方なんですの? ご同情申し上げますわ。無愛想と言えば――」

「私達は、東から参りました。行方不明になった、ある人を探しています」

「えっ……ああ、そうですの……」

 昔話にもつれ込もうとしていた機先を制されて、アーティルダは鼻白む様子を見せた。構わずエンディは言葉を続ける。くだらないおしゃべりにはうんざりだったから。

「ご存じでしょうか? マルティエグが魔物に襲われたという噂を」

――どうせあちこちで人から噂を仕入れなければならないんだから、旅人に聞くべきだろう。

「私達が探しているのは、その国の王太子、ルクライエン大公です。彼は何でも」

「ルっ……!」

 ただでさえ白いアーティルダの顔色が、目に見えて青くなっている事にエンディは気付いた。

「アーティルダさんっ!?」

 彼女は目を見開いたまま、小刻みに震えている。

「……マル……ティエグが……そうですか」

「大丈夫ですか? ひどく顔色が悪い様ですが。何でしたらしばらく横になっていた方が」

 今にも倒れそうな様子に思わず駆け寄る。だが彼女は毅然と顔を上げた。強引な程に。

「いえ! ……大丈夫です。ちょっと目眩めまいがしただけですから」

 とても大丈夫そうには思えない表情でアーティルダは答えた。顔に『秘密を持っているからこれ以上聞かないで』と書いてある様なものだ。

 詮索する気はさらさらないエンディはまたも言及を避けた。

「……そうですか? 私達はこれから武具屋に行くのですが、アーティルダさん、どうなさいます?」

 別に同室だからと言って、行動を共にしなければならないわけではない。確かに先程あんな事があったばかりなので、一緒である方がお互い安心ではあるが――

――面倒はたくさんだ。

 何故かエンディは、眉一つ動かさず冷たく言い放ったヴェンツェルの仏頂面を思い出してしまった。

 少しばかり慌てて付け加える。

「あ、いや。目眩がする時に無理に動かれては良くありませんし」

「……いえ」

 蝋の様な顔色のままで、アーティルダは首を横に強く振った。腰掛けていた寝台から、力なく立ち上がる。

「私も参りますわ。薬屋にぜひとも足さねばならない用事がありますから」

 言うなり、先程までの緩慢さが嘘かと思う様な早さで身仕度をし、「では、外で待ってます」と勝手に出て行ってしまった。

――隠しているのは、厄介ごとか重大な秘密か。

 同じ様でいて、両者には大きな違いがある。果たしてどちらだろう。

 そう考えて、彼女は苦笑した。

「両方、かもしれないわよね」

 軽く豪奢な銀髪を振って、憶測を追い払う。

 余計な事は考えない方がいい。いつの時も、一番悪い予感が最も当たる確率が高いものなのだから。


※※※※


 サーシェの武具店は雑貨屋、薬局の隣に看板を連ねる、いかめしい商売柄には簡素な構えの店だった。店内に見本として並べられている武器からしても、軍がご用達のマルスブルグのそれとは違い、漁師が海賊などから身を護る為の棍棒や短剣や弓などが大半を占めている。

 ヴェンツェルは店に足を一歩踏み入れるなり顔をしかめた。

「……混んでるな」

 確かにあまり広くはない店内は、買い物客で賑わっている。明らかに旅人という風体の者がいるかと思えば、近所からやって来ましたといった気軽な装いの者もいた。

「武器屋が繁盛するご時勢になるとは。嘆かわしい限りだ」

 ウィリアードも嘆息してみせる。つかつかとカウンターに歩み寄り、殊更大きく嘆息の声を上げた。

「おっ、旅人の軽装ブークレザーがこの値段か。ここいらは余程物騒なんだな。マルスブルグの倍じゃないか」

 カウンターの向こうにいる店員は、いかにも人好きのする笑みを浮かべて答えた。

「いらっしゃい。こちらは今、一番売れ筋なものでね。生産が追い付かないんですよ。止むを得ず値上げしたばかりでしてね」

 ブークレザーは防具の中では最も軽く、最も強度が低い。普段人々が着る様な服の布地に、皮によく似た目地の固い布を二重に縫い付けた簡素なものである。それでも、値段もそれなりに安く、ただの衣服よりは頑丈だと言う事で、女性や老人には従来より重宝がられていた。

