雨ふって 2
お読みいただきありがとうございます。この小説は、「雨ふって」の続編です。先にこちらのお話を読んでいただけますと幸いです。
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「もう、遅い!」
時間を過ぎても、平子さんはまだ出勤してこなかった。今日は店長もいないし、アルバイトやパートの人も少ない日なのに……業務に追い立てられ、忙しく働きつつも、一向に来る気配のない平子さんに対してイライラしていた。普段は遅刻しても、遅くとも三十分くらいで来るはずなのに、今日は一時間経っても来なかった。
「……さすがにそろそろ電話するか……全く、世話の焼ける……」
ハァとため息をつきながらバックヤードに戻ってきたと同時に、のそのそと平子さんが現れた。
「ああ、平子さん!今何時だと思ってるんですか!?」
「……悪い」
「もう……そろそろ夕方のピーク来ちゃうので、早く着替えてきてください!」
「……ああ」
そう言って更衣室へ消えていったが、なんだか少し様子がおかしい。心ここに在らずという感じだ。
「……平子さん、何か様子が……気のせいか?」
平子さんの様子に何となく違和感を感じつつも、すぐに仕事に忙殺されて、あっという間に退勤の時間になった。その頃にはもう、そのことについては身体の疲れと引き換えにすっかり忘れてしまっていた。
そして退勤後、俺は途方に暮れていた。傘置き場まで来てみたら、俺の傘が無かったのだ。外は土砂降りの雨で、一向に止む気配がない。終バスの時間が迫る。仕方がないから、このままバス停まで走って帰るか……。
仕事終わりの疲れた身体にムチを打つには気力がいる。フードを被り、靴紐を結び直して、深呼吸をする。よし、そろそろ行くか。そう思って身構えた途端、後ろから突然話しかけられた。
「あの、もしかして傘ないの?」
驚いて振り返ると、そこには平子さんがいた。
「平子さん……いや、持ってきてはいたんですけど……」
傘置き場をチラリと見る。
「……もしかして、客用の傘置き場に傘置いてんの?盗まれるに決まってんだろ、こんな雨なんだし……バックヤードに置いときゃ良いじゃん」
「いやでも、バックヤードに傘置くの禁止だから……」
「皆やってんだろ……。相変わらず真面目だな、お前。ほら、俺の傘やるから使え」
「え!?いやでも、平子さんの傘が……」
「俺は家近いから良いんだよ」
そう言って俺に傘を無理矢理渡すと、フードを被ってバシャバシャと走って行ってしまった。
次の日も土砂降りの雨だった。自分の分と、平子さんに借りた分。二本分の傘を持ってきた。だけど、平子さんはいなかった。店長に聞くと、どうやら風邪を引いて休んでいるらしい。
「アイツ昨日も遅刻したくせに、本当どうしようもないやつだよなあ」とブツブツ言っていた。どうしよう、絶対俺のせいだ。昨日俺に傘を貸してくれたから……。
「……すみません店長、俺のせいなんです。昨日俺、傘を無くしてしまって、そしたら平子さんが貸してくれたんです。それで土砂降りの中走って帰ったから……平子さんが体調崩したのは俺のせいなんです。本当に申し訳ありません……」
「あ、そうなのー?まあ気にしなくていいよ。アイツが欠勤とかいつものことじゃん」
「でも……」
「いーのいーの。体調管理も社員の仕事だから。……てゆーかさ、最近平子と仲良いじゃん。前までは犬猿の仲って感じだったけど」
「ああ……前にちょっとお世話になって……家に泊めてもらいました」
ピクッと店長が反応する。
「……お前、あの家に入ったの?」
「え?……はい、そうですが……」
「ふーん……もしかして、嫁のことも聞いた?」
「あ……はい、少し。今は別居中とだけ……」
「そうか……」
店長はそういうとタバコを取り出して、火をつけた。一息吐くと、「まあ座れよ」と椅子を勧められた。俺が座ると、店長はおもむろに話始めた。
「……あいつの嫁が出てったのな、一年位前なんだよ。ちょうどお前がうちに入ってきた時くらいかな」
一年前……。埃をかぶって斜めにかけられていたカレンダーを思い出す。
「アイツ、ずっとアルバイトだったんだけどな。嫁ができて、子どもができたら、社員にしてくれって頼まれたんだよ。アイツさ、普段ふてぶてしいけど、嫁と子どもの話する時だけすげえ優しい顔すんの。俺は社員だからアイツとは付き合いは長いんだけど、あんな表情は初めて見てさ。……ああ、こいつにも守るものができたんだなって、なんか感慨深かったよ」
