その1
「虎豹騎ねえ」
報告書に目を通しながら、男は思わず呟く。「まあ、アレウスからの手紙にも書いてあったから、驚きはないのだがね。それでも些か意外では……あるか」
静かな頬笑みを浮かべたままで執務机の上に置いていた右手の人差し指で数度机上を叩いてから、徐に鈴を鳴らす。
「お呼びでしょうか?」
「ダリウスを呼んでくれ。後、件の茶葉で一服する手配を」
「御意」
傍付きの臣下の者が下がってから、気怠げに壁に掛けられた地図を眺める。
(南を手当てする前にこちらに来るとは思わなかったが、さてはて、当代随一の英傑様は何をお考えかね)
与えられた情報を脳内で弄くり廻しながら現在考えられる最悪の状況をはじき出そうと男は勘案し続ける。
「お呼びになりましたか、兄上?」
まんじりともせずに地図をじっと見ていた男は扉から声を掛けてきた人物に目を移す。
「ダリウス、来たか」
ダリウスと呼ばれた人物はにこりと笑い、兄が視線を向けていた地図の先を見る。
「あー、衢地か、これ? いや、交地にも見えるな……。周辺を併呑すれば争地にもなりそうだけど、さて?」
「お前と見立てがほぼ重なって一つ安心したよ」
言葉とは裏腹に一向にそう見えない顔付きで男は再び地図に目を落とす。「虎豹騎が攻め落としたそうだ」
「おや、彼の“覇者”は南から併呑すると見ていましたが、いきなり北に来たのですか?」
兄の言葉に驚きを覚えた様子でダリウスは地図を指で追う。
「些か驚きではあるが、まあ、やってやれない戦略でもないしな。それに、こちらの注文通り動く義理がある訳でもなし、幾つかの推察は出来るが……さてはて、それでも謎は幾つも残る」
「俺ならば絶対にこの手は打ちたくないですがねえ。内部での争いを無視して、理想で云えば次の次ぐらいに打っておきたい手を先に打つ? そう考えたとしても、少し飛ばし過ぎな様な?」
「お前の趣味は石橋を叩いて渡らないだからな。こんな博打めいた策は好みではなかろう」
呵呵と笑いながら、男は大きく頷いてみせる。
「それにしても、“覇者”がここまで思い切った策に出るとは……。全く、何があった気になるところですね」
「何、我々が困惑しているのだ。そこいら近辺ではもっと混乱しているだろうよ。但し、思い切って先手を打てば、ネカム近隣を想定よりも早く纏められようから、その点では奇を衒ってはいるが上策であるな」
「ああ、混乱していますか」
「誰も彼も彼の覇者がいきなり北に大きな一手を打ってくるとは思ってもいなかったわけだからな。無駄に争いの手を伸ばさずに上手い事覇権を握れれば、あるいは……」
男は暫し考え込んでから、「うん、邪魔しないと我らが滅ぶな」と、結論づける。
「兄上がそこまで云われるのならばそうなのでしょうな。……それで、何手足りませなんだか?」
「僅かに一手か二手。本の僅差にて我らが覇道は潰える。とは云え、我らのことに勘付いてこの一手を打ったわけでも無さそうだから、そこに付け入る隙はある、かな?」
男は真剣な表情を浮かべて地図の上を舐める様に視線を動かした。
「兄上がそう仰せならばまだ安心のようですな。それで、今からそれに対応する一手を打つので?」
「あー、勝手にその一手は打たれることになっているから俺達は俺達で他の一手を考えることにしよう」
苦笑しながら男は立ち上がり、「良い茶が入ったんだ。どうだね?」と、ダリウスに言った。
「それは良いですな。御相伴しましょう。丁度良い茶菓子が手に入りましてね。兄上と楽しもうかと持ってこさせました」
「そいつは手回しが良い事だな」
互いの従者に指示を出し、兄弟はそのまま応接の長椅子に腰を下ろす。
程無くして、前もって指示を出していた茶の方が先に用意される。
「それで兄上、アレウスを扱き使う以外の我らの策とは?」
言葉を飾ろうともせずにダリウスは兄の言っていた勝手に打たれる一手の内容を言って退ける。
「何よりも先ずはハイランドの軍権を掌握せねばな。政の方は後回しでも問題ない。軍権のない政など、俎上の鯉でしかないのだからな」
敢えて大前提から問い糾してきた弟の性格を良く知り尽くしている男は、当然の様に自分達が覇業を為すために絶対必要な最低条件を答える。
「ですが兄上。当家は父上の御陰でハイランド随一の武を有していると愚考致しますが?」
兄の答えた大前提に対し、既にそれを手に入れなくても行動できると言う考えをダリウスは示した。当然、兄が言うであろう答えが分かっていながらもダリウスは敢えて尋ねたのだ。
「お前の云うその武で政敵を葬った場合、我らが同じ様な目に遭わぬと思うかね?」
「まあ、力尽くで国を奪わねば無理でしょうな」
兄が間違いなく大義名分を持って国を乗っ取る方針である事を再確認し、ダリウスは心中で一つ息を付く。
彼ら兄弟の想定していた情勢を“覇者”は見事なまでに粉砕していたのだ。お互いの考えにズレが生じていないか、それだけがダリウスの心配事だったのである。
それさえなければ後はどうにでもなる、それだけの自信がダリウスにはあった。