第1話「2100年」
北米の大都市近郊、よれよれのスーツで弱弱しく歩く青年がいた。彼は歩きながら汗を拭こうと、ポケットに手をかける。取り出すのに苦戦していると、前方を歩く誰かと肩を衝突させる。
「あ、すいません!」
青年は即座に頭を下げる。同時に勢いが余って、マスクのヒモが片耳から外れた。
「おい、ちゃんと着けろ! ったく、感染してねぇだろうな?」
「はい」
青年は懐からウォルフという名前の横に、陰性と書かれた診断書を取り出した。それを見た通行人は、舌打ちをして去っていった。ため息を吐く金髪の彼は、マスクをかけ直して再び歩き出した。
夜中でも煌びやかな街灯や車のライトが行き交う大通りを抜けると、薄暗い路地裏のアパートがあった。錆びが入った鉄階段を軋ませて上り、青年は角部屋の扉を開ける。
「アンナ、帰ったよ」
青年はスーツを脱ぎ、クローゼットの中にある防護服と取り換えた。
「おかえり、お兄ちゃん!」
青年が着替え終わると、ある部屋から少女の声が発せられた。その部屋の扉には、防護服着用絶対という張り紙がある。部屋へ入ると、大きなベッドの上でぬいぐるみを抱きかかえる少女がいた。少女は青年が入るや、せき込んで出迎える。
「アンナ、大声を出すのはやめなさい」
青年は、マスク越しの籠った声で少女に注意した。
少女は「はーい」と元気よく返事をし、視線を前に置かれたテレビに戻した。
「続いてのニュースです。昨年から猛威を振るっている感染症の我が国での感染者数は……。この感染症は感染率だけではなく、死亡率も非常に高く……」
青年はキャスターが喋り終わる前に、番組を切り替えた。
「あー! もう少しでナイトマン始まるのに!」
少女が駆け寄ると青年は焦り、静止するように手を突き出した。
「わ、わかったから落ち着け。触れたらまた買い直さなきゃいけないんだ」
止まらない彼女を見て、青年は仕方なくリモコンをベッドに向けて投げ込んだ。少女はフリスビーを追う犬のように踵を返し、リモコンにダイブした。手に入れるや先ほどのニュース番組のチャンネルへ画面を切り替えた。青年はちょうど、番組が終わる瞬間であったことを知って安堵した。目を輝かせてアニメを見る彼女に、青年は僅かに口角を緩める。
「ナイトマン……そんなに好きか」
「うん、お兄ちゃんみたいにカッコイイもん!」
「そ、そうか。お兄ちゃん夕飯片付けるから、また欲しいものあったらいつでもいってくれ」
青年はベッドの脇に置かれたトレーを持ち上げ、部屋を去ろうとした。
「大丈夫だよ。もうちょっとしたら、どうせ死んじゃうし」
少女がそうボソッと呟くようにいうと、青年は足を止めた。何か言いたげに振り向くも、彼は暗い顔のままその場から離れる。食器を洗っている途中、彼の頭に少女と公園で遊ぶ映像が浮かぶ。その瞬間、かき消すように頭を振った。
「アンナ、俺はお前がいなきゃ……」
台所で数分、青年は膝をついて流れる水の音を聞き続けた。
早朝、ピコンとスマホから通知音が鳴る。枕元に置いたそれを、青年は眠気眼のまま手に取った。通知は北米連合国防衛省から送られている。内容は大規模な感染症の影響で兵士が不足したことを受け、希望者を無条件で軍に投入するとの話だ。途中まで読み、青年は自分事ではないと流し読みになる。しかし、最後の文面に目をくぎ付けにされた。
「なお、本募集で入隊した者とその親族には機械化技術を受ける権利を与える。機械化技術は脳と心臓を高度な電子機器で代替し、血中に自己修復のナノマシンを注入する人体改造のこと。感染症だけではなく、ほぼ全ての病にかからなくなる……」
2103年、3月下旬。第3海兵遠征軍が滞在する沖縄基地に、新たに配属された将校がいた。彼が司令官室に入ろうとした直前、装着したコンタクトレンズに通知が映る。右の前腕を押し、彼は四角いホログラムのパネルを展開した。プライベートの通信をオフするボタンを選択する。
「お兄ちゃん、今度はいつ帰れるの?」
と、書かれたメールを閉じた。そして一呼吸した彼はキリっと緊張を帯びた顔のまま、部屋の中へと入った。司令官室で敬礼をするかしこまった青年は、きびきびと口を開く。
「本日より、第3海兵師団第1特殊作戦群副隊長を務めます――サンダー・ウォルフ少尉であります」
司令官は数秒サンダー少尉を凝視し、ゆっくりと机に資料を置いた。
「君が雷鳴のウォルフか……いい面構えだ。この任務も無事こなせそうだ」
資料の表紙は『一か月後に迫る太陽フレアへの対策に伴う作戦内容』と書かれている。サンダー少尉は瞳孔を開きながらも、冷静に口を開く。
「ロメオ司令官、太陽フレアは電子機器を無効化するといわれています。この情報が真実なら、なぜ一か月と迫るまで察知できなかったのでしょうか」
「うむ。この一件は我が国へ移住を済ませた富裕層・軍人・政治家およそ900万人の機械化を行った者たちの屍が築かれる国家存亡の危機だ。故に、秘密裏に事を進めなければならない。そして、作戦進行速度が計画実行当時の見込みから大幅に遅れをとっている。サンダー少尉には、今月から追加で加わった日本国での作戦遂行へ加わってもらいたいのだ」
サンダー少尉は生唾を飲みこんだ。
「承知しました。このサンダー・ウォルフ、国へ身を捧げる覚悟で本作戦に参加します」
「ハハハ、流石だ。よし、サンダー少尉の覚悟に免じてわしが一つ、要望があれば聞いてやろう」
「ハっ、それでは一つ……」
それから数日後、首相官邸に北米連合国から一報が入る。
「な……なんだって!? そんなことできるはずが」
「嫌なら結構、即座に軍を引き上げます。貿易も封鎖させていただく」
北米連合国大統領の圧に屈し、日本国首相は極秘の命令へ同意したのだった。