第三話【黄昏】4
「坊ちゃま!」
老婆の声が止めさせた。
「椹よ……情けは無用ぞ!」
「しかしそう力んでは旭が死にますぞ。この娘は陛下とは違い、傷のつく人間でございます故な」
……老翁と、椹と呼ばれた青い壺装束の老婆。暫し二人は睨み合うも、
「があっ! ……う、うぅ……っ」
カゲツが折れて、拳を軽く振り下ろすに留めた。
「……あのような物の怪を、わしは陛下と呼びとうない。それから坊ちゃまと言うのはせめて、ここではやめてくれぬか」
「これはこれは無礼を致しました。ところで坊ちゃま、ケイシンがこちらに向かっておるようですが、尋問を彼奴に代わらせましょうか?」
呆れ果てた目つきで椹を一瞥し、
「奴が来ればな。それまではわしが負うべき責だ」
カゲツは大きなため息をついたが、
「答えよ。貴様が唆したのは何処の傭兵団ぞ。その者等須くに申開きをさせねばならぬ」
次の瞬間には鬼の頭領としての顔つきに戻っていた。
「こ、殺す事の適わぬ奴等を、如何にして従わせるつもりだ……」
問われたカゲツは暫し目を瞑り……そして、哀れみと蔑みの色を帯びた視線を旭へと向けた。
「其奴らの縁者のうち、死ぬ者を尽く殺すまでよ」
平然と返された無慈悲な答えに旭は慄く。
「人に限らず、遍くの生き物は仲間と共に生きるが常。故に、抗えば抗う程に仲間を失うと分からせてやれば、仲間可愛さに皆従う。……きっと父上も左様にして、貴様の祖先の義日から仲間を引き剥がしたのであろう」
「父上……? では我が一族の仇は、お前では……」
「話が過ぎたな。さっさと吐け。でなければ何時迄も貴様を殴り続けねばならぬ」
「……わしは屈さぬ。貴様ら亜人どもに、決して屈しはせぬ! 故に殺したければ早う殺せ! 最早わしには……! わしには……失うものは何も無い故、な……」
振り上げられた拳に、旭は目を固く瞑り俯いた。
……その様子を影から見続けていた緋色の鎧の男は、またも繰り返される悲鳴と怒鳴り声を背にして、何処かへと歩いてゆく。
雨は止まない。
旭を取り戻す方法も無い。
時間が唯々流れてゆく。
……誰も何も、言葉にする事も無い。
いつもは喧しいトキタロウですら、何を考えているのか分からない無感情な顔で腕を組んでいる。
別に自分達が死ぬ事は無い。そしてヒョンウの働き掛けで責任を問われる事も無いだろう。
死んだ団員は帰って来ないが、死ねない自分達は己で望みでもしない限り、相手も面倒がって責任を負わせてくる事も無い。
……それで良い訳がない。
少なくともトキヤはそう考えていた。
「あ、おい……」
不意にトキタロウの声が耳に入って、トキヤ達は顔を上げた
「やあ、君達に良いニュースを届けに来た」
緋色の鎧の男……ガニザニが、わざとらしく作り笑いを浮かべながら洞窟に入って来た。
「旭姫の身柄だが、交渉の余地が無かった。カゲツは彼女を殺すつもりだ。もう既に全身を亜人の力で強く殴られて死にそうになっている」
ジョンヒは顔を手で覆い、トキヤは悲痛に眉間へ皺を寄せた。
「当然、そんな目に遭うまで拷問を受けているのにも理由がある。協力した転生者が誰なのかを黙秘し続けているんだ。何を思っての事なのかは僕には分からない。だが、君達にはとても都合が良い話の筈だ……」
殴られて、そこから先の言葉は黙らされてしまった。
「……君は知っておくべきだと思ったから伝えに来たのだがね」
「お願いします、俺達に、知恵を貸して貰えませんか」
ガニザニは首を横に張った。
「ニャライも打つ手無しだって言いやがるんですよ……! 俺はあの人に恩があるし、約束したんだ、一緒に死んでやるって、だから!」