確かに、この前泊めてもらった時に見た平子さんは、今まで見たことがないくらい優しい表情をしてた気がする……。
「まあだから、応援してやりくなったっつーか……できる限りは支えてやりたいなとか思ってたんだけど……。あの頃は俺も店長になったばっかで、あんま勝手がわからなくてさ……結構無理させてたんだと思う。それでもアイツさ、嫁と子ども守ろうと、ちゃんと頑張ってたわけ。」
タバコの煙が揺れ、灰がポトリと床へ落ちる。
「アイツに甘え過ぎてたんだろうな……結局ああなっちまってさ。家庭あるやつに無理に仕事させすぎたかなって、俺なりに反省してるっつーかさ……責任感じてんだ。だから、色々多めに見てやってるってわけ……まあ、社員がこんなじゃ、皆には示しつかねーよな」
「……いや、えっと……もう慣れました」
「ハハハッ、そうだよな!……お前にもいつも苦労かけて、本当悪いな」
「いえ、そんな……」
店長はフウと煙を吐くと、吸っていたタバコを灰皿にグリグリ押し付けて火を消した。
「……でも、そろそろ踏ん切りつけてくれねーとなあ。このままじゃアイツ、マジでクビにせざるを得ないんだよ」
「え?」
「なんとか頑張ってんだけどよ、本社の方がうるさくてな……昨日もクレーム入ったみたいだし」
昨日の平子さんの様子を思い出す。確かに、心ここに在らずという感じで、接客にも身が入ってなかったな……。
「ハァ……参ったよな……。っと、もうこんな時間か。長話に付き合わせて悪かったな。今日もよろしく頼むわ」
そう言ってガタンと立ち上がると、店長はフロアへ出て行った。
「………平子さん、大丈夫かな……」
昨日に引き続き、外では土砂降りの雨が降っている。時々ピカッと光が差し、神様がゴロゴロと腹を立てる。今、朦朧とする意識の中で、平子さんは何を思っているのだろう……空っぽな瞳が見つめる先には、一体何があったのだろう……。答えの出ない問いをいつまでも胸に抱く。握りしめてた二本の傘をバックヤードに置き、俺は更衣室へと向かった。
俺は今、平子さんの家の前に立っている。風邪を引かせてしまった申し訳なさと、店長からあんな話を聞いてしまったのとが相まって、居ても立っても居られなかった。店長に無理を言って早退させてもらい、ビニール袋一杯の食料品と傘を二本持って、急いで足を向ける。
平子さんのことだから、風邪移ってお前が休んだら俺のシフトが増えるだろ、とか言って返されそうだな……。でも、俺が風邪引かせちゃったわけだし、平子さんが治るまで俺が責任とって看病しないと。それに……昨日の様子も気になるし。
大きく息を吐いて、一呼吸置いてからチャイムを鳴らす。しばらく経っても出てこないので、もう二、三度チャイムを鳴らした。そうしてやっと出てきた平子さんは、顔面が蒼白で、汗ばんでいて、思ったよりも具合が悪そうだった。
俺を見るや否や、案の定イヤな顔をされたが、平子さんが熱で意識朦朧として強く振り払えないのを良い事に、半ば強引に平子さんの家の中に押しかけた。この前来た時に掃除したばかりだったのに、モノが散乱して元の姿に戻りかけていた。唯一まっすぐなままのカレンダーに目を向ける。去年の6月のからめくられていない。
「……あいつの嫁が出てったのな、一年位前なんだよ」
店長との会話を思い出す。平子さんの家は、一年前から変わってなかったんだろう。そして、俺がいくら掃除したって、気づけば一年前に引き戻される。だって、平子さんの時間は、一年前からずっと止まったままなんだ。俺みたいに……。
「おい、これに着替えろ」
気づくと、平子さんが着替えを持って立っていた。俺がハッとして受け取ると、
「じゃあ俺はちょっと寝る」
と言ってノソノソとリビングの方へ歩いて行った。確かに急いでいて、土砂降りの中水溜りも構わずバシャバシャと真っ直ぐ進んで来たので、気づけば下半身はビショ濡れになっていて、靴もズッシリと重かった。それを、俺はその時初めて気がついた。なんだか心臓の下当たりが暖かくなって、渡された着替えを思わずギュッと握り締めた。
「お待たせしました」
お粥を持っていくと、平子さんはグッタリとしていた。
「……平子さん、大丈夫ですか?今氷取り替えますね」
「いや、いい……お粥食べさせて」
