ドラフト会議
小学三年生の時、剛紀は地元にある少年野球団に入団。
まったくの初心者だった剛紀にとって、野球は難しいものであり、子どもながら四苦八苦していた。
それでも、負けず嫌いな剛紀は、決して練習をサボったり手を抜いたりしなかった。
むしろ、誰よりも練習を頑張っていた。
剛紀の一番の長所である。
そして、もうひとつの大きな理由として、仲間の存在がある。
自分より野球の上手い同世代連中に、少しでも早く追いつき、追い越してやりたかったのだ。
特に、同世代で一番うまかった、小島 浩介。
剛紀と小島は、親友でもありライバルでもあった。
剛紀は、少年野球をやっていた小島に相談して、入団したのだった。
その小島に負けたくない一心で、走った、バットを振った。
そうしているうちに、時間は流れて行き、剛紀たちは六年生になった。
六年生になった剛紀と小島は、互いに高めあっていたこともあり、どちらも白黒つけられないほどに上手くなっていた。
ただ、パワーなら剛紀、肩の強さなら小島といった違いを除けばの話だが。
なんにせよ、剛紀は四番として、小島はエースとして、小学生離れした活躍を魅せた。
剛紀が大会で90メートル弾を放てば、小島は一試合13奪三振※1を記録。
まさにマウンドでは小島の、バッターボックスでは剛紀の独擅場だった。
そんな2人は少年野球時代を華々しく終えて、同じ地元の中学校に進学。
しかし、剛紀が中学校の軟式野球部に進学したのに対して小島はシニアチーム※2に入った。
中学校での2人は、親しげなものの、放課後や休日は練習に明け暮れる日々を送っていた。
互いに年を重ねるごとに注目され始め、お互いに良い刺激材料になっていた。
剛紀のチームは、関東大会準優勝
小島のチームは、全国ベスト8
もちろん剛紀は四番。
小島はエース、たまに遊撃手として守りについた。
そして注目を浴びる2人は、互いに関東のそれぞれ違った強豪校に進学した。
高校球児になった2人は、もちろん会うことがなくなった。
365日、ずっと練習。
ただでさえ黒かった肌は、さらに黒く焼け焦げていった。
厳しい練習に歯を食いしばり、大小怪我をしても、決して音をあげなかった。
そんな2人は、高校でも活躍していた。
剛紀が通算70発を放ち
小島が自慢の肩で155キロを投げ
関東最強の打者と投手ともてはやされた。
そんな2人は三年夏に甲子園で対決もした
結果は剛紀の三連発で、剛紀の高校の圧勝だったが、それが大学進学を希望していた小島の闘士を燃やさせた。
大学には行かずに、プロ志望届を提出し、また、剛紀も甲子園終了後、同じくプロ志望届を提出。
日本選抜にも選ばれた2人だが、やはりそこでも活躍。
そして、最後には2人で会話をして別れた。
「プロでは負けない」
「プロでも負けない」
と別れ際に言葉を交えて。
――そしてドラフト会議の日。
新人不況とまで言われたこの年のドラフトの目玉は、当然ながら二人であった。
読売アストロズ
広島カーツ
阪神パンサース
福岡ソフトバンクコンドルズ
西武ウルフズ
オリックスカウズ
から一位指名を受けた剛紀は、抽選の末「西武ウルフズ」に入団。
小島は
ヤクルトピジョンズ
中日ドルフィンズ
横浜ベイマリーンズ
ロッテオーシャンズ
楽天フェニックス
から一位指名を受け、抽選の末、「ヤクルトピジョンズ」に入団。
ただひとつ、日本ハムソルジャーズだけは競争を避けた。
リーグは違えど、互いにプロとなった2人は、対戦する日を夢見て、プロ生活の第1歩を踏み出すのだった。
そして、これが「ホームラン」を追い求めた男の物語の序章となる。
※1 少年野球は五回まで。つまり15人の打者と対戦。小島は振り逃げ無しの13奪三振だから、ひとりで13人アウトにした。
※2 シニアチームとは、中学生のために硬式球を使った野球をする団体。