百一回目の朝に
愛してるの一言は、何よりも重たかったんだ。
好き、大好き。これは恋さ。愛してる。
……たったの一言で、これを友だちにそのことを打ち明けるのはとても楽で。だけどあの人を見ると、もう駄目なんだ。
胸が、痛くなる。左胸の奥底が、締め付けられるみたいに。それも『好き』だと解った瞬間からそう。
恋が痛いものだなんて、知らなかった。
恋がこんなにも辛いことだっなんて、思いもしなかった。
そして、見えない別れさえもこんなに怖くなるだなんて――
今も痛む、心臓の下。脈打つたびに、きゅっと締め付けてきて……それが治まることは、未だない。
彼と出会って百の日々を辿った、今この瞬間でさえも。
彼との出会いなんて、どうってことなかった。ただのクラスメイト。それだけのこと。他に誰もが期待するようなシチュエーションがあったわけでもない。
ただ彼がクラスにいた。花もきらめきも何もない、それが彼との最初の出会い。そう、たった一度の――
「――樹? 樹、聞いてる?」
ペンを置く微かな音と共に声をかけられ、奈緒はハッとした。振り返ればすぐ近くに彼の顔がある。勢いのあまり互にぶつかりそうになって、奈緒は小さく身を引いた。
「ごっ、ゴメン聞いてなかった。……何?」
焦り裏返る声に、思わず「うわぁ、やってしまった」という言葉が、奈緒の脳裏を一瞬のうちに過ぎっていった。連続での失敗は、相当痛い。
現に彼――水瀬俊希は苦笑をその顔いっぱいに浮かべている。しかしその笑みもすぐに絶えると、鬱とした翳りを俊希は見せてきた。
「あー。……だからさ、今度の展覧会に出すのやめようと思うんだよ。この絵」
「何で?」
最初は嘘だと思って、奈緒はすぐにそんなどうしようもない言葉を投げかけた。
だが俊希は困ったように唇を噛むばかりで、これは本当なんだと奈緒は悟った。冗談で言っているんじゃなくて、俊希は本気でそう考えている。これが証明とばかりに、そう思わせるほどに、俊希の双眸はじっと奈緒を見つめていた。まるで懇願するかのような瞳の色に、奈緒は思わず目を背けたくなった。
「なんかさ、最近俺ってば何かが足りないような気がするんだよ。芸術家にとって大切な、何かが」
困惑する奈緒の気持ちを感じ取ったのか、俊希は詰まりながらも言葉を吐き出していく。
「心とか、気持ちとかなのかな。……本当によく解らないんだけど、絵に今までみたいな煌きがないような気がするんだ」
だが奈緒にはその言葉の意味が、よく解っていなかった。俊希は確かに画家を目指して、毎日こうやって絵を描いている。しかしその上手さや繊細さは、素人からしてみればいつも美しく映った。いや、むしろ上達しているようにさえ思える。
それなのにどこが悪いのだろう。
思わず視線で訴えていると、俊希は「心が迷っているから、その分慎重になっているんだよ」と返してくれた。でも、上手いのに何かがかけているなんて、そんなのおかしいじゃないか。と、奈緒はまたもや首を傾げる。
「……でもさ、本当は諦めたくないんだ。優柔不断だって言われてもかまわないけど」
微かな静寂が、昼の屋上を支配する。階下からは生徒たちの賑やかすぎる喧騒が聞こえてくるというのに、何かで一線引かれているような、妙な気分だった。
すると俊希は一つ息を飲み込むと、静かな視線を奈緒に向けなおした。
「初心を思い出したいんだ。……だから今夜、一緒に来てくれる?」
鳥の影が、二人の横を滑っていった。
俊希は昼休みになると、ほとんど毎日屋上へと足を運んでいた。雨の日はさすがに教室の中にいたが、それ以外はいつも。
相方のスケッチブックと筆箱を大事そうに両の手で抱え込む姿は、もう見慣れたものだった。
お昼もそう多くは摂らないで、すぐに風景とにらめっこを始める。それほどまで、俊希は絵を描くことが好きなのだ。
そしてそんな俊希の昼休みは、奈緒だけが知っているものなのだった。
誰にも邪魔されない、静かな一時。教室ではあまり交わりのない二人だったが、この時ばかりは他の生徒みたいに『友だち』という名の関係が生まれる。