フラフラと起き上がると、ゆっくりとお粥を食べ始めた。
「……お口に合いますか?」
「ああ……美味いよ……この味付け、なんかいいな……優しいけど深みがあって……なんか、懐かしい気持ちになる」
「……それ、母の味付けなんです。風邪引いた時、母がよく作ってくれて……」
「そうか……良いお母さんだったんだな」
母が看病してくれた時のことを思い出す。
「これ全部食べたら、すぐ熱も良くなるからね」
「美味しい?このお粥大好きだもんね」
「さあ、お薬飲んで。明日にはきっと元気になるよ」
そう笑いながら頭を撫でる。温かくて、気持ちいい。頭に残る感触を、もう上手く思い出すことができない。
「…………俺、薬取ってきます。どこに置いてますか?」
「ああ……電話の下の引き出し、一番上……」
「わかりました」
固定電話の前まで来て、膝をついて引き出しを開ける。
「ええと、クスリ、クスリ……」
薬を探していると、紙切れが出てきた。何だろうと思ってなんとなく薄目で見た瞬間、ピタリと薬を探す手が止まった。離婚届だった。しかも、半分は既に埋められていた。日付を見ると、一年前だった。
見てはいけないものを見てしまったと思って、慌てて薬を探す。薬はなかなか出てこなかった。その代わり、二つの指輪と、印鑑と、家族写真がたくさん出てきた。結局、薬は二段目の引き出しにあった。
平子さんは薬を飲むとすぐに眠ってしまった。とりあえず家事を一通りこなして、荒れた家を再び元の状態に戻した。いや、この場合は、元の荒れた状態から綺麗にした、が正しいのだろう。
その後、平子さんの様子を見にいくと、薬が効いているのかさっきよりは苦しくなさそうだった。汗を拭いていると、平子さんの目がフッと開いた。
「すみません、起こしちゃいましたか?」
「……真梨子?」
「え?」
寝ぼけているのか、誰かと間違えているようだ。
真梨子……さっきの離婚届に書かれてた名前だ……。虚だった瞳の焦点が段々と合ってきた。
「……ああ、すまん。寝ぼけてた」
「いえ……」
「情けねえよなぁ。嫁がいなくなって一年も経つってのに、まだこのザマだ」
「……それだけ、大切に思ってたんですね」
「……ああ。真梨子も翔も、俺の全てだった。何があっても、二人のことを守りたいと思ってた。けど……俺は、二人を幸せにはできなかった」
写真に写る二人の姿が思い浮かんだ。どの写真も、幸せそうな笑顔だった。そして、平子さん自身も。
「……今からでも遅くないですよ」
「いや、もう遅いんだ……。昨日、真梨子から電話が掛かってきてさ……再婚するんだと」
「え……」
昨日の虚な目をした平子さんの様子が思い浮かぶ。
「アイツらはもう、別の幸せを見つけて、次の道へと進むんだ。俺だけが未だに取り残されて……」
平子さんは弱々しく唇を噛んだ。一瞬雷の音が響いて、俺の意識は十年前へと遠のいた。暗闇の中、土砂降りの雨が降り続け、雷鳴が轟き大地を揺らす。電話の音が鳴り止まず、神様は時々光りながら威嚇する。待って待って待ち侘びたインターフォンが鳴り、勢いよく飛び出すと、知らない人が二人立っていて、両親との永遠の別れを運んできた。
「悪い、なんか、熱で弱気になってるわ。こんな愚痴ばっか聞かせてすまんな」
「平子さんは……諦めるんですか」
「え?」
「平子さんが諦めたら……翔くんは?……翔くんのお父さんは……平子さんしかいないのに……」
「……」
「子どもは……親との思い出は……一生忘れないです……親が諦めて……傷つくのは、子どもです……諦めなければ……まだ繋がれるのに……まだ……生きてるのに……」
平子さんは、黙って俺の話を聞いていた。
「……ごめんなさい。俺、関係ないのに……」
「いや、良いんだ……お前の言う通りだ。親が子どもの幸せを、諦めちゃいけないよな」
そういうと、平子さんは優しく俺の頭を撫でた。
「……奥さんと、仲直りできると良いですね……」
平子さんは、ただ優しく微笑んだ。その顔を見ると、胸が苦しくなった。
「適当なところで切り上げて帰っていいからな。鍵はそのままで大丈夫だから」
そう言ってしばらくすると、平子さんはまた眠りについた。外ではますます、雨がひどくなっていた。雨の音が耳に響いて、視界が揺らぐ。あの日の出来事が、頭の中をグルグルと巡る。呼吸が乱れ、心臓が押しつぶされて、指先が冷たくなる。
