第十一話【奈落の果て】3
周りの誰もが……それは旭さえも、円の突然の行動を前に理解が追いつかず呆気に取られている内に、円は苦しげにどかそうとするトキヤの手を自分の手で絡め取り、深く口付けを交わし続ける。
そして酸欠状態で意識が朦朧となったトキヤの身体からぐったりと力が抜けたのを見計らって、円は彼の上に跨ったまま口を離した。
「え……な、何……?」
状況も円の意図も全く分からないトキヤは恐怖すら覚えていた。
「義兄上……どうですか? 私、こういった事は初めてで、男性には怖くて触れた事も無いのですが……上手くやれていますか?」
『男性には怖くて触れた事も無い』という発言に旭とトキヤ以外の全員が白けた目を向けたが、円は気にも留めない。
「分からない……俺だって、旭以外には殆ど……」
「では、私と義兄上はお互いに、初めて同士のようなものなのですね」
円は顔をほんのり紅潮させながらも『初めて』にしては慣れた様子でトキヤの耳元へ囁いた。
「っていうか、ホントにやめろ、俺には旭が……!」
そう言ってトキヤは旭の方へと顔を向けた。
旭は……先程までの惚けた表情はすっかり失われて、目を見開いてこちらを……正確には円を見ながら拳をわなわなと震わせていた。
「またそうやって、二言目にはあさひ、あさひ……と姉上の名前を呼ばれる。私は旭ではなく円です。それとも、義兄上は私の事、名前も呼びたくない程にお嫌いなのですか?」
円は不機嫌そうに表情を曇らせながら、指をくるくる円を描くようにトキヤの胸の上で這わせるも、
「当たり前だろ! テメエなんかより旭の方が大事なんだよ!」「あうっ! 逃げないで下さい、義兄上……!」
いい加減堪忍袋の緒が切れて怒鳴り散らしたトキヤに突き飛ばされてしまった。
「ごめん旭、いきなりあんな事してくる奴だと思わなかった」
「い、いえ大丈夫です、執権様……最後はちゃんと拒んで下さったから、わたしも安心しましたわ」
汚いモノに寄り付かれたかのように服を払ってから旭の許へ戻ったトキヤと、不安を拭い去ろうとするかの如くトキヤに抱きつく旭。
「それです」
2人の言動に、すかさず円が指を差してきた。
「それのせいで義兄上は姉上の事しか目に入らなくなってしまっている。そうやって姉上が、自分が頼れる人は義兄上しかいない、義兄上に裏切られたら自分は死ぬか心が壊れてしまう、そんな風に思わせるから。お聞かせください姉上、義兄上なんかよりもっと強ければ賢明な男性も多くいるでしょうに、何故義兄上一人に無理をさせてまで頼ろうとするのですか? 義兄上も義兄上で、何故斯様な姉上の言いなりの立場に甘んじているのですか?」
それはトキヤと旭の関係性の核心に迫る問いだった。
トキヤが旭を愛する理由、
旭がトキヤを慕う理由は、
「俺等はそうなる運命だったからだ」
「我等はそうなる運命だったからだ」
そんな糊塗された言葉で互いに結論を先送りし続けてきた。
それ以上踏み込めば、面倒な男と思われて有能な者と取り換えられるかもしれないから。
それ以上踏み込めば、面倒な女と思われて愛想を尽かされ逃げられるかもしれないから。
唯々互いに、
相手から必要とされているのだからそれで構わない。
騙されている事に甘んじているからそれで構わない。
そういう事にしていたから……。
運命、そんな言葉でしか答えられない2人を前に、円は呆れた様な溜め息をついた。
「御二人は歪んでいます。歪んでいる上に呪いまで積み重なってしまったから、余計に拗れてしまっている。だから義兄上は姉上が困っていても、本当の意味で助ける事が出来ず、こうして呪いによる快楽に逃げさせる事しか出来ない」
「でも、旭が信じられるのは俺だけなんだよ。だから俺が全部引き受けるしか……」
「ですからそうではなく……御二人だけで抱えている事が多過ぎるのです。もう少し、誰かを頼る事は出来ないのですか?」
「それはならぬ……わしはトキヤ以外の何者も信じられぬ。わしが信ずる事の出来る者は、如何なる事が有ろうと死なず、如何なる危機に瀕してもわしを救ってくれる、この男の他には誰一人としておらぬ」
「それは本当に義兄上にしか出来ない事ですか? 姉上程に聡明ならば、本当は全て分かっておいでの筈でしょう」
今度は旭の手を取って、円は続ける。
「義兄上が身の丈に合わぬ役目を背負わされて苦しんでおられるように、姉上も己の器では受け止めきれない義兄上の想いの全てに無理に応じる必要はないのです」
「黙れ……! 此奴はわしの為だけに生き、わしの為だけに死ぬのだ。それ以外の生きる道を歩む事は、決して許されぬ……!」
「姉上、例えそうまで身も心も尽くして義兄上の心を繋ぎ止めようと為されても……いえ、己を傷つけてまで義兄上を慕おうとする限り、逆に義兄上の心は姉上を思い遣って、ますます離れてゆくばかりですよ」