元々は教室にいるのが息苦しくなった奈緒が、たまたま屋上に行ったというだけの話。クラスメイトという関係か、それとも互いに絵が好きだったのか。はたまたクラスに馴染めない者同士だったからなのか。正直何が二人を近づけたのかは解らない。けれどそんなきっかけがこんな状況を生じさせて――だからこそ、この『今』があるのだ。
だがそれは今、壊れてしまうかもしれない状況に立たされている。たった一言、奈緒の『好き』という感情のせいで。
俊希を好きになってしまった。ただそれだけのことで。
だから今夜、奈緒は俊希と小さな旅に出る。
奈緒の心にも何らかの形で、この気持ちに踏ん切りをつけるために。
二人が住むのは、山間の小さな町だ。故に交通手段なんて、ほとんどない。駅は隣の市街に行かなければないし、夜だなんて、十時にもなればバスだって最終便をすぎてしまう。
そのため二人は放課になるとすぐ、学校を飛び出した。そして居間に書置きを残して、小さな荷物と共に家をも――……
だが奈緒の心には、微かな罪悪感めいたものがあった。
親ならきっと、信じてくれるはずだ。『友だちの家でお泊り会をしてきます』という、そんな高校生らしい伝言を。……けれど、本当は男の子――しかも一方的とはいえ好きな男の子と共に、遠くの地へと赴くのだ。相手にその気がないからとて、なんだかもやもやする気持ちはある。
ごめんなさい。
心の中で謝りながら、奈緒は学校脇のバス停まで走った。もう日も傾いてきたというのに、校庭からはひっきりなしに部活動の熱い声が聞こえてくる。
そんな高校の塀と共に、眼前には俊希の姿も映った。奈緒に気付いた俊希は、鞄を肩にかけながら小さく手を振ってきた。
「ゴメンね。バス間に合いそう?」
「うん。あと二、三分で来るはずだ」
そう言うと俊希は、柔らかい、けれど困ったような笑顔を向けてくれた。
「樹、ホントにごめんな。こんなこと頼んじゃって」
「いいんだって。それについていくって言ったのは、わたしの意志だし」
ね。と言いながら、奈緒は俊希に倣って塀に寄りかかった。昼間の熱気のせいか、焼けるとまではいかないものの、塀はやけに生温かさを主張している。
走ってきたのもあいまってか、奈緒の背中には新しい汗が生まれた。その汗は服を通ってじんわりと塀に吸い込まれていくような、妙な感覚を覚える。それでも奈緒は、塀から背を離そうとはせず、雑談に興じていた。
しばらく話していると、バスが二人の前で止まった。長い吐息を吐き出したバスは、機械的な音と共にドアをたたんでいく。
その様相はまるで「もう後には、戻れない」とでも言われているかのようで、奈緒はちょっとばかり怖気づいた。
扉の中から、冷たい空気が流れ出ていた。
カタタンカタタンと電車に揺られる頃には、すっかり夏のお日様も沈みきっていた。まだ日が長いとはいえ、こんな小さな二人をいつまでも眺めている気はないらしい。
なんか薄情だよね。と奈緒が言ったら、俊希は隣で壮大に笑っていた。
「樹ってさ、何か考えが突飛すぎ」
「いいじゃん。てか、感性が豊かって言ってくれてもかまわないんだよ」
「んー。一応、遠慮しておくよ」
目尻に涙を浮かべてひぃひぃ言いながら、俊希は首を振った。そして奈緒を見ては、また吹き出す。
そんなに人の顔が面白いかと、奈緒は拳を握り締めた。
「だぁぁぁ! もう、そんなに笑わなくたっていいじゃない!」
「不可抗力だよ、不可抗力。なんかもう、色々と時限を越えてんだよ、樹は」
「俊希が勝手に越えたんでしょ!」
「だから俺は巻き添をくらっただけだって。なんか樹にはめられたって感じ?」
「んな、人聞きの悪い」
そう言うと、奈緒はわざと不貞腐れて見せる。だが奈緒にとって今の状況は、まんざらでもなかったのだ。
こうして笑っていられる。当たり前のような光景だけど、実は嬉しいことなんじゃないだろうか。好きな人とこうしていられるなんて――本心は隠しているからこそできることなんだろうけど、なんだか幸せな気分だ。
だって、好きな人が自分に向けて笑ってくれているんだ。
