第十話【堕ちた姫】1
「か、風邪? 旭様は大丈夫なのか?」
「寧ろ心配なのはあなたの方です。旭が伝染してしまってないか……そういう事なので、申し訳ありませんが、また旭が元気になったら呼ばせてください」
約束通りトキヤが朝早くに現れるなり『旭が風邪をひいてしまった』と伝えられた真仲は、唯々困惑するばかりだった。
「まあ、私は今のところ大丈夫だが……旭様に良い便りが出来るよう、励むとしよう。世話になったな、トキヤ殿」
「どうかお気をつけて」
軽く挨拶を交わしたトキヤは、その足で旭の部屋に戻る。
「う、うぅ……トキヤ……トキヤ、助けて……」
服をはだけさせて蹲り、呻き苦しむ旭は、目の前に戻って来たトキヤが立っている事にも気付いていない様子だ。
「身体の具合はどうだ? 俺が誰だか分かるか?」
「トキヤ……身体が、熱い……もう、これ以上は、やめて……!」
トキヤに問われた旭だったが、いつもの不遜な態度を演じる余裕も無い。
寝床の上を這いつくばりながらトキヤの脚元に辛うじて辿り着くと、虫の息と謂う他無い声を上げながらその足首に腕を搦めて情けを乞う。
そんな旭の必死の願いを聞かされたトキヤは、
「なんだ、まだ正気が残ってるのか」
一瞬も戸惑わず踏み躙った。
「あ……ああ……い、嫌だ、やだあああああ……!」
「そんな往生際の悪さもお前らしくて愛おしいよ、旭」
まるで噛み合っていない会話を交わしながら、トキヤは旭の脚を掴んで股を開かせる。
旭は上手く力が入らないのか、全く抵抗の体すら成していない。
「やめてくれ、トキヤ、やめてください! 後生に御座いますから! これ以上は、私が、私でなくなってしまう、まだ、まだ今やめて下さったら耐えられるから!」
最早恥も外聞もなく、旭は己が『刀』と喩えていた相手に命乞いをする。
滅茶苦茶な敬語を使って、素直なだけが取り柄の筈だった青年の、そこに確かに存在した良心へ訴え掛ける。
「もう、やめよう。お前は充分頑張ったよ。後は俺がアニキ達と何とかしていく。だからもうこれ以上壊れてしまう前に……楽になってくれ、旭」
だが、全ての希みは絶たれた。
「あ……あは、あはは、あはははは、あははははははは……そうか。もう、駄目なのか。私はもう、武士としての私の生きる道は、もう、これより先には、無いのか……」
その笑いは自嘲なのか、最も信用していた者の裏切りが可笑しかったのか。
その涙は悲しみなのか、あるいは正気を完全に失う……即ちは実質的な死を前にした恐怖なのか。
確実に謂える事といえば、トキヤは自身が守り抜こうとしたものを守りきれないと諦めた結果、旭を完全に壊してしまったと謂う事実だけだろう。
「相分かった……この運命を受け入れよう。その上で、三つ、遺言を残しておく。
一つ、これよりお前を執権として任ずる。何も出来なくなった私の代わりに、この国の全てを背負って生き続けるがいい。
二つ、何者も信用するな。タンジンやガニザニだけでなく、お前の大好きなトキタロウでさえ、国主の立場となっては利用される事を避けるべき敵だ。
そして……三つ。色病みに罹った私が、どれだけ男を求めて堕ちぶれようとも……お前以外の誰にも、この身体を穢させるな」
「当たり前だろ! お前はずっと俺のモノだ……!」
最後の頼みを聞いて大真面目に声を荒げたトキヤを前に、旭は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「有難い……否、忝く存じます、執権様……このわたしを、執権様附遊女のあさひを、末永く愛でて下さいませ……」
捻じ込まれた舌も、唾液も、全てが痺れる程に甘く感じて、旭は身体を激しく痙攣させながら力の入らない様子でトキヤとぎこちなく指を絡め合い、そして、目の前の男以外の何も分からなくなった。
「これからもずっと一緒だからな、旭……」
旭が病で倒れたという名目上、御所には誰もいない。
静かな真昼間の廊下をトキヤは一人、ぼんやりと歩いていた。
朝方、真仲を帰して部屋に戻り旭を愛し続け、昼前になって漸く旭は落ち着いた……というより、体力の限界に達して気絶してしまった。
恐らく、また夕方には目を覚まし、自身を求めてくるのだろう。
これから先の事を考えれば、自分一人で旭の面倒を見続ける事は……体力的な問題は転生者である以上存在しないも同然だが、四六時中旭を抱いている訳にもいかず、難しいところがある事は否めない。
それでも……まともだった頃の旭と交わした最後の約束を破るつもりはない。
彼女を愛しながら、彼女の代わりに政を仕切っていくしかない。
宙に浮いたままの菱川真仲謀殺計画は……最早破綻しているので中止するしかないだろう。
