第二話【誰が為に狼煙は上がる】2
二百年前、ここより遥か西にある人間の都の政を一人の貴族が乗っ取り、権力を恣にしていた。
その男は左大臣の座を手に入れても満足せず当時の女王にまで取り入って自身を婿として迎えさせ、遂にはヒノモトの頂きに立とうとしたが、それを由としなかった者達がいた。
それがカゲツ傭兵団と、彼等に担ぎ上げられた女王の姉だった。
カゲツ傭兵団は女王の姉にこそ正当な王位があるべきとして、当時の王家、ひいては国に刃を向けたのだ。
……我等の祖、光家の若き女武者、光義日は左大臣の側として、即ち国を守る為に戦ったそうだ。左大臣は苛烈な為人で女王からもあまり好かれてはいなかったそうだが、実力があったからこそ上り詰めた者が蔑ろにされるのは間違っていると考えて味方に付いたと聞いている。
だが、カゲツは卑怯にも、都に夜討ちを仕掛けた。
そして左大臣を討ち取り、女王を流罪にすると、己の息の掛かった女王の姉を即位させ、ヒノモトの政を奪い取った。
東ヒノモト……即ちはこの地へ落ち延びた義日は、初めこそ卑劣な亜人どもは直ぐに見限られる、義は己にあると考えていたそうだが……。
散りぢりになった他の武士は、誰一人として義日の許には来なかった。
そして一月も経たない内に皆してカゲツへの恭順を示したそうだ。
義日が見限られたのは、齢二十一の小娘であったから……とは私は思わぬ。
カゲツ傭兵団の圧倒的な力を前に、誰もわざわざ目に見えた死を選ぶ訳が無かったのだろう。
武士としての誇りも、鎬を削った仲間も、そして国を取り戻すという大義すらも失った義日は、己の破滅を悟ると望みを絶たれた悲しみに嘆き叫び、翌る日の朝日が昇る頃には姿を消していたそうだ。
その後の義日がどうなったのかは……恐らく私のような血の繋がった子孫以外は、誰も知らない……。
語り終えた旭は、尚もトキヤを掴んで離さない。
「……成程。じゃあ、あなたはその義日さんの無念を晴らしたいから挙兵を考えている訳ですか」
旭の事を誰も彼もが『遊女』と揶揄していた事から考えても、彼女の祖先……光義日が絶望し、姿を消した後にどうなったのかは想像に難くない。
それをわざわざ旭に訊く程のデリカシーの無さを、トキヤは流石に持ち合わせていなかった。
「なに、遠い祖先の恨みだけでは雲を掴むような話であろう。それだけではなくてな」
話す覚悟を決めるかのように目を閉じて……意を決したように再び目を開き、旭は続けた。
「私は、このままでは気が触れて死ぬ。その運命から逃れたいが故に、戦う事を決めたのだ」
「気が触れて……? どうして」
「義日から続く我等光家は、どう謂う訳か娘しか生まれないのだが……その須くが遊女を辞められず、子を一人産んで直ぐに死んでいてな。恐らく二十の半ばを越えて生きていたのは、私の母上の他にはいなかった筈だ」
二人の間には、異様な緊張感があった。
少なくともトキヤの方から話を深掘りは到底出来ないような雰囲気だった。
「……察しの通りだ。わしの母も、顔も知らぬ何代にも渡っての祖先達も……皆、男と一度交われば、その快楽で心を壊されて、色病みから抜け出せなくなっていったらしい」
きっと世の中の多くの男は、これほどの美しい女からこんな話をこの距離感で聞けば、直ぐにでも手を出して自分の虜にしたがるのだろう……そうトキヤはぼんやり思い至った。
幸か不幸か、彼は旭に対してその美貌を根拠に無償の好意を抱く事も無く、或いは私欲の為に目の前の思い詰めた女に卑怯で節操のない事をしでかす男でも無かった。
「……私は恐ろしいのだ。空の青さも、木々の緑も、そして、斯様に私を労ってくれる者の温もりも全て分からなくなり、目の前のお前の事も、唯私が快楽を貪る為だけの物としか思えなくなる……そのような酷い有様には、堕ちぶれたくない……!」
遂には泣きじゃくりながら抱き締めてくる旭を前に、トキヤに残された答えは一つだけになってしまっていた。
「……出来る限りの事を、させていただきます」
トキヤの返事に、旭はすっと顔を上げた。
「あなたがアニキを頼ったのと同じように、俺だってこの世界の事はそれ程詳しくない。俺に出来る事はそんなに多くないとは思いますが、同じアニキに助けられた者同士、手を取り合わせていただけますか?」
目尻の涙を拭って、旭はトキヤに縋るような目を向ける。
「連れて行ってくれ……私を、光旭を覆うこの暗い夜の帷から、希みに満ち溢れた明日へ、どうか連れて行ってくれ……!」
「連れて行けだなんて身勝手ですよ。一緒に明日を探しに行きましょう」
翌朝。
「トキヤ、お前が言っておった通り、この鎧わしにぴったりだ」
