碧い町と災いの口
港の空は澄み切っていた。
並び立つ建物は背が低い石造りで、周囲に広がる蒼海の鮮やかな色を消す事はない。目に痛い程の煌めく水面を揺らして、時折塩辛い風が人々の頬を撫でる。
「ものすごい蒼、ですね……」
乗っていた馬から降り、手綱を引きながら町中を見回す。エンディは感嘆しきりだった。
「このサーシェは町こそ小さいが、大陸内で消費される魚介類のほとんどが出荷される。他国との交易との要でもあるから、人の行き来も激しい。賑やかだろう」
道の向こうからやって来る人の流れを躱しながらヴェンツェルは旅慣れない仲間に説明した。初めて見る光景に素直に感情が出ているらしく、いつもと違いエンディの言葉には刺がない。
「本当に。これから渡るのは内海と聞いておりましたが、ここまで碧いとは。港がまるで海に囲まれている様です」
「確かに島に見えない事もないな」
ウィリアードもまた笑った。
「先に宿屋に入ろう。出かけるのは部屋を取ってからだ。宿ではご当地ならではの新鮮な魚料理が食べられるよ」
「それは楽しみですね」
エンディはにこりと微笑むと、二人に先立って歩を進める。残された男達はどちらからともなく顔を見合わせた。小声で囁き交わす。
「……何だ、ずいぶんご機嫌じゃないか? 何があったんだろう」
「さあ。平和ならそれに越した事はないさ」
首を傾げるばかりの友人にさも興味がないといった風にヴェンツェルは眉を上げて答えた。平和友好主義の友と違い、実際本当にどうでも良かったのだ。
彼女がこの旅を通して少しでもその攻撃的な性格を改めれば良いのだろうが、生憎と人の性根というものは中々変わらないものである。
現にエンディは怒っていないだけで、またも先にさっさと宿屋に入って行ってしまった。
「あの性格が災いして足手纏いにならなけりゃ、何でもいいさ」
「まあ、そりゃそうだが……」
二人は後を追って宿屋の扉を開け、中に入った。石造りの建物ならではのひんやりとした、それでいて湿り気のある独特の空気を感じる。
受付台は混雑していた。大抵出入口からすぐ正面に受付台があるものだが、立ち並ぶ客の列で従業員の顔が見えない。任務で様々な所を旅したヴェンツェルの目にもそれは非常に珍しい光景だった。
一足先に列の最後尾に並んでいたエンディが二人を振り返る。
「すぐには無理の様ですね」
「そうだな」
ヴェンツェルは店内を見回す。受付台の脇に待合の為にある卓と椅子も、どれも荷物を抱えた客で塞がっていた。
「誰か一人、並ぶ役を決めて後二人は武具屋に行くってのはどうだ?」
ウィリアードの提案に彼は頷いた。
「そうだな。じゃあエンデゲルド嬢、頼んでもいいだろうか――」
その時、背にしていた受付台の方から勢い良く物が落ちる音がした。三人は一斉にそちらを見る。
周囲のざわめきもぴたりと止んだ。
「ふざけんじゃねえ! こっちだって、今日のねぐらがかかってんだ。金はその分きちんと払ってるし、誰に文句を言われる筋合いはねえ!!」
怒鳴り声は男のものだった。人垣の合間から見える、いかにも屈強そうな骨張った顔。激怒の余り額に筋が走っている。
彼と言い争っている相手はよく見えない。上背がないのだろう。
「文句を言っているのではありません。ただもう少し、合理的且つ良心的に部屋を決められてはどうか、とご忠告申し上げているだけです。春とはいえまだ冷たい夜風の中、貴男がたの部屋が一つならば、私の様にか弱い一人旅の者を野宿から救う事が出来るのですから」
答える声は女のもの、長い台詞を一字一句くっきりと発音しているのがやけに冷静に思えた。少し高めの非常によく通る声である。