「勝手に決めつけてモノ言わないでくれ。俺が旭をこんな状態にしちまったのに、それを投げ出して逃げる訳無いだろ。俺は旭が頼ってくれたから今がある。弱くてバカですぐ騙されてばっかりのこんな俺と結婚までしてくれた旭の恩は、海よりも深くて山よりも高い。それを裏切るなんて、絶対に許されない事だ」
「義兄上、左様に姉上を義理と責任で縛り付けて己を愛する事を強要するやり方は間違っています。建前の運命、建前の契り、建前の呪い……左様なものに頼っている内は、姉上の義兄上への揺るがなき想いを疑っているに等しいのではありませんか?」
3人の会話はまるで噛み合っていないように聞こえる。
だが……。
「では、どうすればよいのだ……!? 私は、もう限界なのだ……! これ以上、皆の役に立ち続ける事も、これ以上、皆を導いてゆく事も、最早私には出来ぬのだ……! 私よりも上手くやる奴がいるのならば、私がヒノモトの武士の頂に成れぬのであれば……! 私はせめて、此奴の一番の女として生きていきたい……なのにそれすらも、私には出来ぬ事だと謂うのか……?」
円の言葉は、確実に雪融けを齎し始めていた。
「確かに、姉上の仰る通り、真仲様の御噂はその全てが勇猛果敢にして清廉潔白、まさに武士の鑑とでも謂うべきものです。故にこそ姉上、それらの華々しき聞こえに姉上が合わせて立ち向かう義理は何一つありません。姉上は姉上のやり方で、真の武士とは何者であるかを示せば良いのです」
「その真の武士とやらは、酷く狡猾で粗暴だな」
「ええ。比類なき知略と決断力に満ちた、ヒノモトの人々の頂に立つに相応しき御方です」
「左様な者を人々が敬い憧れるとは思えぬ」
「初めは御味方が義兄上一人だけであったとしても、志を失わぬ限り、必ずや人々は姉上こそがヒノモトを救う光と認めましょう」
「……だが、その味方はもう、失う事となるのだろうな」
円の言葉を受けて、旭は……立ち上がった。
そして、何事も話せないまま己を見守る男を一瞥した。
「トキヤ……身勝手な事を言う。やっぱり私は、もう一度……己の力を信じたくなった。故に、お前の私を守りたいと謂う意志を踏み躙る。そしてお前曰くの苦しみの渦中へと、この身を再び投じようと思う」
旭は、きっとそうすればトキヤはもう己の許から消えていなくなってしまうと分かっていた。
「そうか……俺は結局、何の助けにもなれなかったんだな。でもその決断は尊重したいと思う。だから、今までありがとうございました、旭さん。どうか、他の転生者達とは、これからも仲良くしてやって下さい」
トキヤは旭の予想通り、心からの感謝の言葉で締め括り、旭の前から……そして、
「えっ、ちょっとトキヤ、何処行くの……? トキヤ!?」
ジョンヒが呼び止めるのも無視して、彼等全員の前を通り過ぎ、廊下の奥へと姿を消した。
「ねえ、旭ちゃんもどうして止めないの……!? トキヤの事好きじゃなかったの? ねえって!」
焦り、喚くジョンヒだったが、互いの心は決まりきっていた。
「わしはやっぱり、どうしてもヒノモトの人々の頂に立ちたい。その座を誰にも譲りたくない。故に……これより先、天に見放されようと、仲間が尽く討ち取られて死に絶えようと、慕った男に逃げられようと……独り、生き続ける覚悟を決めねばならぬ。己の進む道を妨げる者は、例え愛した者であろうと、斬り斃さねばならぬ。そうでなくば、我が望みを、我が母や遠き祖先の無念を、この手で晴らす事が出来ぬ。全て無碍にしてしまう」
「それがトキヤと別れる理由になるの……!?」
「わしが立ち直る事で奴の心を折ってしまった。これ以上隣に無理に居させても、誰も幸せには成れぬ。ならばトキヤがしたい様にさせてやりたいのだ……それが奴を想い慕った、私に出来る数少ない事の一つではないか?」
旭の声は震えていた。
「トキヤはそういう奴じゃねえんだよ旭さん……あんたがワガママ言ってやらねえと、ホントにアイツはどっか行っちまって、二度と帰ってこなくなるって……なあ! 聞いてんのかよ!?」
シャウカットは苛立って旭を怒鳴りつけてしまうも、彼女は分かった風な微笑を返すだけだった。
「……そうかよ。ま、俺としてはライバルが道を譲ってくれたのは、素直に有難えよ……バカじゃねえの、2人とも」
「さて、己の覚悟で奴とも終いと決めた故であろうか、呪いによる苦しみも薄れてきおったわ。お前達の言いたい事もそれだけなら、わしはそろそろ行こうと思う」
旭はもう、後ろを振り向く事は無い。
「トキヤ……私にフラれた時から、ホンットに何も成長してなかったんだね。心底ガッカリしたよ」
そこにトキヤはいないのに、ニャライは最大限の侮蔑と罵詈雑言を吐き捨てた。
「……野良転生者になって暴れられても面倒だ、我々ヤマモト傭兵団が後で身柄の確保ぐらいはしておく」
ペイジはこんな時でも妙に冷静な態度を崩さない。
「……旭ちゃん見習うわ。あたしも。あんなダメ男、さっさと忘れよっと」
最後に俯いて髪で表情を隠したジョンヒが、いつもよりもずっと低い声で独り言を呟いた。