「しかし、それにしても高い。近ごろ沿岸に魔物が出るとは聞いていたが、そんなに多いのかい?」

 ウィリアードはさりげなく水を向けた。元来話好きなので、この手の探りはいつも彼がしている。

「そうですねえ。確かにここの所よく、商品は出ていますから。そういう事なんでしょう」

「物騒で大変だな。街に住んでるあんた方も、おちおち出かけられないだろう」

「全くですよ。噂では、マルティエグの辺りから流れて来てるって話なんですがね。ちなみにお客さんがたはどちらへ?」

「本当かい、まさに俺達はそっちに向かおうとしていたんだが」

 初老の店員は、毛糸が乗った様な眉毛をひそめて囁いた。

「悪い事は言いません。あそこは止めた方がいい。今や、マルティエグは魔物の巣窟だって聞いてますよ。……何せ、『図書』の加護がなくなっちまいましたからね」

 そこまで言って、店員はなぜか顔色を変えた。どうやら、不味い事を口走ったと思ったらしい。

「い、いえ。まあ、あくまで噂ですからね。もし、どうしても行くのでしたら、いかがですか? ウチの商品は品質は確かですよ」

 ウィリアードは店員の顔と、隣の友人の顔を見比べてから破顔した。

「さすが商売上手だな。それじゃあ、これをもらおうか」

 店員もまた、彼がカウンターに並んだ手甲を見ると、途端に安堵の笑みを見せる。

「トレキスでございますね。ありがとうございます」

 店員に軽く礼を言ってから店を出しな、低く彼は呟いた。

「おかしなものだな。あの男、一体何に怯えていたのだろう」

「確かにな。しかもウィル、気付いていたか?」

「店の中がいつの間にか静まり返っていた事なら」

 我が意を得たりとばかりにヴェンツェルは頷いた。

「……どうやら、今夜は酒場で一杯やる必要が出来たらしい」

「そうだな。致し方ないだろう」

 情報収集を兼ねた、旅ならではの楽しみ。二人はにやりと笑った。

「それはそうと、お嬢さん二人は遅いな」

 ウィリアードは辺りを見回す素振りをする。通りは相変わらずの雑踏、連れの姿は気配もない。

「ああ、二人は薬局に行くと言っていた。アーティルダ嬢が用事があるらしい」

「げっ、らしい……って、ヴェンツェル。いいのか? 彼女らに先に行かれて、揉め事でも起こされたら厄介だぜ」

 ヴェンツェルは諦観のため息をついた。

「ま、何とかなるだろう。止める理由も特になかったしな」

「俺は嫌な予感がするよ」

 友の渋面に彼は笑って見せる。

「嫌な予感なら、俺は宿屋で最初に見た時からしていたさ――では行くか。姫を迎えに」

「取り押さえに、の間違いだろ」

 ウィリアードの軽口に、二人は仲良く苦笑した。

 石畳の路地をやや港に向けて進むと、石造りの建物が彼等の目に飛び込んで来た。背が低く二階がない、どっしりとした構えは他の店とそう変わらない。ただ一つ違うのは、その壁の色が薄い黄色をしている事位だ。町の景観を配慮して建てられているのか、背後に広がる空と海のあおによく映えている。

 二人は中に入ろうと建物に近寄り、奇妙な光景に眉をひそめた。

「……おい、何だあれ。特売でもしているのか?」

 ウィリアードの呟きは、軽口でも何でもない真剣な疑問らしかった。

 それも無理はない。薬局の前には店に入ろうとする長蛇の列が出来ていたのだから。他の店ではまずお目にかかれないものだった。

「さあな……とりあえず、並ばねばならないらしいな」

 ヴェンツェルは列の最後尾、脇に「こちらにお並び下さい」という札を掲げている店員らしき男をちらと見て足を進めた。

「あの二人も先に並んでいるんだろうか? だとしたら合流した方が良さそうだな」

「だがこう混んでいては、下手に入ると迷惑になるんじゃないか」

 ヴェンツェルがそう答えた時、辿り着いた列の先――つまり店の中から、人の騒ぐ声が聞こえてきた。

 ウィリアードがどこか自虐的に笑う。

「大丈夫だ、ヴェンツェル。もう充分、俺達の連れが迷惑をかけている」

 例によって、甲高い女の早口が、戸口からさわやかな海風に乗ってやって来た。


※※※※


 薬局に売られている薬は様々であるが、旅をする者達が最も欠かせない薬は「バジ=ストフコ」と呼ばれる飲み薬である。「全ての事物」の意味より生まれた名前のごとく、あらゆる怪我や病をたちどころに治療してしまう。