「何故男性三人なのに部屋を二つにお分けになるのですか? 皆さん、他の方に気を遣って出来るだけ一部屋にまとまる様配慮なさっています。しかも貴男がたは宿から三人部屋を奨められたのを無理に変えたではありませんか。そのおかげでこちらは一人だと言うのに二人部屋しかないと、必要以上高い料金を払う羽目になったのですよ」
周囲は泊り客の野次馬で詰まっていた。無関心な一瞥をくれたきり、ヴェンツェルは宿を出ようとした。相棒を振り返る。
「ウィル、武具屋の後に薬屋を――」
傍らには誰もいない。彼は嫌な予感がして背後に目をやった。
「……おいおい」
ウィリアードは面白そうに野次馬に交じって、エンディと共に諍いを見物している。憮然として彼は踵を返した。
「おい! そんなもの観てないで行くぞ」
友人の肩に彼が手をかけたちょうどその時、女の短い悲鳴が聞こえて床に鈍い音が響いた。
「お客様! お止め下さい!! 他のお客様にご迷惑です」
宿屋の主人の制止も、悲鳴じみている。男の隆々とした体躯とその剣幕を恐れているらしかった。
「先に難癖をつけて来たのはその女だ。──よく聞けよ、女」
突き飛ばされ、床に尻餅をついた体勢のまま睨んでいる女に彼は吐き捨てた。
「お前にお前の事情がある様に、こっちにゃこっちの事情があんだよ。しかも俺達ゃ先に金払ってこの部屋を取ったって言ってんだろ? もしそれでお前が被害を被ったとしても、だ。それは俺達のせいじゃねえ。他に部屋がたまたまないだけだ。わかったら、とっとと部屋にでも失せやがれ」
男がせせら笑いを収めると、周囲は静まり返った。上目遣いに険悪な形相をしたままの女は、唇を痙攣させている。
――止めた方がいい。
エンデゲルドは人だかりの隙間に身を滑らせた。中心近くに歩み寄る。
「……よく、わかりましたわ」
氷の様な声だった。
女はしっかりとした足取りで立ち上がると、去ろうと背を向けかけていた男に言葉を続けた。
「何もかもお金で解決なさろうというその精神はご立派です事。私、別に最初から押しつけがましい話する気はありませんでしたけど、貴男がたが余りに常識外れな勘違いをなさっていると思ったものですから。でも、勘違いは私の方でしたわね。言語を理解しない劣悪な人間に説教しても、こちらの価値が下がるだけですもの」
「何だと、この女! おとなしくしてりゃいい気になりやがって!!」
目の前にいた男だけでなく、連れの二人までもが激昂して女に飛び掛かった。逃げる様子もない相手に向かって拳を振り上げる。
周囲から悲鳴が上がった。
エンディは素早く円の中心に出ると、先頭を切る男の間合いに入った。突き出された拳を即座に押さえ込み、捻り上げる。鈍い音がした。
「ぐうっ!」
「その辺にしといたらどうだ。邪魔くさい」
呻き声が上がったのはエンディの傍だけではなかった。彼女の後頭部の方から聞こえる、いかにも面倒そうなウィリアードの声。
「あんたらの言い分ももっともだが、女一人に三人がかりとはどうも紳士的じゃないな。他の客にも迷惑だろう」
「ふ……ざけ……うっ!」
「何か不服でも?」
連れの男の両腕は、ウィリアードによって捻り上げられている。口応えしようとしたものの、腕に更に力が加わって、代わりに出てきたのは金切り声に近い、弱々しい悲鳴だった。
「……な、ない! 何でもない! だから放せっ」
「そうか」
ウィリアードはあっさりと手を放した。その背後から三人目の男が忍び寄る。手には鉈を持っていた。
「――懲りない奴だ」
背後を振り返る事なく、彼の頭がいきなり下に下がったかと思うと、襲いかかろうとしていた男が横転した。ウィリアードが足払いをかけたのだ。男が体勢を立て直すより、彼がその背中に身体ごと肘鉄をくらわす方が早かった。
