黒鳥のはばたき
一部残酷描写があります。苦手な方はご注意ください。
三人が広場に足を踏み入れようとした時、アーティルダは男の一人に取り押さえられ両腕を捻り上げられていた。残る二人は何やら攻撃された後らしく、傷を負った身体を地面から起こして唸っている。
「この女、調子に乗りやがって……!」
アーティルダを押さえつけている男が忌々しげに吐き捨てる。上を――鳥が泊まっている枝を見上げた。まるで指示を仰ぐ様に。
《その散らばった紙を焼き捨てろ。そうすればこの女は何も出来ん》
鳥が嘴を開いた。二重にも聞こえる耳障りな男の声で語られる人語は、紛れもなくそこから紡がれるものだった。
「いかが致しましょうか、この女」
負傷した二人が石畳に散らばったメンブラーナを拾い集めるのを見ながら、男は己が主人にする様に鳥に問い掛ける。
《まだ殺すな。そいつには聞きたい事がある》
「このっ……痴れ者が! お前の様な下衆に語る言葉などない!!」
腕が捻られ、関節が悲鳴を上げる。その激痛にともすれば意識を手放しそうになりながら、アーティルダは尚も叫んだ。
――これは一体。
エンディは広場の端に植えられた街路樹に隠れた体勢のまま首を傾げた。駆け付け様アーティルダを救けようとした所を同僚達に制止され、苛立ちつつも様子を伺っていたのだった。
よくよく聞けば、鳥は言葉を「声を出して」発しているわけではないようだ。大気を震わす違和感――遠くにいるエンディ達にもはっきりと内容が聞こえるのはその為だろう。何らかの魔力をこの鳥が持っているのは明らかだった。
だとしたら尚の事、アーティルダを早く助けなくてはならないと思うのだが、ヴェンツェルもウィリアードも黙って広場を眺めるばかりで身動きしようとしない。
《さて、これでお前は何も出来なくなった》
目の前で燃え盛る紙片を一瞥して、鳥は力なく拘束された女を嘲った。
《私を追ってここまで辿り着いたその執念ぐらいは褒めてやる。それほどまでにあの男を殺された恨みが深かったか》
人には決して出せないであろう、一層耳障りな笑い声が響き渡る。アーティルダの両眼が憤怒の色に染まり、生気を取り戻す。
「まだ、お亡くなりになったと決まってはおらぬ!」
《死んだとも。図書の秘蔵文書を守る為、他の奴らが逃げ出しても最後まで建物に残って我等に抵抗していたんだからな。動かなくなったのを、他ならぬ私が見たのだから間違いない》
「……」
《血まみれさ。正義面した美しいお顔も身体も真っ赤に染まってな。図書随一のバージ使いと言われた大公さまも、あれじゃあただの肉の塊だ。無様なものよ》
「黙れえっっ!!」
アーティルダは渾身の力を振り絞って足掻いたが、屈強な男の腕はびくともしない。逆に締め上げられて血の気を失い、ぐったりと項垂れてしまった。
再び身を乗り出したエンディをヴェンツェルがまたも制止する。
(しかし、このままでは――)
懇願する様に彼女は同僚に目で訴えた。
《まだ殺すな。そいつには『禁出本』の在り処を聞かなければならぬ》
鳥のとがめる声に反応したのは男ではなく、アーティルダの方だった。両眼に湛えられた憎しみはそのまま、静かに顔を上げる。
『彼』は嘲笑った。
《何故おまえが知っている、と言いたいのか。長い間かけて調べたからな。もちろん、楽勝だったとは言わないが――『五重の謎』と『護符』、挙句『賢者の祈り』まで持ち出して護られた建物だ。逆に言えば、『禁出本』をおいてあそこまで厳重に護るべきものは他にないとも言えた。突破して尚、図書の主が必死に扉を庇えば、確信にさえ変わる。残念ながら、目的は達成出来なかったが》
鳥の声が嘲笑から怒りを含んだものに変わった。翼を羽ばたかせ、虜囚の顔の傍まで舞い降りる。
《全く、名演技だったよ。てっきり、我々は本物を手に入れたと思ったというのに》
「……何の事だ」
《白を切っても寿命が縮まるだけだぞ。お前があの日、王太子から預かった禁出本の保管場所はどこだ?》
アーティルダは顔を背けた。
「そんなものは知らぬ。たとえ知っていた所で、魔物なぞに教えてやる理由はない」
彼女がそう言い終わるや否や、捻りあげられた腕が鈍い音を立てた。
「――――っ!!」
声にならない程の絶叫。間節を外された腕が、ありえない方向に曲がっている。
《口が利ける程度には生かしておいてやる。私は割と気の長い方でな》
――駄目だ!
