瓢箪の巫女 ~ 椿の杖
りん、と。
優しい鈴の音が、まどろみに沈む私を呼び戻した。
周囲には誰の姿もなかった。
今、確かに鈴の音を聞いたはず。熱に浮かされ、幻聴を聞いたのだろうか。
(あの鈴の音は……)
ふと、懐かしい気持ちになった。
なぜだろうと首を傾げ、遠い昔のことを思い出した。
(そうか、あの鈴の音は……)
あれは――まだ十五のとき。
進むべき道に悩み一人山にこもった時、そこで出会った美しい巫女。聞こえてきたのは、その巫女が持っていた瓢箪に結わえられた鈴の音と同じものだった。
※ ※ ※
山に入り、幾日目かの夜。
雨露をしのげるだけの、粗末な小屋。誰が建てたのかわからぬその小屋で、私はしばしの眠りについた。
――どれほど眠っただろうか。
りん、と。
優しい鈴の音が聞こえ、私は目を覚ました。
(はて?)
まだ夜は明けていない。こんな時間に誰かが来たのだろうか。ひょっとしたらこの小屋を建てた者かもしれぬと思い、私は小屋の外に出た。
冷たい空気が頬を撫でた。
初夏とはいえ、標高の高い場所だ、夜の空気は凍えるようだった。
山間から見える淡海の海。その水面で月の光が揺れている。その美しい光景に見惚れていると、再び鈴の音が響いた。
りん、と。
呼びかけるような鈴の音。
振り向いて、息を呑んだ。
大きな瓢箪を持つ、美しい巫女がそこにいた。風に揺れる長い髪が、淡い月の光を浴びて輝いている。年の頃は三十路手前といったところだが――はたして彼女は、人間であろうか。
「さて。このような山奥に、一人で来る身分の者とは思えぬが」
笑みを浮かべ、巫女が首をかしげた。
当然の疑問だろう。心のざわめきに居ても立っても居られなくなり、出仕姿のまま飛び出してきてしまった。見る者が見れば、私の身分は知れるはず。
「迷うたのか?」
「いえ……」
首を振りかけて、止める。
そう、巫女の言う通り。私は己が進むべき道に迷っている。
「そう、ですね。私は、迷っています」
「ふむ」
巫女が、ちらりと小屋に目を向けた。
小屋の中には、数日分の食糧と水、あとは椿の杖だけだ。
「迷い、答えを求め、この山奥まで来た、と?」
「はい」
「なるほどのう」
巫女は目を閉じ、しばし沈黙した。
りん、と。
一陣の風が吹き、夜の闇に鈴の音が響く。巫女が持つ瓢箪に結わえられた、小さな鈴が音の源だった。
「……おぬし……そうか」
やがて目を開いた巫女が、私を静かに見据えた。
「はてさて。どうしたものか」
その目に、私の心がざわついた。
何もかもを、私の過去、現在、未来、すべてを見通すような、底の知れぬ目の光だった。恐ろしいと思う反面、その奥底に優しい光があるようにも思う。こんな目をする存在が、ただの人間だとは思えなかった。
山の神は、女神だという。
ならば目の前の巫女は、この山の神が人の姿を借りて現れたのだろうか。
「巫女殿は……この山に住まう姫神でしょうか」
「ほ」
私の問いに、巫女は驚いたように目を見開いた。
「そんな大層なものではない。ただの旅の巫女じゃ。そもそもこの日枝山の神、大山咋神は男神ぞ?」
「ですが、とても人とは思えぬ気配を感じます」
「おぬし、ちと寝ぼけておるのではないか?」
巫女は袖で口元を隠し、クククッと笑った。まるで少女のような、可愛らしい笑い方だった。
「まあよい。では、まことにおこがましいが、神としておぬしの話し相手になってやろうかの」
「え?」
「ずいぶん思いつめた顔をしておる。とても十五の若者とは思えぬほどにの」
教えてもいない年齢がなぜわかるのだろうか。
やはりこの巫女は、ただ人ではなさそうだ。
「悩みがあるのじゃろう? 話してみよ、気が楽になるかもしれぬぞ」
◇ ◇ ◇
悩みを話してみよ。
そう言われて、私は言葉に詰まった。
神として、と巫女は言った。
私の悩みは、神に関わる。正直に悩みを告白したら、神罰が下されるのではないだろうか。たとえその身が人であったとしても、巫女は神の妻たる者、少なくとも不快には思うだろう。
いつまでも話さない私を、巫女は何も言わず待ってくれた。
冷たい風に、私の体が冷えていく。私の中にある神への畏れと重なり、気が付けば震えが止まらなくなっていた。