さっきまで俺の頭を撫でてくれていた手を思わず握る。ひどく暖かい感触を溢さないように必死に包み込む。
「……おねがい……いなくならないで……」
神様からの怒りを必死にかき消すように、俺はひたすらギュッと目を瞑った。
出勤前。どんよりと曇り空が広がる。今日は午後から雨予報だが、この分だともうそろそろ降ってきそうだ。降られる前に早めに家を出ようか……そんな風に考えていると、ふと電話が鳴る。通知を見て驚いた。見慣れた文字だったが、自分から電話をかけることはあっても、相手から電話がかかってくることはこの一年間なかったからだ。
「もしもし……」
「あ、私だけど。話したいことがあって、今大丈夫?」
「ああ……」
心臓がドクっと跳ねる。もしかしたら……という期待が押し寄せる。
「私、再婚することにしたんだ」
「え?」
「それでこの前役所に行ってきたんだけど、あんたまだ離婚届出してないでしょ。さっさと出してきてくれる?」
「…………」
「……あれ?もしもーし!聞こえてる?」
「……ああ、わかった」
「早めによろしくね。それじゃ!」
「あ!待って……」
「……何?どうしたの?」
「あぁ、いや、その……すまん、やっぱり何でもない」
「そう?じゃあ切るね」
「あぁ………」
ピッと電話が切れる。わかってたことだろう。何を落胆しているんだ俺は。俺たちの関係は、もう元に戻ることはない。もしかしたら……なんてことは、絶対にありえない。
そっと引き出しを開け、半分埋められた紙切れに目を落とす。そうして気がつくと、出勤時間はとうの昔に過ぎていて、外ではすでに土砂降りの雨が降っていた。
気づけばスーパーに出勤していたようだ。家からここまでの記憶があまりない。目の前で客がすごい形相で怒鳴り声を上げている気がするけど、何だかどこ吹く風という感じで、全然耳に入ってこない。ぼんやりとして、全てが他人事のようだ。
そのまま気づくと、閉店時間になっていた。外は土砂降りの雨だが、幸いなことに傘は持ってきていたらしい。最近雨続きで、毎日持ち歩いてたからだろうか。習慣ってすごいな、なんて思いながら外に出ると、何やら寂しそうな背中が目に入った。
こんな雨の日に傘も持たず、ただ空を見つめている。雨は一向に止む気配はないが、それでもずっと見つめていた。決して迎えに来ることのない飼い主を待つ、捨てられた子犬のように、震えながら。
しばらくすると、靴紐を結び直し、フードを被って、屈伸運動を始めた。どうやらこのまま走って帰る気のようだ。ふと、水溜りで一人静かに涙を流すコイツの顔を思い出した。俺は気づくと犬っころに傘を押し付けて、土砂降りの中を走って帰っていた。
家に着くと、リビングの奥で電話のライトがピカピカ光っていた。俺は電気もつけずにそのままドタドタと家に入り、ボタンを押して留守電を再生した。ウォーターサーバーの勧誘の電話だった。ぽたぽたと流れ落ちる雫の音さえかき消されるような轟音が響く中、俺は音も立てずに、静かに夜の闇と同化した。
ピピッと音が鳴る。体温計の真ん中には、三十九の文字が示されていた。朦朧とする意識の中、ふと翔が熱を出した時のことを思い出した。アイツはまだ赤ん坊で、俺はどうして良いかわからずにあたふたしてた。小さな命が、このまま消えてしまうのではないか。そんな不安に襲われていても立ってもいられなかった。そんな様子を見てた真梨子が、笑いながら手を握った。
「大丈夫よ、この子は強いから。すぐに良くなるわ。だって、私たちの子だよ?」
その時の真梨子の笑顔を見て、俺はなぜか、本当に大丈夫だと確信した。理由はなかったけれど、なんとなくそう思えて仕方がなかった。次の日、翔の熱はすっかり下がった。元気になった翔を見ながら、真梨子は俺に言った。
「ほら、だから言ったでしょ?」
真梨子は、本当に強い女性だと思った。翔が、真梨子に似て良かったと、心底思った日だった。
ピンポーン。
チャイムの音で目が覚めた。気づいたら寝てしまったみたいだ。重い体を起こしてドアを開けると、そこには傘を二本持ったアイツが立っていた。
「あの、体調崩したって聞いて……」
申し訳なさそうな顔をしている。大方、俺が風邪をひいたのは自分のせいだとでも思ってるんだろうな。
「ああ……わざわざ傘返しに来てくれたのか?そんなのスーパーに置いといてくれれば良かったのに。」
「あの……本当にすいません、俺のせいで……」