このままではいずれアーティルダが殺されてしまう。エンディは駆け出した。
「エンデゲルド嬢!」
「エンディ!」
同僚の声を無視して広場に入る。アーティルダを押さえている男に向かって剣を抜き払った。
「ぐぎゃぁあ!」
男の両肩から血飛沫が上がる。大きく痙攣して喚きながら反り返って、彼は虜囚を手放した。斬られた箇所から脈動する筋肉が覗いている。
エンディはアーティルダに駆け寄り、投げ出されたその身体を抱き起こした。
「アーティルダさん! しっかりして下さい!!」
土気色の瞼が震えた。
「……エンデ……ゲル……ド……様……」
エンディは安堵の息を漏らす。
「もう心配要りません。救けに来ました」
言って彼女は上空を見上げた。氷色の瞳に強い殺気が漲る。
「串鳥にしてやるから覚悟しろ」
鳥は変わらず、黙って羽ばたいている。
エンディは言うなり素早く横に跳んだ。彼女が着地するや否や、残り2人の男達が一瞬遅れて倒れる。
「ぐうっ!」
「がはっっ!!」
男達の叫びに構う暇なく、身体の向きを変えて再び跳躍する。
「エンデゲルド様!」
アーティルダが驚愕の叫びを上げた。
鳥がいるのは人3人分はあろうかと言う上空、その位置までただ踏み切っただけで、羽の様な身軽さでエンディは飛び上がったのだ。
夜陰に街灯のみの灯りでうっすらと浮かぶ鳥の輪郭、その正面に躍り出る蒼白い影。しなやかな鞭の様な身体が弓ぞりになる。
――叩き落としてやる。
エンディは剣を振り上げ、標的を視界に捉えた。
鳥は全く逃げる気配がない。――それどころか。
怪訝に思う彼女の耳に、切迫した叫び声が届いた。
「エンデゲルド様! その鳥に触れてはなりません!!」
鳥の顔を見たエンディの剣が止まる。
「――え」
鳥が。
視界から消えた。
「うぐっ!!」
肩に衝撃を感じて、エンディは地面にくずれ落ちた。何かがぶつかった感触と共に、まるで地に縫い付けられたごとく身体の力が全て抜けて落下するしかなかった。
「エンデゲルド嬢!?」
それまで傍観を決め込んでいたヴェンツェル達が広場に駆け付けた。
「エンディ!!」
ウィリアードがエンディの傍に駆け寄る。抱き起こそうと手を掛けた。
「いけません! 動かしてはなりませんっ」
アーティルダの鋭い声が飛ぶ。
「エンデゲルド様は呪いを掛けられています! 動かせば血を流す事無く身体が蝕まれてしまいます」
「呪いだって? 一体どういう」
「グンターベルトは――あの鳥は『無』の呪いを身に纏う魔物なのです。無の呪いは受ければこの世の理から外れてしまう。あいつに触れると、呪いを受けてしまうのです……」
《その通りだ。魔物ではないただの人ならば、身を裂かれる様な苦痛が襲う。か弱き虫けらのくせに、私の邪魔をしようとするからだ》
グンターベルトは元いた場所に、何事もなかったかの様に佇んでいた。
《我が呪いはバジ=ストフコにても破れぬもの。生きながらにして死ぬ苦痛を味わいたくなければ、邪魔をせぬ事だ》
ウィリアードは――彼にしては珍しく――困惑の表情を浮かべていた。アーティルダに歩み寄ると、耳元に口を寄せて囁く。
「おい、それじゃあ俺達も武器じゃあ攻撃出来ないって事か? アイツがここら辺を飛び回れば、全員呪われて終わりじゃないのか」
アーティルダは顔色こそ悪かったが、僅かに首を横に振った。両眼の闘志はまだ消えていない。
「いいえ……あいつは護符を乗り越えてここにいるので、身動きはそう自由には取れないはずです。もし動けるなら、広場の中を飛び回るでしょう。一定の場所に停まっているのは、そこが護符の加護が薄いからに違いありません」
「じゃあ、飛び道具や呪文なら攻撃出来るというわけだな」
「はい」
彼女は倒れたまま動かない男の方をちらりと見た。
「ウィリアード様、一つお願いがございます」
※※※※
ヴェンツェルは剣の矛先を鳥に向けて身構えたまま、二人の様子を伺っていた。背後に倒れているエンディは尚も苦しげに呻き続けている。
広場でこれだけ騒いでいるにも関わらず、町の者は誰一人駆け付けようとはしない。何らかの力が働いているのかもしれないが、不幸中の幸いというものだった。
それにしても、と彼は鳥に視線を移す。
――奴は何故、いつまでも『あそこ』にいるんだ?
見ている限り、最初に枝に止まってはいたものの、後は必ず上空の一定の位置に羽ばたきながらこちらを見下ろしている。触れた者に自由に呪いを掛けられるなら、とっくの昔に自分達は全滅させられているはずだ。
――もし、そこから動けないだとしたら。
そして、触れたモノが『人以外』だとしたら?
彼はおもむろに、携えている剣を鳥に向かって鋭く投げつけた。
長剣とは思えない速さで、剣は見事鳥の胴体を射抜く。
──やったか?