「く……くそっ、覚えてやがれ!」
ついっさっき開放された二人目の男は毒づきながら床に伸びた連れを肩に担ぎ上げた。捨て台詞は忘れなかったが、ウィリアードの一睨みに口をつぐんでそそくさと部屋があるであろう廊下の向こうへと消えていく。
「おい、まだ一人残っているぞー」
二人の姿が消えたのを見て、エンディは押さえていた男を解放した。男は肩をさすりながら一目散に連れの後を追う。
「やれやれ、人騒がせな。――どうした、エンディ」
男の後を黙って見つめていたエンディは振り返る。
「少し力を入れ過ぎました。肩の骨が外れたかもしれません」
「ほう、それはすごいな。あんな巨漢をねえ」
確か男の腕は彼女の倍以上はあったはずだ。おかしな音は彼も耳にしてはいたので、素直に驚嘆して見せた。
「ま、肩の骨ぐらい自分で何とかするだろう。お嬢さん、お怪我はありませんか?」
彼は後半の台詞を同僚ではなく、男と口論していた女性に向けた。とびきりの笑顔付きで。
呆然としているかと思いきや、女は蒼ざめたまま口を引き結んで、視線を男たちが消えた方から目の前に戻した。怒りを抑えきれないといった様子だ。
「……怪我はありません。ありがとう、ございました」
声はまだ震えていた。
「お気の毒でしたね。恐かったでしょう」
基本的に女子供に優しいウィリアードは笑んだままさも気遣う様に頷く。だが女の顔は険しいままだった。
「お助け頂いて何なのですが、どうせ痛めつけるなら脅して部屋を変えさせて頂きたかったですわ」
爽やかな笑顔のまま彼は固まった。
「――はっ?」
傍らのエンディもまた、思わず女を二度見返す。
「事態は何も好転していない、と申し上げたのです。結局私は部屋を取れないし、あの者達はかなりあなた方を恨んでいるでしょう。勿論私もですが。このままでは確実に私は復讐されるに違いありません。あなた方と違って一人の、一番か弱そうな私が一番狙いやすそうですもの。中途半端な善意は災難を招くだけとお思いになりませんか?」
ウィリアードは絶句した。笑顔のままで怒るという器用な芸当が出来ればそうしていたかもしれない。
「……なるほど。確かに一理ありますね」
真剣に頷いたのはエンディだった。
「エンディ! 君まで何を言うんだ!!」
「だってそうでしょう? さっきまでなら彼女が狙われるのは自業自得でしたけど、今は違います。私達にも責任ありますよ」
自業自得、の言葉に女はぴくりと眉を動かしたが、特に異を唱える事はしなかった。さらりとエンディは続ける。
「どうでしょう、ここは責任取って私が彼女と相部屋になると言うのは。二人部屋なら空いているのでしょう?」
女は一転して顔を輝かせた。
「まあ、そうして頂けますか? 助かりますわ」
「困った時はお互い様です」
「ちょっと待った!」
平然と言い放つエンディを慌ててウィリアードは遮った。
「エンディ、ちょっとこっちへ」
腕を掴んで女から離れる。
「何ですか?」
エンディは心なしか不快げだった。冷え冷えとした水色の眼を同僚に向ける。
「忘れたのか、俺達は王命で旅しているんだぞ。不用意に深く関わる人間を作ると何かと面倒だろう」
髪と同じ色をした柳眉をぴくりと動かしてエンディは答える。
「お言葉ですが、これも人助けの一環です。そもそも率先して彼女を助けたのは卿の方では?」
声にはどこか小馬鹿にした様な響きがあった。
「そ……確かに人助けは必要だが、深入りするのは話が別だ」
「とか何とか言ってますが、本当はあの人が予想以上に可愛くないので面倒になったんじゃないですか」
音が聞こえそうな程はっきりとウィリアードの顔色が変わる。
「わかりやす過ぎです、ウィリアード卿」