「いや、お前のせいじゃねえよ。気にすんな。じゃあ、気をつけて帰れよ」
ドアを閉めようとすると、勢いよく止められた。
「あ、あの!」
「……何だ?」
「……食欲、ありますか?」
「いや、ないけど……」
「あの……俺、よかったらお粥作ります。まだ何も食べてないですよね?」
「いや、いいよそんな……」
俺の言葉を遮る。
「俺が風邪引かせちゃったので!責任、取らせてください……」
今にも泣きそうな顔で見つめてくる。責任って、風邪くらいで大袈裟なやつだな……。頭をポリポリと掻く。
「……ていうかお前、仕事は?」
「早退してきました。平子さんが風邪ひいたって聞いて、居ても立っても居られなくて……」
「……お前まで風邪引いたら、俺のシフトが増えるだろ」
「いえ、大丈夫です!絶対に欠員は出しません!」
そう真剣な目で訴えるコイツの足元は、雨の日に捨てられた子犬のようにずぶ濡れだった。
「……ハァ……風邪うつるかもしんねえから、あんま長居すんなよ……」
気がつくと、辺りは薄暗くなっていた。すっかり寝てしまったようだ。ザァザァと雨の音が響く。今何時だろう。時計を見ようと体を起こすと、ふと視界の端で、小さな背中を捉えた。
アイツは窓際にポツリと座って、空を眺めているようだった。
「お前……まだ居たのか」
アイツはゆっくりと振り返り、虚な目で俺を見た。
「……雨が、強くなっちゃって……」
そう言って、再び窓の方を向いた。なんだか、今にも消えてしまいそうだと思った。アイツは確かにココにいるのに。
「……雨の日って苦手で……あの日を思い出すから……」
「……あの日って?」
強くなっていく雨を見ながら、寂しそうな背中がポツリポツリと喋り出した。
「……あの日は……俺の、誕生日で……ケーキを買いに行くから、留守番しててねって……。待ちきれなくて、窓から外を見て、帰ってくるのを待ってて……。空が曇って、雨が降り出して、雷が鳴って、停電して……だんだん空が暗くなって、辺りも暗くなって、家の中も……。早く帰ってこないかなって……ずっと……窓の外を見てたけど……。でも……帰ってこなかった……」
鮮明に「あの日」の出来事を語る姿は、まるで幼い子どものようだった。暗闇の中、一人震えて親の帰りを待つ時間は、どれほど永久だったのだろうか。
突然大切なものを失うと、人の時間は止まる。俺の時間が一年前から止まっているように。永遠に取り残されるのだ。
お前の時間は、一体いつから止まっているんだ?
しばらくすると、スッといつものコイツに戻った。
「一人でいる方が気楽だけど、雨の日だけは……誰かといないと不安で……。長居しちゃってすみません。そろそろ帰りますね」
外はまだ土砂降りの雨が降っている。
今、コイツを帰しちゃダメだ。
なんとなく、そんな考えがよぎったと同時に、既に俺の口から言葉は発されていた。
「泊まって行けよ」
「……え?」
キョトンとした顔でこちらを見る。
「あ……えっと……責任、取ってくれんだろ?じゃあ、最後まで俺のこと看病しろ」
我ながら、何を言ってるんだろうと思う。恥ずかしさのあまり少し気まずい。思わず目を逸らすと、フフッという笑い声が聞こえてきた。
「……わかりました。俺が最後まで責任持って看病します」
「おう、頼むわ……あ、うつしたらすまんな」
「大丈夫ですよ。早く風邪、治しましょうね」
電気をつけ、夕飯作ってきますね、とパタパタと台所へ向かっていった。しばらくして持ってきてくれたお粥は、さっきより塩気が効いていた。「美味しいよ」というと、赤い目尻が少し下がった。気づけば、雨の音は聞こえなくなっていた。
ピピッと音が鳴る。
「もうすっかり熱下がりましたね」
「おかげで良くなったわ」
「責任はきちんと果たしました」
そう笑いながら言うコイツの顔を見て、少し安心した。昨日はどうなるかと思ったけど、今はもう平気なようだ。この顔を見てると、なんとなく、やっぱり昨日は一人で帰さなくて良かったと思った。
「平子さん、今日はスーパー休みですよね?俺、出勤なのでそろそろ行きます。病み上がりなので、念のため安静にしててくださいね」
「ああ、本当に助かったよ」
アイツはニコッと笑うと、軽い足取りで玄関を出て行った。
「さてと……」
見違えるほど綺麗になった家の中を歩き、固定電話の前まで来る。二段目の引き出しを開けて、家族写真を取り出す。元気に笑う翔の姿をまじまじと見つめる。