これが例え、異性としての自分に向けられているものじゃないとしても、かまわない。奈緒は正直にそう思っていた。
友だちとして向けられている笑顔でも、好きな人の笑顔の隣にいられる。気持ちは伝えられないままで、引っかかる部分も確かにあった。だけどその分自然ままでいられる。
いいじゃん、それで。
今のままでも、十分幸せだよ。
笑っているのに、心に翳りが生じてくる。
さあ、踏ん切りをつけようよ、奈緒。これからは『好き』じゃなくて――俊希とは『友だち』だ。『友だち』なんだ。
何駅も過ぎて、線を乗り継いで。そんなこんなをしていたら、いつの間にか九時を回っていた。補導はされたくないので、十時までには何とか身を隠さなくてはいけない。コンビニを出ると、二人は足早に夜の街中を歩いていった。
「どうするの? 目的地ってもう近かったりする?」
場所を知らされていなかった奈緒は、今さらになって俊希へと目を向けた。
「距離的には、それほどでもないんじゃないかな。でも――とりあえず迂回しよう。こんな時間に若い男女が二人っきりだなんて、それこそヤバいよ」
確かにこんな夜更けに男女が二人っきりだなんて、よからぬことかもしれない。もう少し歳をとっていれば、まあ警官も周囲の人も目を瞑っていてくれるのだろうが、まだまだ発育途中で中学を卒業したばかりの二人では、目に付くものがあった。考えてみれば、さっきから大人たちの好奇と心配の視線が、やけに痛い。
こんな歳が見抜かれてしまう外見では、どこかに泊まることだってできないだろう。それに泊まれてもすぐに、補導されてしまいそうだ。これでは親にも面目が立たないし、何より目的地に着くことさえかなわない。
「そうだね。でも、迂回をするところなんてあるの?」
見る限り、小一時間で人目の付かないところへと抜けられるとは、到底思えなかった。
だが心配をする奈緒に、俊希は小さく頷きながら呟いた。
「山の中を通っていこう」
その声には表情さながらの緊張感が宿っていて、奈緒は思わず足を止めた。
「山って、あの山……だよね」
そう言うと、奈緒は東にある小さな山へと目を向けた。ここからたいして距離はない。確かに歩いてでも三十分程度で付くだろう。……だけど、あそこへ行くのだろうか。そう思うと足は自然と重くなっていった。
山とは呼ばれていても、そこには特に何もないのだ。しかし何もないが故に、麓のあたりから人家までなくなっている。真っ暗なのだ。県内の住人なら、誰もが知っている。
人家がない分、空気は綺麗だし静かだし、休日の昼間には森林浴に来る人も多い。けれど夜になれば別だった。鬱蒼と茂った木々が月光をも遮り、静まり返った空気はこの世を遮断しているかのようなのだ。誰も近づこうとはしない、そんな一面をも用いている。
考えてみれば確かに誰にも見つかることはないと思う。だがそうまでして入りたい場所ではなかった。むしろ、できることなら回避したい。けれど窺い見た俊希の顔は真剣そのもので、考えを変える気は毛頭ないらしい。どうやらあの言葉も本気だったようだ。
男と女が夜中に出歩いているよりも、もっとたちが悪いよ……。
不安と恐怖を胸中に抱えながらいる奈緒の視線に気付いたのか、俊希は苦々しい表情を浮かべる。だがそれも一瞬で、次の瞬間には男の子だけが持つ、女の子を安心させる戸惑いの笑顔が浮かんでいた。
「大丈夫。俺がいる」
そう言うと俊希は一歩、また一歩と戻り、奈緒の背を叩いてくれた。
ただそれだけのことなのに、竦んだ奈緒の足には力がよみがえる。恐怖心も不安感も、何も拭われてはいないのに、どうしてか根拠のない『大丈夫』を信じて疑わなかった。
恋はなんて恐ろしいんだろうと、奈緒は本気で思った。いつも立ち止まってばかりの足を、こんなにも進めてくれている。小さな言葉それだけで、弱い心をこんなにも安心させてくれる。本当、恋って恐ろしくて――何よりもすごいな。
隣にいる俊希に目を向けながら、奈緒は小さな声で頷いた。「うん」の、たった一言を。
大人たちが過ぎ去っていく道の中で。
山の中は想像以上に薄気味悪いところだった。少なくとも今は、二人の足音と螻蛄の大合唱以外、何も聞こえない。蛙の鳴き声がまったくないだなんて、変な感じだ。
