第3話
引っ越し後の生活は思った以上に忙しく、次第に植木鉢のことを思い出す機会も少なくなっていった。
実家を離れて初めての帰省は、年末ぎりぎりの大晦日。リビングのソファで横になり、旅の疲れを癒す。やはり実家は格別だ。台所からはおせちの準備をしているのか、良い匂いが漂ってきた。
「はい、これ。味見してみて」
母さんが小皿を差し出してくる。皿には大好物の八つ頭の煮物が乗っていてた。口に運ぶと、柔らかくてホクホクした食感と甘辛い味が広がり、心がほっこりと温まった。
「硬さどう?」
「ちょうどいいよ」
「味は?」
「ばっちり」
実家にいた頃は、母さんの料理を食べるのが当たり前だと思っていたけど、今はそのありがたさが身に染みる。離れて暮らすようになってから、自炊をするようになり、仕送りや時々届くぎっしり詰まった食料の箱に心から感謝している。
そんなことを考えながら、しんみりしていると、突然ソファの背もたれ越しに妹が飛びついてきた。
「お兄ちゃん、おかえりー!」
「おい、痛てーよ」
小さい頃からの癖で、妹はよく僕に乗っかってくる。もう中三なんだからやめろと言ってもお構いなしだ。
「いいじゃん。今日も勉強してきたんだから、ご褒美ー」
そう言ってしがみつく妹の頭を撫でながら、僕は「よく頑張ってるな」と声をかけた。大晦日にもかかわらず、受験生の妹は友達と図書館で勉強してきたらしい。僕が中学生の頃は遊んでばかりだったから、素直に感心してしまう。
「そこの袋のやつ、東京土産」
「え、ほんと? 開けていい?」
土産と聞いた途端、妹は僕から飛び降りた。東京の定番菓子と、妹が喜びそうな可愛い文房具を選んでおいた。僕は道具なら何でもいい派だけど、妹は「東京の文房具は機能的で可愛いから最強だ」といつも言っている。
「かわいい! ありがとう、お兄ちゃん。お母さん見てー」
文房具でこんなに喜ぶなら、買ってきた甲斐があるというものだ。妹が成人したら、さすがにこれじゃ通用しないかもしれないけど。
夕飯は家族四人で鍋を囲んだ。父さんの晩酌に付き合いながら、僕は大学や東京での暮らしを話す。妹が「いいなぁ」を連発し、父さんも上機嫌で酒を飲んでいる。母さんに「あんまり飲ませないでね」と釘を刺されていたので、ほどほどに勧めていたが、頬をうっすら染めた父さんの顔を見ていると、なんだか少し歳を取ったように見えて不思議な気持ちになる。毎日一緒にいた時には気づかなかったことが、離れて暮らしていると見えてくるものだ。
そんな風に話しているうちに、ふと「そういえば、あの植木鉢はどうなったんだろう」という思いが頭をよぎった。いつもの場所にあるはずだが、確認しなければ落ち着かない気持ちが胸に広がる。食事の途中にも関わらず、席を立って庭へ向かう。後ろで妹が何か言っているが、構わず外に飛び出した。
大晦日の夜空は澄み切っていて、星がよく見える。庭の植木鉢が並ぶ場所に行くが、見当たらない。ため息をつくと、白い息が闇に溶けていった。
「お兄ちゃん!」
後ろから妹の声がする。
「どうした?」
「どうした、じゃないでしょ。急にびっくりさせないでよ」
「悪い」
自分の行動に気づいて、思わず笑ってしまった。
「もう、笑いごとじゃないって」
そう言いながらも、妹は何か察したようだった。
「あれ、まだあるよ」
「え?」
「植木鉢、まだちゃんとあるよ。ね、お母さん」
「冬だから庭のビニールハウスにしまったのよ。土が凍るとダメになっちゃうから」
まだ捨てられず、大事にしまわれていた。僕は胸をなでおろす。なんだかんだ言って、気になっていたことを自覚する。
家族四人でぞろぞろとビニールハウスに向かった。父さんはわけもわからないといった顔をしているが、なぜかついてきた。小さな空間にみんなで入ると、妹が植木鉢を指差した。
「ほら、これ」
相変わらず土だけの植木鉢が、昔のままそこにある。古い友人に再会したような気持ちがこみ上げる。「ただいま」「おかえり」――そんな会話が聞こえてきそうだった。