ふと、巫女が動いた。
背負っていた行李を下ろすと、転がっていた石で即席のかまどを作り、火を起こした。暗闇に灯る小さな光に心が安らぐ。その火で沸かした湯を口に含むと、凍えた体に温もりが戻り、人心地ついた。
「海の向こうの大陸に、隋という大国があります」
震えが止まると同時に、私は口を開いていた。
隋がいかに強大な国であるかを、半島をめぐる三国の争いが続いていることを、やがてその争いがこの国にも及ぶであろうことを。
「……ですから、この国を強くせねばなりません。滅びぬためにも」
そのためには、隋と国交を開き、進んだ文物を取り入れ国を強くせねばならない。
しかし隋にとってこの国は、海を隔てた場所にある、とるに足らぬ小国。交渉の相手にすらされていない。どうにかしてこの国が、国交を結ぶに値する国であることを示さねばならない。
「ゆえに、私は……」
言葉を切り、顔を上げた私を。
巫女は、静かなまなざしで見つめていた。励ますようなその目に、私は勇気を振り絞った。
「……この国に、仏法を広めたいのです」
それは、古来より伝わる神々を否定することにつながる。
神として話を聞くと言った巫女は、なんと言葉を返すだろうか。私は神の裁きを待つ気持ちで、巫女の言葉を待った。
「それで」
しばらくして、巫女が穏やかな口調で私に問いただした。
「おぬしは、何を恐れておるのじゃ?」
「何を……」
言わずともわかるであろうことを問われ、私は困惑した。
「それは……仏法を広めることで、この地に住まう神々の怒りを買うのではと……」
「それは違うのではないかの」
歯切れの悪い私の返事に、巫女は笑みを浮かべた。
「それが本当におぬしの悩みであれば、先の戦は起こっておらぬのでは?」
柔らかな口調だったが、巫女の言葉に、私は息を呑む。
先の戦――この巫女は、戦のことを知っている。その戦の中心に私もいたことを知っている。私が誰で、何を思い武器を手に取り、誰と戦ったのかをわかっているのだろう。
「おぬしに神を恐れる気持ちがない、とは思わぬ。だが、今悩んでいるのは別のことであろう?」
ああ、すべて見透かされているのか。
私は観念し、首を垂れた。やはりこの巫女は、ただ人ではなかった。
「申し訳、ございません」
「謝らずともよい。ほれ、怒りはせぬから正直に申してみよ」
巫女は笑みを浮かべたまま、少し冷めた湯を口にした。
巫女に倣い、私も湯を口にする。温もりが胃の中に落ち、私は覚悟を決めた。
「私は仏法を……尊い教えを、政治の道具として使おうとしているのです」
隋では仏法に基づく政治が行われており、仏法を知らぬと野蛮な国とみなされる。隋と国交を、できれば対等な関係で結ぶためには、政治体制を刷新し、仏法に基づく政治を執り行わなければならなかった。
「ですが、学べば学ぶほど思うのです。仏法とは、なんと奥深い教えなのかと」
はるか西の天竺で生まれ、長い年月をかけて我が国へと伝わった教え。その教えは深く、広く、いくら学んでも学び終えることがないものだった。
「ただ純粋に教えを学び、極め、人々に広めることに尽力できるのであれば、これほど喜ばしいことはありません」
だが、私の立場が許さない。
尊い教えである仏法を、政治の道具とせねばならない己の立場が恨めしい。
「私は……なんと罪深いのかと、それを悩んでおります」
「なるほどのう」
巫女は優しい笑みを浮かべた。
「生真面目なことじゃ。ちと、肩の力を抜いてはどうじゃ?」
「え?」
その笑みは、まるで伝え聞く仏の笑みのよう。厳しい言葉を覚悟していたので、ひどく戸惑った。
「仏法を政治に利用する。それはそれでよいではないか」
「しかし!」
「仏法について、妾は深く学んではおらぬが」
私の反論を遮るように、巫女が言葉を続けた。
「仏法は神の教えではなく、人の教えではなかったかの?」
「人の……教え?」
「仏法の開祖、釈迦は人であった。かの者もそれを忘れるなと言うておる。悟りを開いたと言われておるが、死ぬ間際まで修行を続けておられた方じゃよ」
「巫女殿は……開祖にお会いになられたことがあるのですか?」