「いらっしゃいませ」

 黄白色のひび割れ一つない壁。明るい雰囲気に包まれた薬局の店内を見回すエンディに若い女性店員が声を掛ける。入店を制限された時には何事かと思ったが、理由は中に入ってすぐに知れた。

「当局自慢の万能薬、『ハジ=ストフコ』はいかがですかー? 今回特別に他のどの薬局よりもお安くご提供させて頂いておりますよ~」

 バジ=ストフコは通常、他の治療薬のほぼ三倍の値段で売られている。それが定価だ。驚いた事に、この店では定価の七割の値段で取引されていた。客が並ぶというわけだ。

 喜んでまとめ買いする客達を眺めて、エンディは眉をひそめた。

――どういう訳だろう。バジ=ストフコが値下がりするなどとは、聞いた事がない。

 得体が知れないくせに価格も高額ときていれば、本来ならばとても売れそうにない商品なのだが、他のものとこの薬が決定的に違う点が一つあった。それは、使用者を裏切った事がただの一度もないという事実である。

 バジ=ストフコで癒せない病や傷は存在しない。理由は特殊な精製の仕組みにあり、なればこそ何百年もの間、貨幣価値が変わっても変わらず高価なものとして取引されていたのだが。

 怪訝そうに、卓上に見本品として並べられた商品を見つめるエンディを、店員は買う意志があると受け止めたらしかった。

「いかがでしょう? お客様もこれからどちらかに向かわれるご様子。魔物が増えたこのご時世では、バジ=ストフコは欠かせませんよ」

「そうですが……これはまた、ずいぶんと安い気がしますね」

 店員はいかにも営業向けな隙のない笑顔を見せる。

「当店では独自の流通経路を使って仕入れております。なのでこんな風にお安く出来るんですよ」

 安売りの理由としては至極もっともな説明にも、エンディの表情は晴れなかった。

「そんなはずは――」

「まあっ、何て安さでしょう! この万能薬!!」

 横から割り込む形でアーティルダが身を乗り出して来た。

 店員の顔は笑みの形で止まっている。

「ええ、いかがでしょう」

「バジ=ストフコと申しますのは」

 アーティルダは勧誘を完全に黙殺して、なぜか店内の客達に向き直った。

「そもそも賢者レジェールが『風・火・水・土』、俗に四大元素と呼ばれる『原初の言葉』の要素から精製したのが始まりと聞いております。生きとし生けるもの全てには、この元素が必ずどこかしらに組み込まれているとか。怪我・病などはいずれも人の体内の元素が『欠ける』のが原因というのが、レジェールの著作『ソレット』に記されているそうです。でも不思議ですのは、普通の薬草を煎じた薬でも病などは治せるのに、万能薬はどうして精製方法がこうも違うのか、という点ですわ。為に万能薬は図書でしか作れないし、値段も薬の三倍はするのですから」

「あの、アーティルダさん」

 先程とは違う調子で、店内は騒めきだした。エンディは内心舌打ちしたい思いに駆られる。一般の人々は、図書の仕組みを知らない者がほとんどなのだ。ましてや。

「そうそう、話が脇道に逸れてしまいましたが、つまり『バジ=ストフコの値段が下がるなんて信じられない』という話でしたわ」

 空気が読めないのか、全く意に介さない様子で、引きつった顔の店員に再び向き直る。

「どういう事でしょう?」

「で、ですから……先程申し上げた通り、当店では特別に卸の商人から直接仕入れを行っておりますので、この様に」

 アーティルダは細く弧を描いた眉をひそめた。

「卸? 商人? 意味がわかりませんわ。だって」

「アーティルダさん、お止めなさい」

 今度はエンディが彼女を遮った。先に続く言葉が予想出来てしまったのだ。

「どうしてです?」

 やけによく動く、大きな紫色の両眼に怒りに似た光が宿る。一際声量が上がった。

「バジ=ストフコは、図書から許可を受け契約した商人達しか手に入れられないのです。契約には販売価格を遵守する旨も明記されている。安売りなど不可能です。出来るとすれば、それは」

