色のない絵の具
彼は色を識別できない。色彩感覚と呼ばれる色認識システムは正常であるはずなのになぜだかどの色を見ても全てが同じような感覚に陥る。それは彼が中学生になったころから始まったもので、それまでは虹を見て美しいと、絵を描いて楽しいと思えていた。色彩を失った彼の世界は暗く重いもので、そこに感情はなかった。
人の感覚は色に支配されている。色彩を無くした彼がその世界で思ったことだ。だから色のない世界はこんなにもつまらないのだと。
彼の世界から色がなくなったとしても世界は回り、未来は必ず近づいてくる。今という時は更新され今だったものが過去に、未来だったものが今になる。
V系バンドがプリントされた白いTシャツに赤いサルエルを履きこなしたおしゃれなAが黒い丸襟のブラウスに黒いハイウエストのスカートでシックにまとめたBに話しかける。Bが落としたらしい薄桃色の細長いペンケースを手渡している。あぁそうか、AはBに恋愛感情を抱いているのか。だから頬が赤い。
動かない彼の世界とは対極的に、彼の周りの世界では常に何かが新しくなる。彩られた日常の中で色を持たない彼はつまらない世界に興味はないと窓の外の灰色の風景を眺めていた。
いつからか、彼の夢に少女が現れるようになった。ショートヘアに白いリボンをつけ、浅葱色のワンピースを着た少女だ。夢の中でさえ色を識別できない彼が唯一、少女の纏う色だけを識別できた。とてもよく笑う、感情豊かな少女だった。彼は彼女に、自分が色を識別できないことや色彩あふれる世界の素晴らしさを説いた。すると彼女は彼に言った。「私も色がわからないの。」でもこれは生まれつきのものだと。「色を感じる事が出来ないの。私の中ではリンゴも空も地面の色もみーんな一緒。でもそれは仕方のないこと。私の体がそうだから。」彼は彼女に対して一瞬でも既視感を覚えたことに恥ずかしさを感じた。自分は色を知っている。リンゴと空と地面の色の違いも、それぞれどんな色なのかも。
「お兄さんは色のない世界は楽しくないしつまらないっていうけれど、私は違う。知らないからこそ知りたいし、知るために前進することは楽しいわ。お兄さんは色を失って目の前の世界が灰色一色になってとってもショックだったと思う。それでも、顔をあげてほしいの。お兄さんの周りでは何か新しいことが起きているはずだから。」顔をあげ、少女と目を合わせる。しっかりと、まっすぐ見つめ合う。彼女の瞳が青いことを知った。
目の覚めた世界にやっぱり色はなかった。どこを見ても同じ色。彼はもう夢の内容をすっかり忘れてしまっていた。今日もまたつまらない世界を生きるのか。顔をあげると首の骨が鳴った。そういえばずっと下ばかり向いていた気がする。部屋を出て、階段を下りる。踊り場を通過するとき、壁に掛けられていた絵画の青い瞳の少女が微笑んだような気がした。