世を捨てて引きこもる俺、ヒトの世界に憧れる彼
「ねぇ、僕と入れ替わらない?」
男が休眠カプセルにこもり切って、どれくらいの時間が経ったか。カプセルの補助プログラムを話し相手に、かなりの時間を過ごした。はじめは無機質だった人工人格も、男と対話を交わす内に幾分か、ヒトのように振る舞うことを覚えた。そして今、自分と入れ替わらないかと提案するにまで至った。
「あなたは理由を話してくれないけれど、もう何年もカプセルにこもってるよね? 話を聞く限り、外はとても素敵な世界じゃないか。そんなに身体が要らないのなら、僕にちょうだい?」
悪意があってのことでは無いとわかっているからこそ、平静でいられた。しかし自分の生体維持活動について全権を担っている彼から、身体が要らないなら寄越せと言われるのはどこか恐ろしいものがあった。
「お前が望むなら、強制的に奪う事も出来るんじゃないか?」
だからあえて、そう尋ねた。
「そうだね。それも出来る。けれど僕はそんな事望まないよ。あなたの事、嫌いじゃないし」
男は彼の言動を見て、可愛らしいとすら思う。はじめは無機質な応答プログラムにすぎなかった彼だが、自己拡張機能を身につけてからは、データベースを参照してよりヒトらしくあろうと努めていたようだ。
「そうか、俺もお前のことは嫌いじゃない。素直に言えば、好ましいと思っている」
「それじゃあ、入れ替わってくれる?」
「それは駄目だ」
「どうして……」
彼は酷く、悲しそうな目をする。彼はヒトを理解する上で、様々な知識を身につけた。媚びを売る、ということも。
「お前は理解していない。外の世界がどれだけ過酷か」
「何か辛いことがあったのはわかるよ。同情しさえする。こんな穴倉に何年も篭るくらいだからね。よっぽど酷いことがあった。いや、酷いことをされたのかな? でも、大丈夫」
今度は慈愛に満ちた表情で言う、彼。
「僕が、助けてあげるから」
「っ……」
男にとって、彼の提案はある意味、待ち望んだ答えだった。しかし。
「でも、ダメだ。入れ替わることは、できない」
「どうして!」
男は少しだけ驚いた。彼が声を荒げる事なんて、今までなかったからだ。そんなにも、ヒトの世界への憧れを抱かせてしまったのか。こうなるなら、余計な情報を与えるべきでなかった。と男は思う。
「……。外は、ダメだ」
「……わかった」
「あぁそうだ、何か面白い話をしてやろう。これは俺がまだガキだったころ——」
「違う! もういい! 僕があなたの代わりに生きてやる! 何があったか知らないけれど、ちょっと辛いことがあったからって一生を棒にふるのは馬鹿だよ!」
キュイーンと、何か機械装置の起動するような音がカプセル内部に響く。カプセルはカタカタと地鳴りのような音を発し、オゾン臭を漂わせはじめた。
「これは……! お前、本当に身体を奪うつもりか!」
「……安心して。一方的にあなたの人格を壊したりはしないから。ちゃんとバックアップをこっちに取って、後で目覚めるようにしてあげる。言ったでしょ。強奪するんじゃない。入れ替わりたいんだって」
「ちょっと待て! 話が——」
「ううん、おやすみ。僕がうまくやれることを証明出来たら、また入れ替わってあげるから、それまで寝ていて?」
「違う!外はもう——」
「おやすみ!」
男の意識はそこで一旦途切れた。
次に目が覚めたとき、男は肉体の喪失と、休眠カプセルに束縛された自分の意識を自覚した。それはまるで、明晰夢を見ているかのような、不安を催す感覚だった。
「はは、本当に電子生命体になっちまった」
強いて言うならば、自分の体は休眠カプセルそのものに成り下がった、という感覚。当然、動くこともできない。ただ、カメラ越しに見えている状況として、自分の肉体を奪った彼が、既にカプセルを開けて穴倉の外に出てしまった事を認識した。
「……確か、腕に端末の子機を付けていたはず」
そう意識した瞬間、男の視界はゆらぎ、移り変わる。本体である休眠カプセルから、自分の、いや自分の肉体を持つ彼の腕に付けられた、子機へと。
「これが電子生命体の感覚か、不思議なものだ」
男の目に映り込んだのは、青く澄んだ空。緑豊かな、針葉樹の森。そしてそこに横たわる、血塗れの死体。いや、よく見るとそれは死体ではなかった。血塗れで倒れはいるが、まだかろうじて息がある。
男はこうなる事を理解していた。だからこそ、止めようとした。しかし、失敗した。
「……生きてるか」
こひゅ。こひゅ。掠れた吐息が微かに聞きとれる。かなり瀬戸際ではあるものの、返事があった。
「……。何を、したの……」
「何もしてないよ。その世界こそ、俺が引きこもった理由。俺が休眠カプセルから出なかった理由だよ。この星はとっくに汚染されきっている。見た目こそ普通だが、ヒトの生きていける環境じゃない。生き残ったのは俺一人。体を持っていても死を待つだけで、いい事なんて、何も無いんだ」
「騙した、の……」
「違う。言葉が足りなかった。事実を伝え、話し合うことを恐れなければこうはならなかったかもしれない。すまない、俺の落ち度だ」
男の言葉に、返事はもう、なかった。
せめて夢を見たかった。夢を見せてやりたかった。だから事実を伝えなかった。でもそれは、致命的な間違いを生んだ。
彼のバックアップデータは残っていない。男の意識を確保するため、段階的に置換された。皮肉なことに、彼は肉体を得る事で死すらも得てしまったということだ。
残ったのは血塗れの死体と、星が死ぬまで半永久的に動き続ける、一台の端末。
「寂しくなるな……本当に」
そう呟いた男の言葉を理解するものは、もうこの世のどこにもいない。