拝啓、愛の神様
拝啓、愛の神様。どうか罪深き私をお赦し下さい。
総ては、いたずらな悪魔が虚ろな声で甘くささやく所為なのです。
宵空を刹那に瞬く流星の如き、あのひとの比類無い美しさ、それが私の思考、感情、手足つま先からさえも自由を奪い去って、私をがんじがらめの欲望の為すままにさせるのです。
あのひとの目に映る、指先の触れる、唇を開かせる、そのすべてをただ私ひとりの存在で埋め尽くしてしまいたくてしまいたくて、染め上げてしまいたくてしまいたくてしまいたくて、けれどああ、そんな衝動がもしも私の頭のなかを飛び出してしまったら、妄想から解き放たれてしまったら、ああしかし、ああでも、あぁああああでもでもでも、ああぁあああああぁぁぁもうもうもうーーーーーーーー!!!!!!!!
つまり俺いまめっちゃ恋してるうううううううううう、好きすぎて好きすぎて超々々々々々々好きすぎて、どうしたらいいかわからなくて苦しくて、神様神様ああ神様、お願いですどうか俺をたすけてええええええええええええ
という胸中の激しい雄叫びとは裏腹に、少年は電信柱の影にひっそりと身を隠して息を殺す。
等間隔に植えられた街路樹は瑞々しい葉を茂らせ、その眩いばかりの緑の上には水滴が弾けて、雨の名残を伝えていた。
明け切らない梅雨のせいで湿気を孕んだ空気が、間近に迫った夏の気配を運んでくる。
少年の視線の先にあるのは、雲の切れ間から暖かな光を放つ夕日だった。
少年は思う。
なんてきれいな夕日なんだろう。美しすぎる。でもそんな夕日も、あのひとの完璧なる美には敵うまい。
そして夕日は少年の視界のピントから外され、代わってフォーカスされたのは一人の女性である。
(あああぁぁぁぁ~~~~……なんて美しいんだぁぁああぁ……)
栗色の長い髪が夕日に照らされて艶やかに輝いている。
彼女の華奢な身体が動くだけで美しさが瞬いて、まるで光の粒子が宙を舞い飛ぶかのように、少年の視界をきらめかせる。
年の頃はおそらく二十三、四だろうか、少年よりも五つ以上は上に思われた。
大人の女性らしい洗練された美しさの中にもどこか、無邪気な少女ような愛らしさを感じさせる、少年の目に映る彼女はそんな人だった。
……もっとも、まだ言葉を交わしたことさえないのだが。
(あの人の前では、このきれいな夕日も、そして俺の美貌でさえも霞んでしまう……!!)
少年はすうっと目を閉じ、顎を上げると、芳しい匂いでも嗅ぐがごとくにに頭を左右に振り振りする。
口元に薄い微笑を浮かべて……と、再び目を開けると、すぐさま飛び込んでくる彼女の美貌に、
(おおおおおおおおお美しすぎて目がやられるうううううううう真っ直ぐに見ることができないいいいいいい)
夕日を直視しただけであることにも気づかないのだった。
(とにかく!)
少年は電信柱の影から熱い想いを視線に託す。
(俺は一目合ったその日から、あのひとにフォーーーーーーーーーリンラブなんだ!!)
拳を握り締めて、思うのだった。が、しかし、
(でも彼女って……)
一転して弱々しくなる。
口をへの字に曲げてしょんぼりすると、伏し目がちに愛しの彼女を見やる。
生気を失った少年の瞳が映すのは、なんとも残酷な現実なのであった。
女性は道路脇に停めてある気障なオープンカーの助手席に乗り込むところだった。深い青色のフォルムに彼女のシルエットが浮かぶ。
彼女は楽しげに微笑んでいる。つまりそれは笑いかける相手がいるということに他ならない。
少年は更に口元のへの字の角度を狭めながら、彼女からその隣へと視線をスライドさせた。
そこにいるのは一人の長身の男だった。
年は三十代半ば頃に思われる。柔らかな笑顔の、温厚そうな男だった。
彼女の傍らでやけに親しげに視線を交わすこの男が、彼女にとってただの他人であるわけがない。
少年は絶望感に打ちひしがれながら、否応無く目についてしまうとある代物を凝視する。
男が彼女のためにと助手席のドアを開く、その左手の薬指には、シンプルなシルバーのリングがあった。
そして彼女は、ドアにかけられたままの男の手の上に、そっと自らの左手を添えて──その薬指にも男のものと同じシルバーのリングがある。
重ねられた手、そして二つのリング。夕日を反射してきらりと光る。
(な、なんて強烈な光だ……!! 目が……目が、く、眩んで、しまうぞおおおおおおお!!)
男はほんのひと時でも離れるのが惜しいとでもいうように、その手を軽く撫でながら彼女から離れてドアを閉め、反対側の運転席へと乗り込んだ。
ばたん! ぶるるるるる~~~
ドアの閉まる音とエンジン音。かくして彼女を乗せた車は去っていく。
オープンカーの、文句なしに洒落た後姿を、ただ黙って見送るしかできない哀れな少年。
彼は悲しげに鼻をすすると、
(彼女って……人妻なんだよなあああああああああ)
愛しの彼女に触れることの叶わないその両手で、冷たく硬い電信柱を抱きしめる。
なす術もなく頬ずりして溢れる涙を拭っても、荒削りなコンクリートが少年の頬と心を傷つけるばかりなのであった。