「まさか。人伝に聞いただけじゃ」
クククッ、と巫女が笑う。
「おぬしは仏法を永遠不変のものと考えておるのか? 釈迦はそんなことは言っておらぬぞ。それに、この国に伝わってきた仏法は、後の世の人の考えが色々と混じっておってな。少々変容しておる」
「私が学んだ教えは、間違っているというのですか?」
「そうは言わぬ。だが仏法とは人の教え。ならば永遠不変のものではなく、人の世とともに変わるもの。妾は、そう思うておる」
衝撃的な言葉だった。
ただひたすらに尊く、犯すべからざるもの。この世にただひとつある不変の真実。仏法とはそのようなものだと思っていた。だが巫女は、そうではないと言う。
「おぬしも、おぬしにとっての仏法を求めてはどうかの」
「私にとっての……仏法……」
「政治とは人の行いそのもの。人の教えである仏法を、どう政治に生かすべきか。それを考え、実践することは、罪深いことではないと思うがの」
「それで……よいのでしょうか?」
「さて、どうかのう」
私の問いに、巫女はクククッと笑う。
「浅学の者の戯言じゃ。参考にするもよし、捨て置くもよし。どのみちおぬしは、その道を進むしかないのじゃろう?」
巫女の言葉にうなずいたものの、なんだかはぐらかされた気分だった。
だが、戯言と切って捨てることはできなかった。仏法を政治に生かす、それは、決して悪いことではないのかも知れない。
考え込んでしまった私を、しばらく黙って見つめていた巫女だが。
不意に、空になった椀を置き、静かに立ち上がった。そのまま少し離れた場所まで歩き、空を見上げた。
私もつられて空を見上げた。東の空が白み始めている。じきに夜が明けるだろう。
「さて……妾からもひとつ、聞いてよいかの」
空を見上げたまま、巫女が問いかけてきた。
「なんでしょう」
「仏法とは、人の争いを止めることができるものであろうか」
巫女の問いに、私は即答できなかった。
できる、と胸を張って断言したい。
だが、つい数年前、仏法をめぐって争いが起こったばかりだ。勝利はしたものの、いまだに政治は安定せず、争いは続いている。果たして仏法は、人の争いを止めることができるのか。今の私にとって、それは重い問いだった。
「……少し、昔話をしようかの」
私が答えあぐねていると、巫女が再び口を開いた。
「かつてこの地には神がいた。強大な力を持ち、そのあまりの横暴さに人は苦しんだが、どうにもならなかった。誰もが致し方のないこととあきらめておったが……そんな世を変えんと、剣を取り神と戦った男がいた」
それは、初めて聞く物語だった。
気まぐれに人を弄ぶ神に怒り、剣を取り神と戦った一人の男の話。千四百年も前の話だというが、巫女はまるで見てきたかのように語った。
「男は王となり、戦いの末にこの地から神を駆逐した。この地は人のものとなり平穏が訪れた。じゃが……王が亡くなると、今度は人同士が争い始め、平穏は失われてしもうた」
巫女が振り向いた。その悲しげな瞳に、私はドキリとした。
「それがもう、千年以上も続いておる」
「そのようなことが……あったのですか」
「信じられぬか? まあ無理もない。この国には歴史を伝える書物もないしの」
巫女の言葉に、私はうなずく。
隋の国には歴史書があり、数千年の過去を伝えているという。それこそが、国としての力の差だ。
「この地の人が神から自立するには、少し早すぎたのかもしれぬのう」
巫女が再び空を見上げた。
その透き通るような横顔に、ふと思う。
ひょっとしたらこの巫女は、その王とともに戦ったのだろうか。神の妻たる巫女でありながら、この地に住む人の平穏を願い、神に逆らったのだろうか。
「巫女殿、お伺いしてもよいでしょうか」
「なんじゃ?」
「神と戦った王は、神罰を受けなかったのでしょうか」
「受けておらぬよ。それは……妾が引き受けた」
ああ、やはりそうか。
この巫女は、その王とともに戦ったのだ。
王と巫女が生きた時代、神はそこかしこにいたという。
その強大な力と恐ろしさを知りながら、王と巫女は神と戦った。そして人の世を勝ち取るのと引き換えに、巫女は神罰を受け、一人さすらうことになったのだろう。