「良かった。俺と旭さんって背が近いからイケるんじゃないかなって思って」
挙兵の準備を進めるキタノ傭兵団の一角で、他愛のない話を交わす二人。
彼等を微笑ましげに見守る振りをして、トキタロウがさり気なく「なあ、ぶっちゃけオレでも説得は無理だと思ってたんだけどさ……どうやったんだ?」と旭に囁くも、旭はトキタロウから離れて距離を置いた。
「愚問だぞトキタロウ。わしの頼みを誠実に断ったトキヤだからこそ、わしも誠実に、お前にも言わなかった身の上の全てを曝け出して頼み込んだまでだ」
そう言ってトキヤに歩み寄ると「なあ、トキヤ!」「ちょっ、何を……違うからなアニキ! 俺はアニキ一筋だから。何でそんなにベタベタするんですか……」恥ずかしがるトキヤの肩を抱いて笑顔を見せた。
「けっ、オレにもそんな顔しなかったじゃねえかよ。妬けるなあ」
「お前は都合の良い事しか言わぬのが悪い。左様な奴に靡くのは、左様な奴を利用したい女子だけよ」
「へいへい、どうせオレは薄っぺらくてヘラヘラしてるだけの尻軽オヤジですよぉーだ」
拗ねてトキヤの方にちらっと目を向けるトキタロウだったが……。
「そんな顔したって事実だろ、アニキ」
「そりゃねえよトキヤぁー」
和気藹々と話す三人だったが、ふとトキヤが何かに気付いたような顔をした。
「どうした? トキヤ」「ああ、ちょっと……喉が渇いたから水を」「うむ、分かった。なるべく早く帰って来るんだぞ」「えっ……? あ、はい」「わしをこの節操無しのすっとこどっこいと二人にして欲しくないと言うておるんだ、分かるか?」「あっ、そういう事ですか……分かりました、なる早で帰ってきます」
そそくさと部屋を出たトキヤは、そのまま廊下を二回ほど曲がった先の部屋へと入ってゆく。
中にいたのは気怠げな態度で脚を組んで立っているジョンヒと、内股座りで用意されていた煎餅を齧っている白い直垂を着たニャライだった。
「調べはついたか?」
トキヤの問いに、ジョンヒは小さく溜息をついた。
「ええ。あの子、嘘はついてないみたい。昨日アンタが旭ちゃんから聞いたって話は大体全部裏が取れた。確かにあの子は遊女として育てられてて、初めての客を取る前の日に女衒の根城から脱走してきたみたい。良かったね、処女厨のトキヤ」
「そんな趣味はビタ一文無えよ。でもありがとうな。お陰であの人の話をロクに聞きそうにない目代さんには絶対ぇ渡せねえって事は分かったよ」
「あたし等で守り抜こうね、トキヤ」「お前にそう言ってもらえると心強いよ」
「あのー、二人でいつまでイチャイチャされます?」「「そんなんじゃない!」」
息ピッタリの反論にニャライは思わずケラケラ笑うも、すぐに真面目な顔に戻って話し始める。
「遊女の家系図なんてものは流石に残ってなかったけど、その女衒さんが200年は続いてる老舗だったからなんとか足取りを追えたよ。旭さんのお母さんはあの人を産んだ数年後に『歩き巫女になりたい』って言って行方不明になったみたいだけど、その前の代も、前の前の代も、みんな確かに20代前半で衰弱死したっぽい。あくまでそう生きて死ぬ事を選んだ本人の意思を尊重すべきなんだろうけど、流石にちょっと、聞いてて居た堪れない一族だなって、思った……」
「辛い調査をさせてごめんな」「大丈夫、この世界に来てこういうのには慣れたから」
口振りでは気を病んでいる様子なのに煎餅をさくさく食べ進む速度は落ちていないニャライにジョンヒは白々しさを感じたが、トキヤは気付いていない様子だった。
「それで、所謂初代さん……義日さんについての言い伝えも聞いてきた。まあ、そんなに中身のある話じゃないし、想像つくような内容でしかなかったけど」
「絶望して遊女になって、現実逃避で死ぬまでヤり狂って早死にした……そういう感じか」
「そう、ホントにトキヤが言ったそのまま。だから私達とこの世界の人達の価値観って、だいぶ違うなって思った。私なら幾ら追い詰められても、そんな事しようとも思わないから……」
そうして、三人の情報交換会は沈黙をもって終わりに向かう雰囲気となっていったが……。
不意にトキヤがニャライの方へと顔を向けて、気まずそうにし始める。
「調べてきてくれたのに、更にお願いをしてしまって悪いんだけど……もし良かったらで構わないから、さ……」
「あのさトキヤ、さっきから言おうと思ってたんだけど、なんで副団長の私に参謀のトキヤがタメ口利いてるのかな?」
「へっ? ……えっ?」
思わず素っ頓狂な声を漏らしたトキヤの問いに答えるかのように、トキヤが背にしていた襖が開け放たれた。