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メガネくん

作者: タイシ
掲載日:2026/01/23


囚人番号774:眼鏡と真実

薄暗い独房に、カツン、と乾いた音が響いた。壁に立てかけられた古い板切れに、爪楊枝の先で文字を刻む男の姿がある。その男、かつては世界の知性を測る栄誉ある役割を担っていたはずの人物、エドワード・フィンチは、囚人番号774として、ヨーロッパ某国の刑務所に収監されていた。


「おい、774番!何をごちゃごちゃやってんだ、飯だ!」


看守の怒鳴り声が通路に響く。エドワードは顔を上げず、黙々と作業を続けた。彼の細い指先が、板切れの表面を丁寧に撫でる。刻まれていたのは、複雑な数式と、見慣れない法律用語の羅列だった。


エドワードがこの場所にたどり着くまでの経緯は、あまりにも理不尽なものだった。彼はかつて、ノーベル経済学賞の選考委員という、その分野で最も権威ある地位にいた。彼の審美眼と公正さは、常に高く評価されてきた。しかし、その輝かしい経歴は、ある一つの事件を境に、音を立てて崩れ去る。


親友、マルクス・ヴォルフガング。マルクスは、エドワードが心から尊敬する経済学者であり、長年にわたる研究の末、画期的な経済理論を提唱していた。その理論は、当時の経済界に大きな衝撃を与え、多くの識者からノーベル賞に値すると絶賛された。選考委員であるエドワードにとっても、マルクスへの授与は疑いようのない事実であり、彼自身も強く推薦していた。


しかし、授賞式の数日前、エドワードは突如としてマルクスへの授与に反対の意を表明したのだ。


「マルクスの理論は素晴らしい。だが、まだ熟成が足りない。このままでは、将来的に大きな誤解を生む可能性がある。彼の名誉のためにも、今ではない」


エドワードの言葉は、選考委員会を震撼させた。長年の親友であり、最もマルクスを理解しているはずのエドワードの発言は、まるで裏切りのように受け止められた。マルクス自身も、エドワードの言葉に深く傷つき、落胆した。結局、その年のノーベル経済学賞は、別の学者の手に渡った。


その日を境に、マルクスは学界から姿を消した。彼の理論は正当に評価されることなく、彼は不遇の内に病に倒れ、この世を去った。世間はエドワードを「親友を裏切った男」「嫉妬に狂った男」と罵った。経済界からは徹底的に孤立し、彼は選考委員の職を追われた。


そして、その数年後、エドワードは身に覚えのない罪で逮捕され、この刑務所に送られたのだ。容疑は、大手企業の機密情報漏洩。しかし、エドワードには心当たりが一切なかった。彼は、これがマルクスの死に逆恨みした経済界による、巧妙な冤罪であることを直感的に理解していた。


「再審だ。自分の手で、この汚名を晴らさなければならない」


それが、エドワードが刑務所に入ってからの唯一の目標だった。しかし、彼の前には分厚い壁が立ちはだかる。法廷で自分を弁護するためには、法律の知識が必要不可欠だった。幸い、刑務所の図書室には法律に関する書籍がいくつかあったが、彼の視力は年々衰え、文字がぼやけてよく見えない。


そう、エドワードは眼鏡が欲しかったのだ。


「おい、774番!聞こえねぇのか!」


看守の声が、エドワードの思考を現実へと引き戻す。エドワードはゆっくりと顔を上げた。彼の眼鏡のない目は、看守の顔をぼんやりと捉える。


「看守殿」エドワードの声は、長年の沈黙のせいで、少し掠れていた。「眼鏡を、いただけませんか」


看守は眉をひそめた。


「眼鏡だと?ここはホテルじゃねぇんだぞ。そんなもの、簡単に支給できるか」


「しかし、読書をするのに必要なんです。法律を学ばなければ、再審に臨めない」


「ふん。再審だと?あんたは十分、罪を償ってるだろうが。諦めろ」


看守はそう言って、乱暴に食事のトレーを独房に押し込み、去っていった。エドワードはため息をついた。予想通りの反応だった。しかし、彼は諦めるわけにはいかなかった。


数日後、エドワードは再び看守に眼鏡を要求した。今度は、少し違うアプローチで。


「看守殿、私には一つ、特殊な才能がありましてね」


看守は訝しげにエドワードを見た。


「何だ、いきなり」


「私は以前、ノーベル賞の選考委員をしておりました。その経験から、人の才能を見抜くことにかけては、人並み外れた眼力があると自負しております」


看守は鼻で笑った。


「それが眼鏡と何の関係があるんだ」


「あなた様の才能を、この私が見抜いて差し上げましょう。もちろん、無償で。その見返りに、眼鏡を所望したいのです」


看守は呆れたように首を振った。


「馬鹿げたことを。そんな暇があるなら、大人しく労働でもしてろ」


しかし、エドワードは諦めなかった。彼は毎日、食事のたびに、運動の時間に、看守に話しかけ続けた。最初は無視していた看守も、その熱意に根負けし、ついにはこう言い放った。