そうまでして勝ち取ったはずの平穏なのに――人の争いで失われてしまった。
成就したはずの願いが虚しく失われた世を、さすらい続ける巫女。
それはまさに、無明の野を一人行くようなものではないか。
(その王が、もしも仏法を知り、人々に広めていたら)
人の世の平穏は、保たれたのではないだろうか。巫女が、虚しく世をさすらうことはなかったのではないだろうか。
その苦しみを断ち切らねばらならぬ――そう思った時、自然と私の口が開いていた。
「巫女殿。先ほどの問いに、お答えいたします」
自分の声の力強さに驚いた。今この時、私の中に迷いはなかった。
「仏法は、人の争いを止めることができます」
仏法は、神の教えではなく人の教え。
ならばそれを広めれば、きっと世は平和になる。
「私が、そのようにしてみせます」
それは、私一代では為せぬことかもしれない。
だが、仏法がこの地に根付き人の心に広まっていけば、必ず争いのない平穏な時代は訪れる。私は、その礎を築くのだ。
「そうか」
私の決意に、巫女は静かにほほ笑んだ。
「それが、おぬしが求める仏法なのじゃな」
「はい」
さぁっと、太陽の光が差し込んできた。
長い夜が明けたのだ。
東の空から日が昇り、山々を照らしていく。闇が払われ、光に満ちていく世界。その世界に一人立つ巫女を前に、私は誓いの言葉を発した。
「巫女殿が語る王が目指した、平穏な人の世を。私が実現してみせましょう」
「では……頼むとしようかの」
りん、と。
瓢箪の鈴が、軽やかに鳴った。
鈴の音を聞いて、巫女は「そうじゃな」とつぶやいた。
「わが神よりのご指示じゃ。おぬしの前途を祝し、一差し舞わせていただこう」
「神……?」
驚く私には答えず、巫女は懐から扇を取り出し、ぱらりと開いた。
扇を構え腰を下ろすと、巫女の雰囲気が一変した。
日の光を浴びて、神々しいまでの姿となった巫女。私は自然と居住まいを正した。
「おぬしの、大願成就を祈って」
りん、と鈴が鳴り。
とん、と巫女が舞い始める。
それは、今までに見たどんな舞よりも美しく。
迷いの晴れた私の心に深く静かに染み渡る、すばらしい舞だった。
※ ※ ※
――今、思えば。
本当にあったことなのか疑問に思う、不思議な一夜だった。
舞を終えた巫女は、夜も明けたからとそのまま立ち去ってしまった。名を聞いても教えてはくれず、名乗ろうとした私を止めさえした。
「今宵のことは、夢幻とでも思うがよい」
大きな瓢箪を手に、立ち去る巫女。
立ち尽くし見送るしかない私を、巫女は一度だけ振り返った。
「おおそうじゃ。おぬし、その椿の杖をこの地に置いていくがよい」
「杖を?」
どうしてまた、と不思議に思っていると。
巫女はいたずらっ子のような目をし、クククッと笑った。
「山神への捧げ物、じゃよ」
りん、と。
すぐそばで鈴の音が聞こえた。
幻聴ではない。私はゆっくりと目を開いた。
誰かが来た様子も、人がいる気配もなかった。だが、遠い昔に出会った美しい巫女が、私の顔を覗き込んでいた。
私が思わず微笑むと、巫女も柔らかな笑みを返してくれた。
「おぬしの仏法は、見つかったか?」
静かに問う巫女に、私はゆっくりとうなずいた。
「それはよかった」
巫女は、持っていた瓢箪の口を開き、中身を椀に注いだ。
まろやかな酒精の香りが鼻をくすぐる。瓢箪の中身は、水ではなく酒のようだ。
「死者に贈る、鎮魂の酒じゃ」
巫女の言葉に驚きはしなかった。覚悟はしていた、いよいよその時が来たのだろう。
巫女は指先を酒に浸すと、その指で私の唇をなぞった。乾いた唇を流れ落ちてきた鎮魂の酒を、私は静かに飲み込んだ。
ほんの数滴、水のように滑らかな酒。
病に侵され重たかった体が、羽のように軽くなった心地がした。
「そなたの妃の一人、膳大郎女殿も、先ほど亡くなられたそうじゃ」
巫女が身をかがめ、耳元で囁いた。
そうか、と思う。
片時も離れず看病してくれていたのに、急に姿が見えなくなっていた。不安に感じていたが、やはりそういうことだったのか。
だが、悲しむことはない。私も共に逝くのだから。
「さて。何か言い残すことはあるか」
巫女は姿勢を正し、御仏のような優しい笑みを浮かべた。
