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そして聖女はいなくなった

作者: 籐桐暮乃
掲載日:2026/04/08


 幼い頃、あたしにとって夜は穏やかなものだった。


 質素な夕飯と簡易な湯浴みの後、家の中に静けさが満ちると、母は蝋燭を一本灯す。

 父もその時は仕事の手を止めてくれる。


 ベッドに潜り込んだあたしの元へ、二人は並んでやって来た。

 母は優しく微笑み、父は少し不器用に咳払いをしてからあたしのお気に入りの本を開く。


 読み聞かしてくれるのはどこか遠い国の物語。


 聖女が祈りで病を癒し、騎士がそれを守り、最後には皆が救われる。そんな結末が、幼い頃のあたしにはとても心地良かった。


 その頃の記憶は柔らかな布に包まれたように曖昧で、しかし確かに温かい。



 ——それが壊れた日のことだけは、鮮明に記憶に残っていた。



 町外れの細い道。

 夕暮れに沈みかけた空の色。

 そして、目の前に現れた異形。


 運が悪かったのだ。

 町に迷い込んだ異形の魔犬は自警団の目も潜り、人知れずにこんな場所まで来ていた。遭遇してしまった。


 それが何という名の魔物だったのかあたしは知らず、ただ不吉な色と牙の形と、濁った息の匂いだけは今でも忘れられなかった。


 逃げるという判断は、幼い自分には難しかった。足が竦み声も出ず、異形の前にただ立ち尽くしていた。



 目を覚ました時、あたしは自分の家のベッドにいた。


 命は助かった。

 けれど、その代償は大きかった。


 この腹の傷では、子を産むことは出来ない——

 そう告げられた意味を、当時のあたしはうまく理解しきれなかった。

 ただ、大人たちの顔が一様に重く沈んでいたことは覚えている。


 変わったのは母だった。


 最初はただ泣いているだけだった。

 あたしの手を握り締め、何度も何度も名を呼び、あの時ひとりにしてごめんねと謝り続ける。


 だがそのうちに涙は止み、代わりに奇妙な静けさが訪れた。

 そして、ある日を境に、母は言い始めた。


「この子はきっと聖女なのよ」


 だから子供が産めないのだと。

 その言葉は、やがて不鮮明な確信へと変わっていった。


 疑う余地など最初からないかのように、母は聖女という単語(すがり)を繰り返し繰り返し口にする。

 それを見る父もまた否定せず、むしろ次第に母と同じことを語るようになった。

 ……或いは受け入れざるを得なかったのかもしれない。



 母の言葉は繰り返されるうちに現実の形を取り、家の中の空気そのものを変えていく。


 幼なかったあたしは、その中心に置かれた。

 聖女として。



 だけど、分かっていた。


 自分には何もない。祈りが届く感覚も、奇跡を起こす力もどこにもない。


 それでも、何もしないという選択はあたしにはなかった。

 両親の期待に応えたかった。


 ある日、あたしは郊外にある教会の門を潜った。

 理由は単純で、聖女でないのならそれに近い者になるしかない。


 教会の書物庫には多くの文学、理学、術式の記された書物がある。

 そう、術……術式。


 祈りではなく、理と手順によって対象に呼びかけ、発動する力。

 時間をかければ誰にでも扱える可能性があるもの。


 教会の従事者に許可を得て、あたしは独学でそれを始めた。


 紙に刻まれた数式をなぞり、意味を覚え、何度も試す。失敗を重ね、わずかな変化を拾い上げ、また試す。その繰り返し。


 聖女は癒す力。それならば、人体、動植物、生命、医療の式を頭に叩き込めばいいはずなのだ。

 世間の医療術師の者達はそれをやっている。


「すぐに治癒医療術を発動させたいなどと……あの年齢では難しすぎる」

「熱心ではあるが、まだ十一だものな。大人でさえ術の空構築には何年もかかる」

 教会の人達はそう口にしていたが、それでもあたしは諦めなかった。


 やがて、ごく小さな反応が現れる。

 灯りにも満たない、淡い光。

 その反応を確認してからは、あたしは何度も自分の腕を切って実践を重ねた。

 痛くないと言えば嘘だ。でもそんな痛みは些細なことだった。

 あたしは両親の幻想(期待)に応えなければいけない。