「だけどそれは無理な話だ。何故なら君にはそれを成し遂げられる武力も知略も気概も無い。というかそもそも、君は転生者で、彼女と共に歳をとる事は出来ない……」
「頼みます! この通りだ! 俺に出来る事は何だってやる! だから!」
「それでは何をすると謂うんだい?」
ガニザニに問われたトキヤは一瞬後ずさったが、すぐに気を取り直す。
「……旭を助け出す。例え俺一人になったとしても、何十、何百、何千回殺されても。だからガニザニさん、カゲツに伝えてくれ。『光旭の協力者が、必ず助けに来る。捕まえてるだけ無駄だから、とっとと旭を解放しろ』って……!」
トキヤの答えに、
「そんな事を言えば寧ろ真っ先に殺されてしまうと思うよ」
ガニザニはため息をついて答えると、
「おっといけない」
一枚の紙を懐から落とした。
「ああ、しまったなあ……カゲツの陣中図を落としてしまった。それも暇つぶしに、僕なら何処から攻めれば転生者数人で、被害最小限の最短ルートで旭姫を助けられるかを書いていた陣中図だ……」
ゆっくりとしゃがんで拾おうとしたガニザニよりも速く、トキヤが奪い取った。
「君……盗みを働くなんて、悪い子になったものだ」
咎める言葉とは裏腹に、ガニザニは笑みを浮かべていた。
「あー、なんということだ。こんなに多勢に無勢の洞窟の中で、敵に塩を送ってしまうとは。仕方がないから僕はこれで逃げるとしよう。それは君達にあげてしまう事になるが、決して悪用しないように」
満足げな背中を見せながら土砂降りの中へ戻りゆくその背中に、
「元団長! ありがとうございます!」
ニャライが精一杯の感謝を示す。
「彼に飽きない限りは、一緒にいて構わないからね」
足を止めて、背を向けたままガニザニは言葉を返すと、再び歩みを進め始めた。
カゲツの陣中の一角。
そこでは、3つの傭兵団の団長達が一堂に会していた。
「けっ、俺達を呼ぶだけ呼んでおいて、菓子の一つも出しやしねえ。カゲツ、だっけか? あのジジイ人をナメてやがるな」
悪態をつくジョージだったが「おい、何が可笑しい?」自身を嘲る男の笑い声を前にして更に機嫌が悪くなる。
「いや、アンタも大概ジジイのクセに、アイツをジジイ呼ばわりするんだなって思っただけだ」
笑い声の主、ヒョンウは何処か投げやりな物言いでジョージを揶揄っている。
「おい、俺はトキタロウじゃねえんだ。そういう言い方はな、されて喜ぶマゾ野郎が相手の時だけしろ」
「ったく、プライドの高さと口の悪さだけは天下一品だな。漫才師の方が向いてんじゃねえのか?」「なんだテメエ! やる気か!?」
「おやめくださいジョージ! ワタクシ達が呼ばれているのは、カゲツ殿がもてなしたいからではありませんよ」
二人のあまりにも子供染みた喧嘩を前にタンジンが見兼ねて声を荒げた。
「……ヒョンウ、テメエのケツをシバくのは後にしてやるよ。でだ、お前の言いたい事は分かってるっての、タンジン。もてなすどころか寧ろその逆で、俺達の首根っこを掴んどきてえから呼びつけたんだろ? 余計な事をコソコソされたくねえから……まあ、旭が捕まった以上は結果的に余計な事を出来なくて良かったかもな」
「そういう訳です。なので、あまりカゲツ殿のいるところで煩くしないで頂きたい。ヒョンウもいいですね?」
「おいおい、オレはジジイのケツを舐める趣味は持ち合わせてねえんだよ」
「あまり喧しいと良子に言いつけて口を縫い合わせますよ」
「おお、恐ろしいな。お前が姫様を尋問しなくて本当に良かったって今改めて思ったぜ」
ヒョンウの減らず口に流石のタンジンもイライラし始めてきた、その時だった。
「ガニザニ、トキヤは無事でしたか?」