「……と問うところではあるが。それは、そなたの妃に言い残すがよかろう」
私はうなずき、そして巫女に目で問うた。
私は、かの王が――あなたの夫が遺してくれた人の世を、正しく受け継げただろうか、と。
「ああ。ようやってくれた。ありがとうの」
言葉にならぬ私の問いに答え、巫女は私の頭をゆっくりと撫でてくれた。
「おぬしはこの国に、確かな礎を築いた。後の世の人が、おぬしの偉業を称え観音菩薩の生まれ変わりと伝えるほどにな。おぬしの志を継がんとする者も、多く現れるぞ」
私が観音菩薩――それはまた畏れ多い。
だが、あの夜に思い定めたわが役目を全うできたと知り、安堵した。もう思い残すことはない。
「ではの。今、妃を呼んでくる」
りん、と静かな鈴の音が響く。
巫女は手を合わせ、静かに祈りを捧げた後、妃を呼ぶために去って行った。
私は目を閉じ、しばし考える。
妃に残す言葉。それは私が生涯をかけて求めた仏法を表すもの。
「御子様! 御子様、お気を確かに!」
まもなく、妃の一人、橘大郎女が駆け付けてきた。
目を開くと、私を案じるあまり血の気が引いた妃の顔が見えた。
体から急激に力が抜けていく。これが妃と言葉を交わす最後の機会。私は妃に言葉を残すため、渾身の力を振り絞り口を開く。
「は……なんと? 御子様?」
「世間虚仮……唯仏是真……」
我が志を継がんとする者よ。
移ろいゆく世の姿に惑わされず、真の仏法を求め続けよ。
その願いを妃に託し、私は静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇
千四百年という時が流れ。
かつて日枝山と呼ばれていた地は比叡山と呼ばれるようになり、連日多くの観光客が訪れる、すっかり開かれた地となっていた。
その比叡山の一隅、西塔エリアと呼ばれる区域を、大勢の観光客に交じって一人の女が訪れていた。
三十路手前の、美しい女だった。
黒髪ロングのストレートヘア、白いブラウスにジャケットを羽織り、デニムパンツにスニーカー。旅の連れはおらず、団体客から少し離れたところで、僧侶の説明を楽しそうに聞いていた。
「こちらが、聖徳太子ゆかりの椿堂です。聖徳太子が比叡山に登られた時に使った椿の杖が、地に挿されたまま残され、やがて芽を出し大きく育ったという伝説があり……」
観光案内を務める僧侶の言葉に、女はクククッと笑い、配られたパンフレットに目を落とした。
「芽を出したのは落ちていた種なのじゃが……おぬし、すっかり聖人に祭り上げられてしもうたのう」
パンフレットに描かれた肖像画を見ながら、生真面目で神経質そうだった男の顔を思い浮かべる。
貫禄のある聖人像とはほぼ別人。この肖像画を見せたら、本人は何と言うだろうか。
「さぞかし困惑するじゃろうな」
僧侶の説明が終わり、それぞれにお参りをした観光客が去って行った。
人が途切れたところで、女も椿堂にお参りした。まずはイタズラ気分で「杖を置いて行け」と告げたことを詫びておく。まあ、笑って許してくれるだろう。
「おぬしの志、今もこうして受け継がれておるぞ」
あの男が眠るのはこの地ではないが――きっと祈りは届くだろう。
女はそう思い、心を込めて長い祈りを捧げた。
「さて、行くかの」
祈り終えると、女は椿堂を後にした。
少し大きめのキャリーケースを引きながら、のんびりとバス停へ向かう。
かつては苦労して歩くしかなかった山道も、今はアスファルトで舗装され、バスで楽々と行き来できるようになっていた。まさに隔世の感、といったところだ。
「世間は虚仮にして、か」
周りにいるのは、修行者ではなく観光客。悩み思い詰めた顔をしている者はなく、朗らかで楽しそうな笑顔ばかり。
だが、神仏に手を合わせ祈る姿は、あの男と変わるところはない。その光景に女は目を細め笑みを浮かべた。
「おぬしが求めた仏法は、この地に根付いたのじゃな」
りん、と。
キャリーケースの中から、鈴の音が聞こえた。
鈴の音に小さくうなずき、女は椿堂を振り返る。
「ではの」
――お達者で。
紅葉に染まる山の中、あの男が見送ってくれている。
そんな気配を感じながら、女は観光客とともに比叡の山を去って行った。