致死量の鼻血を噴射させる風紀委員長~暴力編~
八時半から一時間目の授業が始まる九時までの三十分間、生徒会室にて、現生徒会長と次期生徒会長の顔合わせが予定されていた。
国内屈指のエリート進学校である久遠学園高等学校は、創立101周年の歴史を持つ由緒ある学校だが、古くからのしきたりによって、生徒会長は成績トップの二年生が務めることとなっている。
生徒会長は毎年三年生の夏に、学年首位の二年生へとその座を受け渡し、各々が目指す有名大学の受験勉強にいよいよ励んでいくというのが習わしなのだった。
そして今年、現生徒会長の後を継いで、101代目生徒会長に就任するのが静だった。ちょうど明日が全校生徒の前で行われる就任式なのである。
それに先駆けた顔合わせというのが今日だったのだが、
「遅刻だ……!!」
早速、遅刻するのであった。静は四階の廊下を猛ダッシュしている。
一年生の教室が並ぶ廊下を抜けて、突き当りの階段を五階へと上れば、そこに生徒会室はある。
(生徒会長ってどんな人だろうな……榎元朝、かあ)
その名の通り、現生徒会長は紗那の兄なのである。
顔くらいは知っているものの、まだ会ったことがない。
(のっけから遅刻とか我ながら俺ってないよなあ……怒らせちゃってたら榎元に頼んで取り成してもらうしかない……!)
と、その時である。
ずり、すってーーーーーーーーーーーーーーーーーん
静は盛大にすっころんだ。
何らかの障害物を踏んづけて足が滑り、そのまま後方へと倒れ込む。背中を強か打ち付けた。
そして、わずかな時間差で静のちょうど顔面へと降ってきたのは、彼が足を滑らせた勢いで宙に舞い上がった代物である。
粘着質のべたべたした感触を顔面に覚えながら、恐る恐るその代物を持ち上げてみれば、それはバナナの皮だった。
(お、俺の超美形な顔面が……!!)
バナナのカスを指先でぴしぴしと払い除けながら、怒りに打ち震える静。
苛々としながら周囲を見回せば、何もバナナの皮だけではない、食べ終えた菓子の空箱やらポテトチップスの欠片やらビリビリに破れた雑誌やらが散乱していた。
そして決して広いとは言えない廊下は、何人もの横着そうな生徒によって陣取られている。
数人で輪を作って廊下のど真ん中であぐらをかいている男子生徒や、廊下に化粧道具を散らかして、こちらもあぐらをかきながら、ぱたぱたと化粧をしている女子生徒。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立て、朝から賑やかなものだった。
中にはホストやホステスかと見紛うような外見の者もいる。
国内屈指のエリート校らしからぬ光景だが、このような素行が良いとは言えない生徒たちが増え始めたのは実のところ、まだここ一年ほどのことなのである。
それまでは制服を校則通りに着用し、女子にしても化粧気のない生徒が大半だった。
髪を染めている生徒だって皆無に近い。
ごく一部の不良じみた生徒、あるいは天才と変態は紙一重と言われるような類の人間を除いては、折り目正しい真面目な学生だったのである。
教師たちにとっては打開すべき切迫した状況であるに違いないが、まさか自分たちの取った「ある行動」がこのような結果を招いているとは予想もしていないのだった。
(なんで俺がこんな古典的なトラップに引っかからなければならなかったんだろう……ひどい、ひどすぎる)
静は廊下を見渡しながら思う、こうした素行不良の生徒たちを次期生徒会長ともあろうこの私が放っておいて良いのであろうか。
しかしそれは「正義感に駆られた」ポーズに過ぎず、本当のところは自慢の顔面を汚されたことへの怒りを発散したいだけなのであった。
「おいお前ら!!」
静は衝動的に気合の入った第一声を彼らにぶつけるのだが、
「ああ!?」
一年生とは思えない柄の悪さで睨まれた。
静は思わず怯みそうになるものの、
「ろ、廊下でそういう態度を取るのは……」
その言葉がまだ終わらぬうちに、
「なんだよ文句あるかよ!?」
「なにもございません」
即答した。静はまさしく腰抜けであった。
と、その時である。
「貴様らーーーーーーーーーーーーーー!!」
どどどどどどどどどどどど!!