そんなことを胸中で呟きながら、奈緒は俊希の後を足早に追っていた。
こうなることを予想していたのだろう。俊希の手には今、赤い小さな懐中電灯が握られている。てっきりどこかで休むとばかり思っていた奈緒はそんな用意などまったくしておらず、俊希の用意の周到さに驚かされた。と同時に、少しは予想していろよと、軽い自己嫌悪感に駆られる。
「足場が悪いから、気をつけろよ」
と俊希は頻繁に言葉をかけてくれている。だが実は今の奈緒にはそんなことなど、微塵も届いていなかった。
何ゆえ奈緒は、こういう場所が大の苦手だ。一時の恋愛感情やらで心が突き動かされたからとはいえ、苦手な元の部分をそっくり変えることができるかと言えば、それはそれで別物だった。
だから少しでも俊希との距離を置かないようにしようとすることで、今の奈緒には精一杯なのだ。ここで何か物音でもしたら本気で泣くからね! と奈緒は神様に一括しておく。勿論これも、心中のみでだが。
それにしても、気味が悪い。今ある明かりと言えば、本当に俊希の持っている懐中電灯から発せられるものだけなのだ。街と山の間にある団地ではさらさらと降り注いでいた星の瞬きや月の明かりなど、今はまったくとして感じられない。どこまでも暗黒の世界が続いているような、妙な錯覚さえしてくる。
そしてその不気味さに拍車をかけているのが、さっきからひっきりなしに聞こえてくる、螻蛄だかミミズだかの鳴き声だ。夏の宵から明けにかけて大合唱する、あの「ジ――」という独特な鳴き声。誰がミミズだ螻蛄だと言ったのかはもう忘れてしまったが、やけに奈緒の記憶にへばりついているのだ。あんなのがどうやって鳴くのか、正直不思議でたまらないけれど。
すると突然、ガサガサと茂みの揺れる音が鼓膜を突き破った。いきなりの仕打ちに奈緒は思わずその場にしゃがみ込んでしまう。こんな森の中ではあまりにも小さすぎる悲鳴が、それでも空気を震わせていった。
「樹、落ち着けって」
「ムリ! ムリムリっ、絶対ムリ!!」
両耳を塞ぎ獣道に蹲っている奈緒に俊希は必死になって声をかけるが、当の本人は動揺しすぎていて、まったくの聞く耳なしだ。
その間にも茂みの揺れる音は一層の大きさを増してゆき、しゃがみ込む奈緒は震える一方だった。……手がつけられない。
「猫だって。野良猫だ」
「違うもん! 絶対なんか出たんだもん!」
「だから、出たのは野良猫だ。お化けでも妖怪でも、ましてや轆轤首でもない」
「言わないでよ! そういうの嫌いなんだから!」
もう嫌だ! と奈緒はかぶりを振る。本当にそういう類が苦手なのか、大きな目に薄っすらと涙さえ浮かべていた。
またあまりに奈緒が取り乱すものだから、俊希は狼狽えてしまう。あまり人とは深くかかわらないタイプの人間であるが故に、こういう場合の対処の仕方をまったくとして解っていなかったのだ。
いくら大丈夫、平気と言っても伝わらない。思いもよらぬ状況に、俊希は思わずしゃがみ込んで奈緒と視線の高さを合わせた。
「大丈夫だよ。怖いことなんて、何もない」
接し方が解らない。
対処の方法が解らない。
けれど、解らないなら解らないなりに、相手が安心するまで言葉をかけたい。そう俊希は思っていた。
解らないからと言って、誰が共に来てくれた者を投げ出せようか。それに、誰が恐怖に怯える少女をその場に一人、置いていけようか。男としてじゃなくても、人間として、誰にそんなことができようか。
「樹にとっては、こんな背中なんて頼りないかもしれない。けど……ここには俺がいる」
精一杯の言葉を俊希は口にする。
今まで誰ともかかわろうとしなかった。そんな下手くそで幼い口でも、何かが伝わるならば、と。
「こんな所を通ろうなんて言ったのは、この俺だ。確かに周りの奴等に比べれば体力もないし、絵ばっかり描いているし。……だけど、守りたいんだ。自分の我がままに付き合ってくれた子だからこそ、何があっても守りたい」
木の葉のかさばり合う音は、未だやむことはない。けれどそんな中で、俊希はすっと手を差し伸べてくれた。