だが次の瞬間、彼の剣はいきなり視界から消えてしまった。
《愚かな真似を》
グンターベルトはかすり傷一つ負っていない。
《『無』属性の私に『有』属性の武器で傷を負わせられると思うのか? そんなに死にたいのなら、あの女より先にお前を始末してやろう》
夜よりもなお黒く禍々(まがまが)しい翼をはためかせて、グンターベルトはヴェンツエルに向かって急降下して来た。丸腰となった彼には成す術もなく、その場に踏みとどまって迫り来る死神を凝視するしかない。
――これまでか!
『神は光を愛し、闇を厭う。全ての呪いは場に縛られ、解体の時を待つ――』
アーティルダの声が響いた。開けた広場なのに、重々しく響き渡る。まるで大気の中に何本もの弦があって、彼女の声によってそれが揺れているかの様に。
辺りが白く光っているのに気づいて、ヴェンツェルはようやく死の覚悟から我に返った。
背後を見返す。エンディは苦しんではいるものの、自分達はまだ生きている。――否。
グンターベルトが止まっているのだ。
《貴様……っ!》
鳥は苦しんでいるだけではなく、身体から黒い煙を立ち上らせていた。傍目には――溶け出して見える。
アーティルダは半身を起こして、背後をウィリアードに支えられている体勢だった。その全身が何故か光りだしている。
紡ぎだす言葉が光っているのだった。
『闇は分散せよ。無は全を超える事能わず、清らなる光に飲み込まれん』
《お……の……れぇ……まだ――持って……いた……の……か》
グンターベルトは半分近く消えかかっていた。
「ヴェンツェル様、そこに転がっている私の荷物を私に投げてください!」
「荷物!?」
ヴェンツェルはアーティルダの指差した方を探した。グンターベルトの部下の男達が転がっているだけである。
「下敷きになっている男の更に下に、荷物があるんです。早く!! 奴はまたすぐ復活します!」
彼女が言うが早いが、ヴェンツェルは矢の様な速さで男達をその場から投げ飛ばした。地面に確かにのされていた布袋を背後に向かって放り投げる。
ウィリアードがはっしと掴んだ。中を開いて、アーティルダに見せる。
《……サ……セ……ル……カ……》
彼女が袋の中を破いて、小さく折り畳まれたメンブラーナを出すと同時に、それまで広場上空を包んでいた明るい光輝が消えうせた。
『大地は無を受け入れず――』
慌てて紙片を広げながらアーティルダは言葉をつむぐ。だが、さっきの様には光り出さなかった。
《人間風情……ガ……イイ……キ……ニ……ナル……ナ……》
時刻は夜なのだから、空が暗くてもおかしくはない。――それでも、星の一つも見えない上に、汚れを落としこんだかの様な幻が蠢いているのはどういうわけか。
『この世界を最初に言葉で創られた方は言われた――無限はないと。賢者レジェールの名において命ずる――』
「……おい、あれ……」
空の闇は、今やとてつもなく大きな鳥の形を成していた。翼は六枚。首は長く鎌の様に曲がって、鋭く長い爪のついた足が三本もある。
見たこともない魔物の姿に、さすがにウィリアードの声が揺れた。
「嘘だろ……魔物なんて状態を超えてる……」
アーティルダにはうろたえた様子はない、それが幾分救いに思えるが――果たして敵うのだろうか。彼は心配そうに、支えている女性を見守った。
レジェール、の言葉の辺りから、少しずつまた周囲が光りだしている。
『光に望まれた子らを守るべく、輪を描けと』
《消シ飛ベエェ!!》
グンターベルトの身体から、衝撃波が巻き起こった。
膨れ上がった光の球体がそれを跳ね返す。
弾かれた衝撃波が周囲に拡散して、広場の噴水や塀が一瞬にして音もなく消える。それは荒地になった、というものではなく、何も見えない空間が代わりに出来た、という状態だった。
その場にいた意識のある者達は、恐らくアーティルダを除いて全員思った――
自分達は、一体『何』を相手に戦おうとしていたのかと。
『同じくザディム=ヴォシニュの名において命ずる――神の大地を汚す事なかれ。則を乱す者に――』
彼らを包んでいる球体の光が大きくなっていく。
《グウ……ガアアアアアアアアア……ギギギギギギ……》
グンターベルトの身体がまた、少しずつ溶け出し始めた。
《ググルゥ……ググググ……ザディム……ノ名前ヲ口ニ出来ルトハ……!》
彼は苦しみながらも翼を激しく震わせ、先ほどより更に大きな衝撃波を放った。
《オマエ……ヤハ……リ……ホン……》
爆発の様な轟音が鳴って、球体の輪郭が揺れ動く。
「お、おい――」
ヴェンツェルは思わず声を掛けようとして、言葉を飲み込んだ。
アーティルダの表情が、既に全てを確定していたかに見えたのだ。
『――《消緘》の罰を!』
その瞬間、グンターベルトの巨体が消し飛んだ。
《ギャアアアアアアアアアアアアア!!!!》
この世のものとも思えない絶叫。実体が消えたその後に、断末魔となって響き渡った。