突然の怒声とともに、廊下にあっても土煙を立てんばかりの勢いで、こちらへと迫り来る男がいた。
そして、ききーーーーーーーーーーーーと急ブレーキでもかけるかのように、生徒たちの前で足を止める。
彼は両手を腰にやって胸を反らすと、更なる大声で叫ぶ。
「貴様らはここがどこだかわかっているのかこの馬鹿どもめーーーーーーーーーーーー!!」
静はげんなりと彼の名を口にした。
「杜……」
杜千明、それがこの男の名だった。
静のクラスメイトであり、久遠学園高等学校の風紀委員長である。
学園内の風紀を司る者らしく、千明は制服をしっかりと着こなしていた。
ズボンはきっちりハイウェストでベルトを締め、シャツも一番上のボタンからぴしっと留めている。
まさに学生の鏡とも言うべきいでたちだった。
千明は昨年の入学当初から風紀委員長を務めていた。
本来ならば生徒会長と同じく二年生が務めるべきものなのであるが、風紀に対する彼の熱心さに心打たれた教師たちにより、なんと入学早々に風紀委員長を務めるという異例が認められたのである。
今年で委員長として二年目になる千明の、風紀へのこだわりは止まることを知らない。
天才と変態は紙一重、千明はまさにその類の人間だった。
そして去年からの著しい風紀の乱れに、この風紀委員長の変態性が大いに関係しているのは明白だった。
もともと生徒を学業に専念させるために風紀の取り締まりは厳しい方だったが、昨年から風紀委員長に就任した千明による変人ゆえの極端な横暴さに、生徒たちが反発しているのである。
教師たちは知る由もなく、風紀を乱れを抑止するためであると千明の暴挙を容認しているため、事態は悪循環の一途を辿っている。
千明はたむろしている生徒たちをびしい、と指差して、
「ここは久遠学園高等学校、古から守られし尊き風紀が脈々と息づく場所なるぞ!! 初代校長・東郷新三郎殿が掲げられた我らが校則、その真髄は清潔、そして質素にある!! 貴様らまさか、存ぜぬ、とは言わせんぞ!!」
「つーか知らんし」
「存ぜぬつーか……知らんし」
「知らんし」
皆、失笑だった。
すると千明は一体どこから取り出したのか、いきなりメガホンを構えて、
「存ぜぬでは済まんのだこの下等生物めーーーーーーーーーーー!!」
きーーーーーーーーーーーーーーーん
と耳を劈く怒声はもはや騒音だった。
それは無論、生徒たちの苛立ちを煽るばかりである。
口々に文句を垂れながら生徒たちは千明を睨みつける。
だが千明は静とは違い、そんな高圧的な態度に怯む様子はなかった。
ふんと胸を張って、一人の男子生徒にずかずかと近づいていく。
「貴様! その品のないトサカを切れ!! みっとももない! 下品だ! もはや下劣だ!!」
ぴしぴし、とその金髪に近いほど脱色された逆立った毛先を引っ張る。
それが癇に障った生徒は眉間にしわを寄せて、不快な表情を露にした。
彼は自分の髪を掴む千明の手を払い除けようとして、
「おい、やめ……」
しかし、その言葉を遮るように、
じゃきん!! ぱさり。
不穏な音とともに、床に何かが落下した。
髪が一房、落ちている。
そして千明の手には鋭い刃が二つ組み合わさった道具、つまりハサミがあった。
男子生徒の髪の一部は耳元まで短く刈られ、十円ハゲのごとくに生白い地肌が見えている。
千明が彼の髪の毛を切り落としてしまったのである。
「あああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
男子生徒は愕然として、千明の手にあるハサミと床におちた自らの髪を交互に見やる。
千明は憐れな男子生徒を鼻で笑うと、ハサミを指先でくるくると回す。
そしてまるで刀を鞘にしまう時にように、腰に下げられたハサミケースにしゃきんと差し込み、
「何人たりとも我が守りし風紀を犯すことなどできぬ。勝利は常に、我の掌中に有──」
どがーーーーーーーーーーーーーー!!
十円ハゲ生徒による鉄拳制裁を受けた。
「う、おおおおお……!!」
よろめいて廊下に倒れ込む千明を十円ハゲ生徒は見下ろす。
「てめえぜーーーーーーったい許さねえ!! こんな野郎こらしめてやろうぜ!!」
その言葉が皮切りだった。
「てめえうぜえんだよ!!」
「しゃしゃり出てくんな去れ変態!!」
「PTA代表のお母さんに言いつけていつか学園から追放してやるんだから!!」
どかばきばこすか!!
千明を踏むわ蹴るわ殴るわの暴行を加える生徒たち。
どがばきごすぼかべきぼきがきばし!!
やがて、
「……ふう」
「……帰るか」
ひとしきり暴力を振るった後にようやく気が済んだ彼らは教室へと戻っていくのだった。
ただし十円ハゲ生徒だけは腹の虫がおさまるわけもなく、去り際に更に一発蹴りを入れている。
周囲には敗者が醸す物悲しい沈黙が満ち満ち、伸びた蛙のように廊下に這いつくばる千明のその背中には、大量の足跡が残されていた。