第5話
雪がちらついてもおかしくない12月のある日、僕は窓辺に置いた『しずめ』を両手でそっと持ち上げた。前に比べて軽くなった鉢。土の表面は乾き、ひび割れている。どのくらい水をあげていなかったのだろう。じんわりと罪悪感が胸に広がっていった。
このまま捨ててしまおうか。
年末の大掃除で出る他の不要品と一緒にゴミ集積所へ持っていこうか。この鉢がなければ、罪悪感や叶わない期待からも解放されるかもしれない。
ため息混じりに外へ視線を向けると、アパート前に引越業者のトラックがちょうど停まるところだった。そういえば隣の部屋が長いこと空いている。新しい住人が引っ越してくるのだろう。なんとなく興味が湧き、廊下を覗いていた。やはり隣の部屋に業者が荷物を運び入れている。その後ろを、住人らしき女性がそっとついてきた。小柄で、同い年に見えた。ふと手元を見ると、古びた植木鉢を大事そうに抱えている。どことなく自分と似た雰囲気が漂っていて、つい視線が合った。なんとなく不思議な共通点を感じて、互いに微笑み合う。
「こんにちは。……それ、ずっと育ててるんですか?」
勇気を奮って話しかけてみた。彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「あ、はじめまして……えっと、ずっと芽が出なくて……でも、なんとなく手放せなくて」
僕と同じだ。心の重りが、ふっと軽くなった気がした。「ちょっと待っててください」と言い残し、急いで部屋の中へ戻って『しずめ』を抱えて廊下へ出た。
「実は僕も『芽が出ない鉢植え』を持ってるんです」
彼女の瞳がさっきよりも大きく見開き、次第に満面の笑みが浮かんでくる。つられて僕も、少し照れくさく笑った。
新しい隣人――小林楓歩さんは女子大に通う二年生。大学の近くで新居を探していて、偶然ここを見つけたそうだ。そして『芽が出ない鉢植え』のことを話してくれた。
小林さんが子供の頃、よそへ転校する友達から「不思議な種子」をもらったそうだ。そしてその種子を育てて十年になるという。まさかここまで同じ状況とは想像していなかった。驚きのあまり言葉が詰まる。
「深沢さんはどうしてこの種子を?」
「えっ、あ……小林さんと同じです。親友から種子を貰って育てて……十年ちょっとに」
「え……こんな偶然って、あるんですね」
くすっとはにかむ顔が可愛いと思った。急に恥ずかしくなって下を向く。
「でも良かったぁ」
「良かった?」
「もう諦めようかなと思ってたんです。ここに越してくる時も捨てちゃおうかなって。でも持ってきた良かったです。一人じゃないって、分かったんで」
満足そうに微笑む彼女。彼女の放った「一人じゃない」という言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。僕も『しずめ』を捨ててしまおうかと考えていた。でもずっと心のどこかで求めていたのかもしれない。誰かも同じように育てていることを。一人じゃないと思わせてくれること。
そっと顔をあげて小林さんの顔を見た。彼女は嬉しそうに手元の鉢植えを眺めていた。僕と同じように、長い間ずっと芽が出ない鉢を育て続けていた人。心に引っかかっていた罪悪感や諦めの気持ちが、少しずつ溶けていく。
「……そうですよね。僕も、なんだか諦めそうになってたんです。でも、小林さんがこうやって持ってきたのを見て……まだ手放すのは早いかもって」
小林さんが顔をぱっと僕に向け、優しく微笑んだ。その笑みは、曇り空の下でもほのかに日差しが差し込むような、穏やかであたたかなものだった。
「深沢さん、またこれからも一緒に育てていきましょう。いつか芽が出るかもしれないし、たとえ出なくても……何かをずっと大切に思っていられるのは……素敵なことだと思うんです」
彼女の言葉が心に響く。「一緒に育てていきましょう」と言われた瞬間、長い間ずっと閉じ込めていた孤独や失望に光が差し込んだ気がした。
「……そうですね、これからも大事にしていこうと思います」
僕はそう言いながら、しずめの鉢を両手でしっかりと抱えた。目の前では、小林さんも、同じように自分の鉢植えをそっと見つめている。お互いに何も言わず、しばらくの間ただ静かに立っていたけれど、その沈黙の中に確かな安心感があった。
冬の冷たい風が吹き抜けていく中、僕たちの間には、不思議と温かな空気が流れていた。そして、それはまるで新しい芽が静かに目覚めようとしているような、小さな希望をもたらしてくれる気がした。