「俺、樹には笑っていてほしいんだ。本当はいつも、お前の笑顔に癒されてたんだよ。樹は他の奴等とは違う、俺の特別だったんだよ。だからこんな小さな手だけど、つかまりたい時にはつかまっていいから。俺も放さないで、つかんでてやる――」
だが言葉をすべて言い切らないで、俊希はそれをやめてしまった。言った途端につかまってきてくれた奈緒の手が、あまりにも小さくて震えていて。でも、どんな力よりも強くって……。
掴んだ手とは反対の手で、奈緒は次々に流れてくる涙を拭った。
「守ってくれなくてもいい。でも、今だけでいいから、そばにいて」
『守る』なんて言葉を聞いたら、ありもしない期待にすがり付いてしまいそう。もう恋は諦めるって決めたこの気持ちが、揺らいでしまいそうになる。
それでも――例え今だけでもその手をつかむことを許されるのなら、せめてこの恐怖心が治まるまでは、俊希の近くにいたい。卑怯かもしれないし、未練がましいかもしれない。そんな思いに駆られながらも、奈緒はその手を握った。
俊希の手は言っていたのとは違う。小さくなんかなかった。奈緒にとっては何よりも大きくて、安心できるものだった。
呆気にとられていた俊希だったが、すぐにその口元に微笑を浮かべると「立てる?」と奈緒に声をかけてきた。中腰になって、俊希は奈緒の顔を覗きこんだ。
「大丈夫」
心もとないほどか細い声だが、はっきりと頷くと奈緒はその場に立ち上がった。久々に立ち上がると、奈緒の両足はジンとした痛みを発する。どうやら痺れてしまったらしい。あまりの痛さに奈緒は足を伸ばせないでいたが、聞こえ続けていた茂みの揺れが一層激しくなると、痛みも忘れてピンと足を伸ばした。
するとそこには本当に、にゃあと鳴いている野良猫が一匹いたのだ。まだ子供なのか、泥や枯葉の付いた身体は幾分小柄だ。
思わず俊希にしがみつかんばかりの勢いだった奈緒は、子猫を見、それから俊希を見。その光景に思わずくすっと笑ってしまった。
俊希もそんな奈緒の姿に安心したのか、くすくすと笑いを抑えられないでいる。
「本当に猫だったんだね」
そんなことを言う奈緒の声は、ヒステリックだった今までとは違い、どこか温かかった。
事情を知らない子猫だけが、ただ笑わずにその場を過ぎ去っていった。
手をつないだまま、何時間も何時間も二人は歩き続けた。気が付けば、空は徐々に白み始めている。それと共に俊希の歩調は、どんどん早まっていくばかりだった。
一体どこに行くんだろう。尽きない疑問が奈緒の心に渦巻いていた。
結局、俊希はどこに向かっているのか教えてはくれなかったのだ。ただ聞けば「もうすぐだよ」と答えてくれるだけ。仕舞いには奈緒も、聞くことを諦めてしまっていた。
「樹、平気か? 疲れてない?」
すると心配した俊希の声が耳に入り、奈緒は疲労の浮かんだ顔を上げだ。
「疲れてないって言えば嘘になるよ。だけど、ついていくって決めたから」
見れば俊希の顔にも、疲労感が色濃く浮かんでいる。目元には薄っすらと隈さえ浮かんでいた。
多分同じような顔をしているんだろう。
歩きすぎて痛む足に苦笑しながら、それでも疲れていないと奈緒は俊希の手をきゅっと握った。俊希もその手をきゅっと握り返してくれる。二人は笑顔を向けて頷きあった。
「行こう。この森を抜ければすぐだ」
俊希の声はそれこそ、奈緒にとって何よりもの力となっているのだから。
森を抜けると、一気に世界観が変わった。
見渡す限り一面が白い砂浜で、潮騒の音がさわさわと耳に心地良い。水平線は確認できるが、まだお日様の昇る前だ。蒼闇に包まれている。その光景はまるで、暗いフィルムを通してこの世界を覗いているみたいだ。
奈緒は俊希に手を引かれ、森と砂浜の境界線で、足をはたと止めた。吹き抜ける潮風は、汗をかいた肌をひんやりと撫でてはどこかへと消えていく。
僅かにだが俊希が息を呑む音が、聞こえた気がした。
「……着いたの?」
奈緒の声が静寂の中、やけに大きく響き渡る。俊希は首を横に振ると「まだだ。あとちょっとだよ」と海から視線を放さずに言った。