だが真仲を野放しにしていては神坐の権威が失墜する。
当初の謀殺計画は中止するにしても、何らかの手段を講じなければならない事は確かで、その計画を遂行するにあたって彼女の信用を得ている自身の存在は不可欠に等しい筈だ。
「……手っ取り早く真仲を無力化する方法、何か無いか」
そんな事をぼやきつつ廊下を歩いていた彼の前に、不意に青い狩衣の男……イタミタンジンが現れた。
「おめでとうございます、トキヤ」
「何を……いや、あんたの耳に入ってない方が可笑しいか。それにしたって冗談キツいですよ、タンジン」
「おやおや、人一人を殺してきて尚その余裕とは。着実に我等が王に相応しい風格を備えてきていますね?」
「殺してきた……? 何言ってんですか?」
「え?」
珍しい事に、タンジンはいつもの芝居がかった様子ではなく、完全に素の調子で疑問の声を上げた。
「で、では……ちょっと待ちなさい! ではアナタはどうして旭を部屋に閉じ込めている!? まさかアナタ……!」
「なるほど……その話振りからして、この結末以外の全てがあんたの掌の上だった、そうなんですね? タンジン」
「これでは、アナタを旭に代わって神坐の王に祀り上げられない……何という事だ……何という事だ!」
計画が失敗した事を悟ったのだろう、タンジンはトキヤの問い掛けにも応じず取り乱した様子で独り言を口から垂れ流し続ける。
「それはこっちのセリフだ! 旭が俺に殺してくれって頼み込んでくるまで苦しめやがって! 俺を王様にする? そんな事になっても何も嬉しくねえんだよ!」
旭の正気を奪った自分の選択がタンジンに操られた結果だった事にトキヤは憤慨し、彼に詰め寄る。
「ワタクシは嬉しいですよ!? 手塩に掛けて育てたアナタがヒノモトの支配者として君臨するのですからね!」
それでもタンジンは懲りずに『トキヤなら分かってくれる筈』と言わんばかりに理解を求めてくるのを止めない。
「あんたの私情なんざどうでもいいんだよ! 今更何言ったって、もう旭は……元に戻らねえんですから……俺が旭の面倒を見ながらアイツの代わりに政務を全部やるのは、流石に難しいんじゃないかと思うんです。こうなったのはあんたがこの計画ぶん回したのが原因なんですから、幾らかは俺の代わりに働いてもらいますからね」
怒り、悲しみ、そして目の前の現実的な問題を前にした冷静な判断。三つの思考が並行して進むトキヤの一見支離滅裂な会話の全てを受け止めて、
「ワタクシの事なんてどうでもいい、ですか……まあ、それでも構いませんよ。今は大いにワタクシを憎みなさい。アナタの仰る通り、そんな事をしたところで旭はもう呪いから逃れられないのですから。そして、ワタクシがアナタの代わりに政治を担う話については、お断りです」
「えぇ……」
タンジンは全て容赦無く切り返した。
「神坐の頂点に立つ者の責任です、アナタだけの力で旭の代わりを務めなさい。その代わり、旭の苦しみなんてどうでもいいのですが旭の苦しむ姿を見てアナタが苦しむ事は看過出来ないので、呪いを制御する為の方法を考えておきましょう。大丈夫、まだアナタとワタクシは同じ星を見て歩いていけます。ではご機嫌よう」
「あっ、おい待て! 逃げんな!」
そして言いたい事だけ全てトキヤに伝え終わると、踵を返して足早に御所から去ってしまった。
それから数日後。
「それでは、会議を始めよう」
今まで旭が座っていた場所には、白の狩衣を着たトキヤが座っていた。
「先ずは、そうだな……ヒョンウ、菱川真仲の動向はどうなっている?」
今までは『キタノ弟』と小馬鹿にして呼んでいたトキヤに呼び捨てにされているヒョンウだが、
「こちらの予想通り進軍を続けている。もうすぐ都に着くだろうが……さて、どうすんだ? このままだと最悪は中ヒノモトにもう一つ人間の国が出来ちまうぜ? 執権さん」
もう慣れてしまった様子で気にも留めずトキヤを煽り返す。
「おいおい、あんたが手を打ってくれたのに何知らん振りしてんだよ、ヒョンウ。タンジン、この人が流した噂は都でどれだけ広まってる?」
ぞんざいに名を呼ばれたタンジンだが、
「我が王よ、我等の望み通りの有様になっているようです。『中ヒノモトから野蛮な妖精の混血が率いる賊軍が都に襲い来る』という噂で持ちきりの都は、まさにパニックの様相。女王もこれでは真仲を都に入れず追い払う他無いでしょうね」
彼はそれが心底嬉しいといった振る舞いを見せる。
「真仲さんは悪い人じゃなかった。だからこそ死んでくれないと困る。残酷だが、全ては神坐の為だ。それからタンジン、何度言えば分かる? この国の主は旭であって俺ではない。せめて執権と呼べ」