「ばっ! 何を言うんだ!!」
「あのー、お話は終りまして?」
驚いて二人が振り返ると女はすぐ後ろに近寄って来ていた。「何をゴチャゴチャ揉めているんだ」と言いたげだ。
エンディはにっこりと微笑んだ。
「ええ」
「おい! まだ話は終わってないぞ。第一ヴェンツェルにだって話してないのに――」
「俺は別に構わんよ」
三人が期せずして同時に振り返ると、いつの間に来たものか背後にヴェンツェルが立っていた。部屋のものらしき鍵を二つ、退屈そうに人指し指でクルクルと回している。
「おまえ等が何やら揉めている間に、受付台が空いたから部屋を取って来た。さ、グズグズしてないで、荷物を置いて出かけるぞ」
「ヴェンツェル、しかしだな」
「エンデゲルド嬢、鍵だ」
彼は友人の抗議を無視して、持っていた鍵の一つをエンディに放り投げる。相手が受けとめたのを確認すると、そのままさっさと階段を登り始めた。
「ありがとうございます。あの」
呼び止める声に彼は首だけで階下を見下ろした。
「私、アーティルダと申します。しばらくご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします」
女はそう言って笑んだが、ヴェンツェルは無表情のままだった。
「面倒、か。一つだけ頼みがある。アーティルダ嬢」
「はい?」
「我々と同行している間は、さっきの様な騒ぎは引き起こさないでもらいたい。時間の無駄だ」
アーティルダの顔から笑みが消えた。
「ヴェンツェル卿!」
本人からではなく、横からのエンディの咎める声に彼はちらりと視線を動かした。
「……問題を起こすのは、一人でたくさんだからな」
吐き捨てる様に呟くと、首を戻して階段を登って仲間の視界から消えてしまった。
「……えーと、その」
凍り付いた場の雰囲気を何とかしようとウィリアードが咳払いする。
「俺の名前はウィリアードと言う。……とりあえず、よろしく」
どうやら僚友のあまりの冷たい態度に、毒気を抜かれてしまったらしい。
「奴の事は、気にするな。ちょっと神経質になっているんだろう」
「そうでしょうか……」
アーティルダは眉をひそめたまま、ヴェンツェルが消えた方向を睨んでいる。
「ウィリアード卿の言う通りですよ。気にしないでください」
エンディも口を添える。去り際にヴェンツェルが言った台詞に釈然としないものはあるが、深く考えない事にした。確かにこの新しい仲間は厄介だが、放置するのはいくら何でも良くない気がする。
「私はエンデゲルドと言います。よろしく、アーティルダさん」
アーティルダはようやく笑みを取り戻した。
「こちらこそよろしくお願いします、お二方。私、口下手で、ついおかしな事を言ってしまうらしいんですの」
さも申し訳ない、といった風に彼女は嘆いた。
「よく周りに叱られてましたわ。きっとさっきの――ベネディクト様でしたっけ? あの方も何か気分を害されたに違いありませんわね。気を付けているつもりなのですけど」
「ヴェンツェル、だよ……まあ、害したのは間違いないだろうな」
「やっぱり! 私ったら、いつもそうなんですわ。子供の頃からこんな風で――」
「あ、アーティルダさん。わかりましたから、とりあえず部屋に入りましょう!」
エンディは無理矢理背中を押す様にして、アーティルダを階段へと押しやった。
「……何、にやにやなさってるんです」
視線を感じて傍らを見ると、ウィリアードのそれとぶつかる。面白がっている様な表情をしていた。
「いや別に。ま、頑張れよ。これも人助けだもんな」
エンディは返す言葉を見つけられず、ただ一睨みするとアーティルダの背中を更に上へと手に力を込めるばかりだった。