「いいだろう。そこまで言うなら、お前の言う『才能』とやらを見せてもらおうじゃないか。ただし、期待外れだったら、もう二度と眼鏡の話はするな」


エドワードは小さくガッツポーズをした。これはチャンスだ。


翌日、エドワードは看守を呼び出した。


「看守殿。あなた様には、絵画の才能がおありですね」


看守は驚いて目を丸くした。


「な、なぜそれを知っている!?」


実は、この看守、密かに絵を描くのが趣味だったのだ。しかし、人にそのことを話したことは一度もなかった。


「ふふ、私の『眼力』ですよ。あなたの手の指の付け根には、絵筆を握ることでできる独特のタコがあります。また、衣服の袖口には、微かに絵の具の匂いが残っている。そして何より、あなた様の瞳の奥には、美に対する深い探求心が宿っているのが見て取れます」


エドワードの言葉に、看守は完全に意表を突かれた。彼はまさか、刑務所の囚人に自分の秘めた趣味を見破られるとは夢にも思わなかったのだ。


「しかし、私には才能など…」


「謙遜なさるな。あなた様がもし、その才能を磨けば、きっと素晴らしい画家になれるでしょう。ただ…」エドワードは一瞬言葉を切った。「少しばかり、デッサンが甘い。基本的な構図の取り方や、陰影のつけ方に関して、改善の余地があるかと」


看守は、エドワードの言葉に耳を傾けた。そして、不思議なことに、彼の言葉に妙な説得力を感じた。エドワードは続けて、絵画の基本的なテクニックについて、淀みなく語り始めた。彼の言葉は的確で、看守は今まで自分が抱えていたデッサンに関する悩みが、まるで氷が溶けるように解消されていくのを感じた。


数日後、エドワードは看守から、念願の眼鏡を手に入れた。粗末なものだったが、彼にとっては光そのものだった。


眼鏡をかけたエドワードは、図書室の法律書に没頭した。彼の学びのスピードは驚異的だった。ノーベル賞選考委員として培ってきた、複雑な情報を分析し、本質を見抜く能力は、法律の学習においても遺憾なく発揮された。


一方、看守はエドワードのアドバイスを受け、絵画の腕を着実に上げていった。彼はエドワードにデッサンを見てもらい、その度に的確な指摘を受け、目に見えて上達していったのだ。看守は次第に、エドワードに対する見方を変えていった。彼は単なる囚人ではなく、何か特別な才能を持った人物だと感じるようになっていた。


エドワードが法律の学習を始めて数ヶ月が経った頃、彼は看守に、ある相談を持ちかけた。


「看守殿、私の再審について、一つお願いしたいことがあります」


看守は少し緊張した面持ちで、エドワードを見た。


「何だ?」


「私の事件は、大手企業の機密情報漏洩という容疑で起訴されました。しかし、私は一切関与しておりません。これは、私を陥れるための巧妙な偽装工作です」


エドワードは、マルクスの死にまつわる経緯、そして経済界からの報復の可能性について、看守に語った。看守は、最初は半信半疑だったが、エドワードの真剣な眼差しと、彼が語る論理的な説明に、次第に引き込まれていった。


「私は、この事件の真犯人が、経済界の裏で暗躍する巨大な組織だと考えています。彼らは、マルクスの理論が公になることを恐れたのです」


エドワードは、マルクスの理論が、当時の経済界が隠蔽しようとしていたある真実を暴く可能性があったこと、そして、その真実が公になることで、多くの既得権益が失われることを説明した。


「マルクスの理論は、既存の経済システムに大きな変革をもたらすものでした。それを恐れた者たちが、彼を葬り去り、そして私をこの刑務所に閉じ込めたのです」


エドワードは、自身が読み漁った法律書から得た知識を駆使し、事件の不審な点、証拠の矛盾、そして経済界の動きとマルクスの理論との関連性について、看守に詳細に説明した。看守は、彼の話を聞くにつれて、この事件が単なる情報漏洩事件ではない、もっと深い闇が隠されているのではないかと感じ始めた。


「…しかし、私があなたに何ができるというのです?」看守は困惑した表情で尋ねた。


「あなたは、この刑務所の看守として、多くの情報にアクセスできます。特に、外部との連絡網や、物品の輸送ルートについて、詳しいはずです」


エドワードは、事件の背後にいる組織が、どのようにして彼を陥れたのか、その具体的な手口を解明するために、看守の協力を求めた。


「彼らは、私がノーベル賞選考委員として持っていた、ある種のデータにアクセスし、それを私に擦り付けたと考えられます。そのデータは、私が自宅で管理していたもので、外部から侵入された形跡はありませんでした。つまり、内部の人間、あるいは、私をよく知る人物が関与している可能性が高い」