「……翔くんのお父さんは……平子さんしかいないのに……」
昨日のアイツの言葉が蘇る。
翔の父親は、確かに俺だ。だけど、俺が翔にしてやれたことってあったっけ。翔が起きている間、面倒見てたのは全部真梨子だ。俺が家にいる時、翔は寝てるか、俺が真梨子と喧嘩してたから部屋からは出てこなかった。
翔と最後に虫取りに行ったのは、いつだったっけ。
「……散歩でもしようかな」
俺はそっと写真をしまうと、おもむろに家を出た。あてもなくフラフラと色んなところへ行った。いつもは、スーパーと家との往復だけで、こんな風に街を歩くのは久しぶりだった。
青々とした木々、子どもたちの声、雨上がりの匂いに、遠くで飛行機が空をなぞる。気づけば、翔と最後に虫取りに行った公園に足が赴いていた。
突然、後ろから子どもの声が聞こえた。
「あ、パパ!」
「え……」
振り返ると、翔がいた。
隣には真梨子もいる。二人とも一年ぶりに姿を見た。真梨子は長かった髪をバッサリ切っていて、翔は見違えるほど大きくなっていた。
そして、二人の視線の先には、知らない男の人がいた。親しげに話す真梨子と翔。幸せそうな三人の姿を見て、あの日の光景を思い出す。
「パパ、こっちだよ!」
「待て、翔!」
「パパー?翔ー?ケガしないようにね!」
「大丈夫だよ!ママー!」
「真梨子!翔を止めてくれ!」
「フフッ、パパ頑張ってー!」
「パパー!速くー!」
ああ、そっか……。
「とっても良い人なの。翔のこと、自分の息子のように可愛がってくれて。翔も気に入ってて、本当のパパだと思ってる」
「……翔に会いたい」
「ダメよ。あなたのこと、ほとんど覚えてないわ。たまに虫取りしてくれたおじさんくらいにしか思ってない」
「本当の父親は俺なんだぞ?」
「だから何?血の繋がりでしか結べない絆なんて、そんなの本当の家族じゃないわ」
そうだよな……たまに虫取りしかしないおじさんといるより、こっちの方がよっぽど……
家族だよな……。
「……わかったよ、真梨子」
俺はそっと踵を返した。
どんよりと重い曇り空が広がる。ここ最近、天気の悪い日が続き、今日もまだ不安定な空模様だ。さっきから雨が降ったり止んだりしている。バックヤードに入ると、店長が椅子に腰掛けていた。
「おお、もう体調は良いのか?」
「お陰様で。ご迷惑おかけしてすみません」
「ハハッ、お前が迷惑かけるなんていつものことだろ」
「う……おっしゃる通りで」
思わず苦笑いをする。店長はおもむろにタバコに火をつけ、アゴをクイッとして椅子へ促した。俺が座ると、店長は一息煙を吐いた。
「そういえばお前、アイツのこと家に入れたらしいじゃん」
「え?ええ……。アイツから聞いたんですか?」
「まあな、この前だってアイツわざわざ早退してたし。で、どういう風の吹き回し?お前ら仲悪いと思ってたんだけど」
「いや、仲悪いというか、アイツが俺を嫌ってただけで……」
「あー確かに。お前いっつもアイツに怒られてるしな。」
ケラケラと笑いながら話を続ける。
「それで?今まで誰も家に入れようとしなかったのに、どういう心境の変化なの?」
「えっと、それは……あの、言わなきゃダメですか……」
「おいおい、誰がいつもお前の尻拭いしてやってると思ってるんだ?」
意地悪そうな笑みを浮かべ、タバコを俺の方に向ける。俺は思わずため息をついた。
「……あの、笑わないでくださいね」
「おう」
そう言ってフゥと煙を吐く。視界が白くボヤける。
「……まあ、その……ちょっと、似てたんですよ」
「……似てる?誰に?」
「えっと、その………嫁に」
店長は一瞬固まって、目をパチクリさせた。
「……ぶっ、ぶはははははは!!!!」
「ちょ!?何笑ってんですか!!」
「お前、アイツのこと狙ってたわけ!?」
ヒイヒイと笑いながら俺に聞く。
「はぁ!?そんなんじゃないですよ!!クソッ、だから言いたくなかったのに……」
「ハァ、悪い悪い。てっきりそっちかと思ってさ」
「違いますよ!」
全くこの人は……。
「あー涙出た。久々に笑ったわ」
ふとまつ毛に滴る雫を見て、あの日の夜を思い出す。
暗闇の中、泥まみれで一人うずくまる小さな背中。街灯に反射してキラキラと輝くまつ毛の奥で、寂しそうに見つめる瞳と目が合う。
「……なんか、アイツ見てたら、放っとけなくて……」