「お客様」

 引きつり顔から蒼冷めた顔に変わっていた店員の後ろから、野太い声がする。背後にあった扉が開いて、いかつい体格の中年の男が姿を現した。毛深い手足は常人の倍はあろうかという程、どう見ても単なる薬局の店主向きではない。

「店主のカピブと申しますが、店の者の応対に納得いただけないご様子。申し訳ございません」

 言葉のみで謝意を表しているが、毛虫の様な眉毛に半分隠れた目つきは鋭く、全く申し訳なさそうには見えない。

「どうやら何か聞きたい事がおありのご様子。ですが、店先でお話致しましても他のお客様のご迷惑になりましょう。良ければ、あちらの奥の方においでねがえませんか?」

 目つきと同じ位声音は剣呑だ。口調自体が馬鹿丁寧なだけに、一層不気味に思える。側にいたエンディは思わず腰間の剣の柄に手を掛け、両者の様子を緊張して見守った。

「おっ、こんな所にいたのか、二人とも」

 店内の張り詰めた空気など、どこ吹く風といった様な暢気な声が戸口の方から聞こえた。 

 エンディは振り返る。

「ウィリアード卿」

 遠巻きに見守る人々が申し合わせたごとく道を譲ってゆく中、彼は悠々と連れの女性の元に辿り着いた。背後に遅れる事少し、ヴェンツェルの姿もある。

「買い物は終ったのか? 俺も実は薬局に用事があったんだ」

 言って店主に変わらぬ人好きのする笑みを見せた。

「バジ=ストフコがこの店ではとても安いと聞いた。一つもらいたいんだが、あるかな」

「ウィリアード様!!」

 アーティルダが悲鳴にも似た声を上げる。

「何だい?」

 ウィリアードはのほほんとした顔を向けた。

「買ってはなりません! その薬は偽物ですっ!!」

「何だって? 何でそんな事」

 苛立たしげに店主が口を挟む。

「お客様。こちらの方はお連れ様ですか?」

「そうだが……」

「先ほどから当店のバジ=ストフコにあれやこれやとお疑いを掛けてこられて、私どもとしましては正直困っております。何でしたら、ご一緒にこちらに来ていただけませんでしょうか?」

 ウィリアードの笑い顔はお人好しの雰囲気そのままに、困惑の形へと表情を変える。

 それまで後ろに控え続けていたヴェンツェルが一歩前に足を踏み出した。友の脇をすり抜けてゆく。

「いや、きっと何か勘違いしているんだろう。すまないね、彼女は普段からやや口が過ぎる質で」

「なんですっ……! ぐごぐぐんぐぐげぐぐぐっ!」

 アーティルダは抗議の声を上げようとしたが、出来なかった。ヴェンツェルの羽交締はがいじめに遭ったからだ。

 カピブは身動き出来ない彼女に爬虫類の様に冷ややかな一瞥をくれた。

「その様ですな」

 ウィリアードは爽やかに笑う。

「では、売ってもらえるかい?」

「残念ながら、お売りするわけには参りません」

 店主の双眸の剣呑な光はまだ消えていなかった。

「疑いを持ってまで、買っていただかなくとも結構でございます。ぜひとも欲しいが、相場に手が届かず苦しんでおいでの方にこそ、当店の薬はあるもの。安い価格を信用されないのであれば、他店の高い定価にて納得されるがよろしいでしょう。お帰りください」

 丁寧な口調には似つかわしくない、地獄の底から聞こえる様な声だった。

 ウィリアードは軽く手を広げる仕草をして、僚友二人を振り返った。

「仕方ない、退散するとしようか」

 連れが頷いたのを確認して、彼は踵を返した。

「邪魔をして済まなかったな、おやじさん」

 完全に身体が出口を向く前に店主に声を掛ける。返事はなかったが、構わず出口に向かう。エンディがそのすぐ後を、次いでヴェンツェルがアーティルダを抱えたまま、半ば引きずる様に続いた。

 店内は四人が出て行った後もしばらくざわめいており、思い直したのか何人かは出て行く者もいた。それを苦々しい表情で見ていたカピブは店の奥に向かって鋭い視線を走らせる。

 閉じていたはずの扉がほんの少し開いていた――よほど目が良い者ならば、気づいたかもしれない。扉の向こうの薄暗い空間に、ひっそり佇む人影があった事を。

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