エドワードは、看守に具体的な調査の依頼をした。例えば、彼が収監される直前に行われた刑務所への物品搬入記録の確認、刑務所内の通信記録の照合、そして、外部からの訪問者記録の精査など。


看守は、最初は戸惑っていたが、エドワードの真剣な眼差しと、彼が提示する証拠の矛盾点に、次第に心を動かされていった。彼は、エドワードが単なる復讐心から動いているのではなく、真実を明らかにしようとしているのだと感じた。そして、エドワードが自分に絵画の才能を見出してくれたことへの恩義も感じていた。


「…わかりました。私ができる範囲で、協力しましょう」


看守のその言葉に、エドワードの顔に、久々に希望の光が宿った。


数週間後、看守はエドワードに、いくつかの情報を持ち帰ってきた。


「774番、あなたが言っていた、物品搬入記録を調べてみたんだが…」


看守は、ある日付の物品搬入記録を指差した。そこには、エドワードが収監される直前に、彼の独房がある区画に、通常では考えられない量の「清掃用品」が搬入されていたことが記されていた。


「清掃用品?」エドワードは首を傾げた。


「ああ。しかも、その清掃用品を搬入した業者が、どうも怪しいんだ。登記されている住所は空き家で、連絡先も繋がらない」


エドワードの脳裏に、一つの仮説が閃いた。


「それはおそらく、刑務所内に盗聴器や監視カメラを仕掛けるための偽装工作でしょう。私が収監される前に、私の独房に証拠品を仕込み、私が何かを話すのを待っていたのかもしれない」


さらに看守は、ある訪問者記録について言及した。それは、エドワードが逮捕される直前に、彼のアパートの近くで目撃されていた、ある経済評論家の名前だった。その経済評論家は、マルクスの理論を猛烈に批判していた人物だった。


「その経済評論家は、私の逮捕後、突如として表舞台から姿を消しました。おそらく、この事件の黒幕の一味でしょう」エドワードは確信したように言った。


エドワードと看守は、協力して情報収集を続けた。看守は、刑務所の内部情報にアクセスし、エドワードは、その情報をもとに、事件のパズルを解き明かしていった。


そして、ついに、エドワードは真実にたどり着いた。事件の黒幕は、マルクスの理論が公になることで、莫大な利益を失うことになる大手金融機関と、それに加担する複数の経済学者たちだった。彼らは、エドワードがマルクスへの授与に反対したことを逆手に取り、エドワードに冤罪を着せ、マルクスの理論を闇に葬り去ろうとしたのだ。


エドワードは、看守が提供してくれた情報と、自身の法律知識を駆使し、再審の申し立てを行った。彼の弁護は、自らが学んだ法律に基づき、緻密かつ論理的だった。彼は、自身の無実を証明するだけでなく、事件の真犯人を特定し、彼らがどのようにして彼を陥れたのかを、法廷で明らかにした。


法廷でのエドワードの姿は、かつてのノーベル賞選考委員としての威厳を取り戻していた。彼の言葉は、真実を求める力に満ち溢れ、傍聴席を圧倒した。彼は、マルクスの理論が秘めていた真の価値、そしてそれがなぜ、闇に葬られようとしたのかを、感情を込めて語った。


判決の日。


「被告人、エドワード・フィンチ。無罪!」


裁判長の言葉が響き渡る。法廷は静寂に包まれた後、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。エドワードは、静かに目を閉じ、胸いっぱいに息を吸い込んだ。長かった闇のトンネルを抜け、ようやく光が差し込んだ瞬間だった。


刑務所を出たエドワードを、看守が出迎えた。看守は、エドワードに深々と頭を下げた。


「エドワードさん、本当に申し訳ありませんでした。あなたのことを、疑っていました」


エドワードは、看守の肩を軽く叩いた。


「気にするな。君がいなければ、私は真実にたどり着くことはできなかった。ありがとう」


看守は、少し照れたように笑った。


「いえ、私もあなたから多くのことを学びました。絵画の腕も、おかげさまで…」


看守は、手に持っていたスケッチブックをエドワードに見せた。そこには、以前よりもはるかに上達した、素晴らしいデッサンが描かれていた。エドワードは、そのデッサンをじっと見つめ、優しく微笑んだ。


「素晴らしい。君は、本当に才能がある」


エドワードは、自由の身となったが、彼の戦いは終わっていなかった。彼は、マルクスの理論を正当に評価し、再び世に送り出すことを決意した。そして、この事件を通じて得た経験を活かし、不当な冤罪に苦しむ人々を救うための活動を始めることにした。


彼の隣には、新しいパートナーがいた。かつて彼を疑っていた看守は、刑務所を辞め、エドワードの活動を支えることになったのだ。二人の間には、立場を超えた、深い信頼関係が築かれていた。

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