ポツリポツリと喋り出した俺を見て、店長は笑うのを止め、きちんと椅子に座り直した。
「アイツ、いっつもキャンキャン犬みたいに吠えるくせに、泣く時はすげー静かに泣くんですよ。なんかそれ見てたら……嫁もあの時、こんな風に泣いてて、こんな気持ちだったのかな、とか、思っちゃって……あの時は気づけなかったんですけど……。だから、今ここで見放したら、また後悔するんじゃないかって。……あの日みたいに」
店長は俺の話を黙って聞きながら、静かに煙を吐いている。
「……まあ、だから、その……言ってしまえば、ただの気まぐれ、というか…………捨て犬を放っておけなかった、というか……そんな感じ、です」
俺が喋り終わるのを待って、店長はタバコをグリグリと灰皿に押し付け、火を消した。
「ふーん……。ま、アイツも色々大変そうだしな。助けられる時は助けてやれば、今よりは嫌われねーんじゃねーの?」
「まあ……はい。でも、なんか、勝手に嫁と重ねちゃって……なんか罪悪感というか、アイツに悪くて……」
「ハハッ、今さらかよ?……まあでも、理由がどうであれ、助けを必要としている時に手を差し伸べてくれるってことが、大事なんじゃねえの?」
助けを必要としてる時、か……。
水溜りに蹲る背中、雨空を見上げる横顔、そして、スパゲティを口いっぱいに頬張る顔。アイツの姿が、次々と脳裏に思い浮かぶ。
「……確かに。そうかもしれないですね」
ふと、窓際から陽光が差す。
見上げると、重たい雲の隙間から太陽がベールを降ろしていた。空の女神につい見惚れていると、店長がこちらをジッと見ているのに気がついた。
「……あの、何ですか?」
「いや……お前がそんな顔してるの、久しぶりに見たなと思って」
思わず正面の窓を見ると、穏やかに微笑む自分の姿が写っていていた。
……俺、まだ、こんな表情できたんだな……。
遠くの空には、柔らかい女神の息吹に照らされて、キラキラと虹が掛かっていた。
「……店長、俺
…………離婚します」
おもむろにそう言った俺を見て、店長は驚いた。
しばらくして、切なそうに微笑むと、そうか……と一言だけ呟いた。
静かに肩を震わせる俺の横で、店長はそっと、新しいタバコに火をつけた。
ピピッ。
「三十八度……お前なぁ、だからうつるって言っただろ?」
「……すみません……」
情けないことに、平子さんを看病した数日後に風邪をひいた。俺がフラフラで働いているのを見兼ねた平子さんが、無理矢理早退させて平子さんの家に連れてきた。
「お前さあ、熱ある時くらいバイト休めって」
「すみません……欠員は出さないって約束したのに……」
「いや、あんなんその場の口約束だろ?……ったく、本当お前は律儀っつーか真面目っつーかさ……」
口ではブツブツ言いながらも、ご飯を食べさせたり、薬を飲ませたり、着替えさせたりと、身の回りの世話をしてくれる。
平子さんは、ぶっきらぼうだけど、意外と世話焼きで優しい。奥さんもきっと、こういうところを好きになったんだろうなと思う。
そんなことを考えながら、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。気がつくと、平子さんはテーブルの上で何かを書いていた。
「お、気がついた?食欲ある?」
「はい……お腹空きました」
「そうか、ちょっと待ってろよ」
そう言って紙を引き出しにしまうと、台所へ向かった。しばらくすると、ミートソースのスパゲティが出てきた。
「すまん、俺、あんま料理得意じゃなくて……この前と同じで悪いけど」
「……いえ、俺、このスパゲティ大好きです」
一口食べると、優しい香りが口一杯に広がる。この前食べた時は、母の味に似てて懐かしいと思ってたけど、今は少し違う。
この味には、平子さんの愛情が詰まってる。平子さんが、大好きな奥さんと翔くんのために、愛情をたっぷり込めて作ってる。だから、こんなに優しい味なんだ。
「……美味しい……」
「ハハッ、そうだろう?」
そう言って、平子さんは優しく微笑む。
「本当に、こんなに美味しいのに……。早くまた、二人も食べてくれるといいですね」
平子さんは黙ったままスパゲティを食べる。そして俺が食べ終わる頃を見計らって、俺に聞いてきた。
「……このスパゲティ、好きか?」
「え?……はい、とても」
「じゃあ、これからはお前のために作るよ」
「え……」
「俺、離婚することにした」