「お断りです。ワタクシにとって、アナタは我等人間を統べる唯一人の王ですからね」
言っても聞かないタンジンの様子を前に、トキヤは無言でウンザリした溜め息を吐いた。
「……次だ。バレンティン、カゲツ傭兵団の動向は?」
「真仲との戦闘による著しい損害の影響か、組織を再編していると思しき情報が入っている。どうも都の近辺で幹部候補のリクルートを始めたらしい。だがそれでもまだまだ層は厚い。何せこちらは人間というたった一種類の生物の集まりなのに対して、相手は亜人の殆どの種族が味方になっている。幾ら我々が不老不死とはいえ、何百年も戦乱が続けばこの世界は荒廃してしまうぞ」
「極論を言えば、ヒノモトが滅びても神坐が滅びなければ構わないと俺は思っている」
「その答えはティナに似て傲慢で最悪だ。考えを改めなければ我々サカガミ傭兵団は神坐を降りる事になる」
「それは困ったな。まあ、考えておいてやろう」
トキヤとバレンティン。
二人はトキヤの執権就任が切っ掛けとなり話し合う場が多くなった。
その結果として、騎士道の化身のようなバレンティンと神坐を守る為ならば手段を選ばないトキヤは、こうして意見が対立して仕方がない事が露わになった。
「今までの話を踏まえて総合的な神坐としての方針を考えたい。ガニザニ、俺達はどうするのがベストな選択になる?」
「今はこちらから積極的に仕掛ける必要は無いだろうけれど、真仲が都を追い払われて以降は慎重な対応を求められるのは間違いない。下手に中ヒノモトの豪族達を率いた真仲と正面対決をすれば、隙を突いてカゲツが再び東ヒノモトに戻って来てしまうだろう」
トキヤに問われたガニザニは淡々と答える。
今までの露骨な子供扱いではなく、国主と家臣の関係として。
「さて、そうなると真仲をぶっ殺すにしたってタイミングが大事ってヤツだ。俺の理想を言えば、事故死に追い詰めてやりたいな。それこそ最初にタンジンが言っていたように、じわじわとアイツの周りの仲間を神坐に取り込んでいって、孤立させちまうプランが良いんじゃねえか?」
ジョージは荒い言動をするが堅実な謀略を好む。
恐らくはあまり頭が切れるような印象を与えない事で周囲を油断させる事が目的なのだろう。
「流石にそこまで悠長に待ってはいられない。その間にバレンティンの言っていたカゲツ傭兵団の再編が完了してしまえば、また厄介な事になってくるからな」
時にそれは、広い目で見た時のデメリットが大きい事もある。
トキヤは今の立場で改めて彼等と向き合った事で、その本性が見えてきて、それぞれどのように扱えば良いのかを学んだ。
「ウーム、そうなると、やはり……真仲は殺さず調略してしまうのが良いのう。この前ヒノモトに来ていた時はワシに懐いた様子でおったし、オヌシも今や執権。ここは素直に頼んでくれぬか?」
「ダメだ。奴は必ず殺さなければならない。アイツがいる限り旭は苦しみ続ける事になる。だから女が相手だと情が湧いて殺すのを躊躇ってしまうチランジーヴィには、アイツの事は絶対に任せられない」
「ニヒヒ……! しっかりと旭姫の代わりを務められているようで何よりじゃな、トキヤ王」
「お前もその王と呼ぶのをやめろ。俺は執権だ」
今のチランジーヴィとのやり取りが良い例だろう。
だが……そんなトキヤでも、未だ未知数の男が一人。
「オレが殺してやろうか?」
「……アニキ」
トキタロウは自信満々といった様相の笑みを向ける。
「オレなら、お前の為にこの手をどんだけでも汚してやれるぜ。その結果としてキタノ傭兵団が潰れても、ティナに続いて処刑される事になっても、お前の心の中で生き続けられるなら構わねえ。さあ、オレを使いこなしてみてくれ、トキヤ」
「おい弟可愛さで何勝手な事言ってんだ。テメエが逝っちまったらここでのオレの立場が弱くなっちまうだろうが」
「大丈夫だヒョンウ、オレがいなくなっても今のトキヤなら七将軍のバランスぐらい何とかしてくれるさ」
「どうだか、まだまだコイツはひよっこだろ。トキタロウがベタ褒めするからってあんまり調子に乗るんじゃねえぞ? 執権さん」
トキヤは、誰よりも彼の事を知っているつもりだった。
彼の最も近くにいて、四六時中彼の事を考えて、彼のやらかしの尻拭いをいつも率先してやっていたから。
だが、それでも彼は……キタノトキタロウは、今まさに、トキヤの想像もつかない表情を次々に見せてくる。
「アニキやめよう。分かったよ、真仲に引導を渡す、その役目は……」
そう言い始めたトキヤの言葉を聞いて、トキタロウは背を向けた。
……彼の表情を見たヒョンウは、何か恐ろしいモノを前に慄いているような顔をしていた。
「この俺が引き受ける。俺が、あの人を、殺す」