3人の輪に歩み寄ってきた男の顔を見るなりそう問いかけるタンジン。対する男……ガニザニは軽く頷く。
「旭はもう死んだと伝えたら、泣き崩れてそれっきりになってしまったよ」
「トキヤを諦めさせる為とはいえ、えげつねえ事を平気でやるよなアンタ」
「トキタロウは旭の代わりになりそうな挙兵の神輿候補にアタリをつけ始めていたが、難儀している様子だったね」
「順当にいきゃあ中ヒノモトの菱川真仲ってとこだが、あの小娘だと担ぎ上げるというよりは俺達が配下にさせられそうだな」
「もうこれ以上あの子を無意味に苦しめ続ける必要も無い筈だ。僕からカゲツに伝えて……」
カゲツの許へ向かおうとしたガニザニの肩を、いつの間にか現れた良子が掴み引いた。
「後はタンジンがやりますんで、イシハラ様はどうぞ、ここで方々とごゆるり」
「ではお言葉に甘えて……いや、やっぱり少しだけ旭に話をさせてくれないだろうか」
「余計な手出しをすれば、アナタに死よりも辛い目に遭って頂きますからね」
「ありがとうタンジン」
良子の腕を払いのけて、ガニザニは旭の方へと歩きだす。
「何と嘆かわしい……! トキヤの心を折ってしまう等と!」「俺は寧ろ優しさからだと思ったがなあ?」「タンジンが椹様に言い負かされた今、誰も助けられねえですからね」「正直なところ旭の事はどうでもよいのですが、ガニザニの言葉を信じるのであれば……」「生きて返せばキタノ弟、泣いて喜んで感謝するだろうな」「トキヤの為にも、テメエがもう一肌脱いでやるべきじゃねえか?」「あっしが要るなら呼んでくだせえ」「……仕方がありませんね」
後ろから聞こえてくるそんなやり取りに耳を傾けつつ、縛られている旭に向かって足を進める。
カゲツと椹は今しがたやって来た月夜見の王ケイシンを迎えに行っているようで、その場には旭しかいない。
鎧は砕かれ、服は引き裂かれて襤褸布を纏っているような姿で憔悴しきった彼女は、ガニザニの姿を見るや否や「おやおや、なんて恐ろしい顔をするんだ。獄卒も泣いて逃げ出すだろう」彼が言う通りの表情で睨みつける。
「わしを……嗤いに来たのか……?」
「とんでもない。むしろ良い知らせを持って来たんだ」
「そうか。もう、わしの首を刎ねる手筈が整ったか」
「これは伝言だ。『旭さん、今からあんたを必ず助けに行く。例え味方が全員捕まって、俺が何十回、何百回、何千回殺されても。だからどんな汚い手を使ってでも生き延びてくれ。俺があんたを助け出す、その時まで』……彼がそう言っていたよ」
顔を上げた旭の目には、希望の光が戻っていた。
「この後きっとタンジンが尋問しに来る筈だ。彼は君の事を好いてはいないが、君を好いているトキヤの事は大事に思っている。上手く彼を利用すると良い」
ガニザニの言葉が真実かどうかは分からない。
唯々自分の苦しむ姿を少しでも長く拝んでいたい人間の屑である可能性も否定出来ない。
だが、もしも彼の言葉を信じずに、トキヤの前に自身の骸を晒すような事になれば……。
(あいつ、私に信用されなかったせいで私を死なせてしまった、そんな事になれば……気を病んでしまうだろうな)
旭の本心としては、彼を利用しているに過ぎなかった。
阿呆と無責任揃いの転生者達の中で、最も味方にする価値のある男……唯それだけでしかなかった。
だから彼を味方に引き入れようと、媚びを売り、面倒を見てやり、敢えて他の転生者達を遠ざけた。
特別扱いをしてやって、いつでも直ぐ利用出来る立場に取り立てた。
『愛刀』と喩えたのは建前も本心も両立させた上手い言い回しだ、と内心嗤っていた……。
「私は必ず生きるぞ、トキヤ……!」
青い狩衣の男が歩み寄ってくる中、旭は決意を胸に一人呟いた。