「あともう少しだ。もう少しで着く」
だがそうは言うものの、俊希はその場から一歩たりとも動こうとはしない。海しかないのに食い入るような視線を、ずっと大海原に向けているばかりだ。
何か見えるのだろうか。そんな疑問に駆られて奈緒も海を見つめたが、やはり海以外のものを見ることはできなかった。俊希は一体、何を見ているのだろうか……。
子守唄のように潮騒は響き続ける。
空はどんどん、その明るさを増していった。
「そろそろ行こうか」
そうに俊希が言った頃には、もう空には茜が射し始めていた。
もうすぐ、夜が明ける。
俊希と出会って百一回目の朝が、訪れようとしているのだ。
奈緒は俊希に促されるがままに、砂浜へと降りていく。夜明け前の砂浜に、二人分の足跡が続いていった。
漣の音は近づいていくたびに大きく聞こえ、それはまるで新たな道を切り開いていくかのよう。そして波打ち際へたどり着くと、俊希は足を止めた。
今になって奈緒は、どうして俊希がここに来ようとしたのかが解った気がした。言葉じゃどうしようもできない、けれど心に直接伝わってくる決意が、そこにはあったのだ。
初心を思い出したい。そんな決意を明確にさせるために、俊希はきっとここに訪れたのだろう。
俊希と共に、奈緒も視線を海へと投げかける。水平線は段々と光を帯び、水面を輝かせていく。そしてやがて、その表面からは太陽が覗き始めてきたのだ。
日が、昇っている。
その光景はあまりにも幻想的なものだった。普段よりも大きな太陽が、世界の端から昇ってきているのだ。今まで見てきた太陽とは何もかもが違っていて、奈緒は呼吸をすることすら忘れてしまっていた。つないでいる俊希の手にも、自然と力が篭っていった。
静かな朝。太陽は少しずつだが、けれど確実にその姿を空へと届かせている。いつもどこかの空に浮かんでいるなんて、嘘のようだ。
「樹、今日はありがとう。絵を描く決心、やっとついたよ」
太陽が半分ほど顔を出した頃、ようやく俊希が口を開いた。
「けど最後にもう一つだけ、決心をつかせて」
「うん」
未だ一人決心をつけられないでいる奈緒は、複雑な思いで俊希の言葉に頷いた。なんだか全然踏ん切りがつけられないことに、寂しささえ覚えていた。
一瞬が、途轍もなく長い時を経ては過ぎていく。
隣にいる俊希はずっと思いつめたような瞳で海を見つめていた。つこうと思ってもなかなかつけられない決心をしてみせた、その瞳で。
……今俊希は、何を決心しているのだろう。
そんな辛そうな瞳で、何を見ようとしているのだろう。
「樹。あのさ、ここって俺が始めて綺麗だと思った場所なんだ。すっげぇ小さい時に親につれてきてもらってさ、今までこんなに綺麗なものってないなって思ってきた。実際にこの歳になるまで、この景色より綺麗なものなんて、見たこともなかったよ」
俊希は海に視線を投げかけながら、そんなことを話し出す。
「だから決心つけたい時とか、いっつもここに来ていたんだ。……でも、決心をつけにここに来るのも、今日で最後かもしれないよな」
そう言えば言うほど、俊希の手に力が篭っていくのが解った。
それが何を指しているのかなんて奈緒には解らなかった。けれど、それほどの決心なのかもしれないと感じることはできる。
奈緒は真剣な俊希の顔を、すぅっと覗き込んだ。すると振り向いた俊希と視線が合う。その瞳は今までにないほど澄み渡っていて、思わず胸が高鳴った。
やはり奈緒には、決心なんて大それたことなどできなかったのだ。そのことが酷く、奈緒にとっては悔しかった。
どんなに頑張ったって、俊希のことを友達としてなんて見られない。
好きだ。
「俺、樹のことが好きなんだ」
はっとして顔を上げた。すると頬を赤く染めた俊希が、ずっとずっと奈緒のことを見つめている。
言える言葉なんて、一つしかない。
答えなんて、もう決まっているから。
奈緒は息を一つ吸い込む。すると決意と共に、俊希の方へ一歩踏み出した。
太陽はその姿を、水平線からすべて覗かせている。
水面はどこまでも輝き続けていた。
おわり




