挨拶の流儀
‡原初の言葉に関する記述 1‡
その者はひび割れた醜い唇を開いて一言、
「“有”と“無”は分かたれるべし」
と『最初の言葉』を発した。
以降世界は二つの理に別れ、言葉は形と力を得た。
【初代図書館長レジェールの手記より】
瞼の裏に瑞々しい朝の気配を感じて、青年は目を覚ました。
閉じられたままのカーテンに、漏れ射す光で部屋の中は薄く明るい。この様子だと、外は晴れわたる好天なのだろう。
天蓋付きの豪奢な寝台から上半身を起こすと、彼は素早く視線を走らせて部屋の中に人がいるかどうか確かめる。「誰もいない」という自邸ではほぼ当たり前のことが、今は非常にありがたかった。
──今日はどうやら間に合ったらしいな。
無人の空間を埋めているのは、猫脚のテーブルに長椅子、それに寝台脇の首の長い円卓のみ。一見して高価そうな素材が使われていて、椅子に置かれたクッションの刺繍も見事だった。彼をこの館に泊めてくれた主人の、はたまたその娘達の趣味なのか、室内は優美ながらどこか華奢な印象が感じられる。
──こないだ泊った時はひどい目にあった。
一番最近にこの館を訪問した時の出来事を思い出して、青年は貴族らしからぬ精悍な顔をしかめた。就寝前に勧められた飲み物に薬を盛られた上に、目覚めたら隣にあられもない格好の女性が潜り込んでいた。ちなみにこの二つをやったのは同じ人物で、「薬が効きすぎて失敗してしまいましたわ」と臆面もなく答えたものである。いくらそれが国内一と謳われる魅力的な美女だったとしても、野獣に手を出すほど彼は相手に困っていなかった。
嫌な記憶を振り払って立ち上がり、右手にある衣裳棚に歩み寄る。細工彫りされた扉を開けた途端に、まばゆい色とりどりの贅沢な衣装が目に飛び込んできた。
そのどれにも目をくれずに、昨日着ていた唯一の自前の衣裳を選ぶ。
ここにあるものは全て、主人が親切に仕立ててくれたものだ。どこの舞踏会に着るのかという様な豪華さ。悪気はないのだろうが、全く実用的ではない虚飾の塊に見える。晩餐に招かれた時は申し訳程度に着る事もあったが、ほとんどが手を通さずに今に至っている。
そもそもたまに泊まるだけなのだから、こんなに衣裳がいるわけもない。
過剰な気遣い──あるいは期待とも言える──に辟易しながら、青年は扉を閉めた。
──多ければ良しというものではない。衣装も色気も、だ。
慌ただしい足音が聞こえて、青年はいくばくかの緊張をもって部屋の扉を振り返った。
やはり来たか。今日は“誰”なんだ?
だが予想に反して聞こえてきたのは、華奢な靴音ではなく金属がぶつかり、擦れる音だった。女の──来るのは女とわかっていた──足音にしてはやけに重く、力強い。
──ああ。今日はまだ爽やかに朝を迎えられそうだ。
ノックもなしにバタン、と両開きの扉が勢い良く開け放たれる。足音の主はなおもガチャガチャと音を立てながら、驚く程の早歩きで部屋の中に入って来た。
青年は茶色の瞳にからかいの表情を浮かべて口を開く。例え今強盗が襲って来たとしても歓迎しただろう。寝起きを襲われるのが恐れた相手でなければ、いくらでも迎撃する技量はあるのだから。
「朝から鍛練ですか、エンデゲルド嬢」
闖入者はよく通る張りのある声で答える。少しばかり嘲弄の響きがあった。
「よくおわかりですのね」
「それはそうでしょう。鎧を来て眠る公爵令嬢がいたら、お目にかかりたいものです」
あら、と甲冑の騎士は兜の前を手で上げやると瞳だけで笑った。きちんと機能しているのか疑いたくなる様な、透き通った水色の瞳だ。
「私は令嬢であると同時に武人ですわ。武人たるもの、いついかなる時も油断してはならぬもの。寝首をかこうとする慮外者が、どこに潜んでいるかわかりませんから」
卿もお気をつけ遊ばせ──そう言うなり彼女は左の腰に携えた細身の剣を右手で鋭く抜き放った。
空気を切り裂く短い音がする。
「おはようございます、ヴェンツェル卿」
そう言って微笑むエンデゲルドの剣は、青年が素早く掲げた円卓の寸前で止まっていた。
「……相変わらず手厳しいご挨拶ですね」
エンデゲルドは優雅な仕草で剣を鞘に納めた。
「そちらこそ、さすが並みいる強者揃いの王直属軍を束ねる剣豪でいらっしゃる。感服致しました」
「なんの、貴女がこれ以上屋敷の調度品を壊せば、姉上がたの説教を食らうと思い出したまで」
エンデゲルドの優越の滲んだ笑みが一変して雷雨の前の空になった。彼女は氷の様な色の瞳を更に冷たく光らせて、
「朝食の用意が整っています。下にお越し下さい」
そう言い捨てると来た時以上に足音荒く出ていった。動く度に甲冑は音を立て、誠に騒々しい。
──逆に、あそこまで色気のない女性も感心するがな。
次の瞬間、ひどく自分がえり好みをしているみたいで困惑する。彼は本来、『普通』を望んでいるだけだった。それが何故、この館ではこうも難しいのだろう?
明らかに怒り心頭な後ろ姿を眺めながら、青年は聞こえぬ様にそっとため息を洩らした。
パヴェレル公爵家。国内最大の由緒を誇る大貴族にして旧家。今彼は、その家にやって来ていたのだ。
未来の結婚相手の実家となるはずの邸宅で、個性的な娘達の中から一人を『婚約者』として選ぶために。