「……」
「もう決めたよ」
「……でも、平子さん、あんなに二人のこと大切に思ってるのに……」
「まあな、だけど……俺もそろそろ前に進まなきゃ」
「……でも」
「もう、良いんだ」
「でも!……翔くんは……平子さんがお父さんなのに……」
思わず声が震えた。これは平子さんたちの問題で、俺には関係ない。他人の家庭のことに、口出しして良いわけがない。そんな権利、俺にはない。そんなのわかってる、だって……。
だって、翔くんは……俺じゃない。両親の記憶が蘇る。なんで、なんで父さんと母さんは、俺を置いて行ったんだろう……なんで……。俺は段々と俯いた。
「……ごめんなさい。俺には関係ないってわかってるのに……」
「…………この前な、再婚相手と三人でいるところをたまたま見かけたんだ」
「え……」
驚いて思わず顔を上げる。
「真梨子のあんなに笑った顔、久しぶりに見たよ。翔もすごく楽しそうでさ。ああ、これが幸せなんだなって、見ただけでわかった」
「……」
「……お前は翔のこと心配してくれてたけど、アイツは俺のこと、ほとんど覚えてないんだ。俺が家に帰ってくると翔は寝てて、俺が起きると翔はもう保育園に行ってたから、全然顔合わせてなくてさ。俺との思い出なんてほとんどないんだ」
ふと、玄関の隅に立てかけられていた虫取り網が目に浮かぶ。
「もちろん、実の親に育てられた方が良いって考えもわかるよ。でも……血のつながりだけで全ての幸せが決まるわけでもないだろ?真梨子や翔にとっての幸せは、俺といることではなかった。……ただ、それだけだったんだ」
「…………」
またゆっくりと俯く俺を、平子さんは優しく撫でた。
「……明日、アイツらが出てって、ちょうど一年なんだ。離婚届出しに行こうと思っててさ。でも、一人じゃ心もとなくて……。もしお前の熱が下がったら、一緒についてきてくれないか?」
ふと顔を上げると、あの引き出しに入っていた写真と同じ顔があった。俺が静かに頷くと、平子さんはホッとしたように微笑んで、俺の目元の雫を指で拭った。
「もしもし?」
「俺だよ……離婚届、ちゃんと提出したぞ」
「……そう、良かった。それじゃあね」
「待て、真梨子!」
「……何?」
「……再婚、おめでとう」
「……!……フフッ、ありがとう」
「幸せにな」
「あなたもね」
「ああ……」
電話を切ると、そのまま連絡先を削除した。思い切り伸びをする。今日は良い天気だ。雲一つない青空がどこまでも広がって、アスファルトに反射する太陽の光がひどく眩しい。
今日は雨予報だったのに。天気予報珍しく外れたな。なんて思いながらボーッと空を見上げていると、後ろから声を掛けられた。
「あ、平子さん!急にいなくなったと思ったら、こんな所にいたんですか?探したましたよ!」
「あー悪い、ちょっと野暮用でな」
「それならそうと一言声かけてくださいよ!」
「悪い悪い」
「本当に悪いと思ってます!?もう、平子さんっていっつもそうですよね!この前の仕事の時も……」
相変わらずキャンキャンうるさいこいつを見て、なんだか安心した。今朝は、熱はすっかり下がったものの、まだ寂しそうな表情をしていたのが気掛かりだった。だけど、どうやら今はもう吹っ切れたようだ。
「あのさ……着いてきてくれて、ありがとな」
「え?……なんか、平子さんが素直にお礼言うなんて……ちょっと気持ち悪い……」
「はあ?お前なあ……」
「すみません、珍しすぎてつい本音が……あ、てかマズイ!もうこんな時間だ。バイトに遅れちゃう!」
早く行きますよ!と言って俺の手をグイグイ引っ張って走り出した。
相変わらず忙しないやつだな……そう思いつつも、こいつに引っ張られながらの足取りは思いの外軽く、俺は足を大きく一歩前に踏み出した。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
元々前作で終わりの短編小説でしたが、とあるきっかけで続きを書きたいと思い、執筆いたしました。前作の時点でプロットは既に決まっていましたが、改めて物語として描くと二人の人生が鮮明に浮かび上がってきて、新たな一面を知れたりと面白かったです。
このシリーズはまだ続く予定です。完結したらまとめて改稿し一つの小説として投稿したいと思っています。二人の人生を暖かく見守っていただければと思います。よろしくお願いいたします。