 最初は傷に触れても、すぐに消えてしまうほどの光の弱さ。

 それでも、それは確かに『癒し』だった。


「……ああ、出来たよママ。治ったよ」



 それからも僅かな反応を磨き続けた。

 時間を費やし、感覚を研ぎ澄まし、少しずつ成功を積み重ねていく。


 やがてあたしは、町の人々にその術を使うようになる。


 聖女として。


 誰かが傷を負えば駆けつけ、病めば手を当てる。

 完全に癒すことは出来なくとも、痛みを和らげ回復を早めることに助力した。


 ……みんなはそれを『聖女』として受け入れた。

 あたしの両親がそう豪語したからだ。

 人々にとって、本物かどうかは重要ではなかったのかもしれない。

 それでも結果が伴う限り、それは力と呼ばれるのだ。



 ただ、上手く行かなかった日も当然あった。

 術が発動しないこともあれば、期待した効果が出ない場合もある。

 相手の容体が悪過ぎる時など、どうにもならない状況もあった。


 そうした日の夜、頬には父の手が飛んで来た。

 理由は明確だ。聖女であるはずの娘が、人を救えなかったから。


 あたしは抵抗しなかった。

 避けようなどとも思わなかった。


(でも……でもね、違うんだよ、パパ)


 自分は聖女ではないのだ。だから出来ないことがあるのは当然だ。


 だがその考えを口にすることはないし、否定をしてしまえば母の確信も、父の支えも、全てが崩れる。

 家の中に残された、形だけの均衡が壊れてしまう。


 だからあたしは今日も研鑽をするべく教会へ向かう。

 聖女ではない子供が、聖女であるために。







 その一行が町に現れたのは昼下がりの事だった。


 陽は高く往来には人が多い時間帯。

 見慣れぬ装備と整った足取りの集団は、旅慣れた冒険者であることが一目で分かる。


 その中でも人々の視線を集めたのは一人の女性だった。


 年齢はあたしよりも何歳か上くらい。だがその佇まいには奇妙な厳かさと静けさがあった。

 装飾の少ない白のローブに身を包み、周囲に守られるように歩く姿。それはどこか浮世離れさも感じる。


「――もしかして、聖女様?」

 町人の誰かが口にした。


 その一滴は瞬く間に広がった。


 口頭で尾ひれを付けながらも膨らみ、確信へと変わっていく。

 彼女は本物であり、王都でも認められた存在であり、多くの命を救ってきたのだと。


 わっと人々は群がった。

 直前に怪我を負った者、長く病に苦しむ者、或いはただ一目見ようとする者まで。

 その中には以前あたしが完治に及ばなかった患者もいた。

 白のローブの彼女はそれらを拒まず、静かに手を差し伸べた。



 その光景を、あたしは遠くから見ていた。


 彼女の周囲に白く、柔らかな光が広がる。

 それは術による治癒や医療とは明らかに違っていた。


 理をなぞるための媒体がない。詠唱も、手順もない。ただ、触れた先から傷が閉じ、痛みが消えていく。


 ——奇跡だった。


 人混みの端でひとり、あたしは胸に鈍い重みが落ちて呟く。


「……あの人本当に、本物なんだ」


 自分が積み上げてきたものがぎしりと瓦解する。

 時間を費やし失敗を繰り返し、ようやく掴んだ僅かな力。それが、目の前では何の苦もなく行使されている。

 人々の反応は更に明確だった。

 あの方こそ本物だ。あれほどの力を持つ者を、見たことがない!




 聖女を含む冒険者一行は、暫く町に留まることになった。ここを拠点として近くの遺跡などを探索するのだとか。

 町の者達は歓迎し、宿を整え、必要なものを惜しみなく提供した。


 そして必然というべきか、あたしが治癒に呼ばれる機会は目に見えて減った。


 より確かな力があるのならそちらに頼る。

 それは合理であり、責められることではない。

 それでもぽっかりと空いた時間は、余計な思考に呑まれるには充分だった。


 ……自分は聖女ではない。それはあたしが一番知っている。

 ならば、代わりに何が出来るのか。


 答えは出ないまま日だけが過ぎていき、家に戻れば空気はより一層重たかった。


 母は落ち着かない様子で家の中を歩き回り、時折暗い面持ちであたしを見つめた。


 その目は以前のように娘が聖女だという確信に満ちた眼差しではなく、どこか探るような、不安を含んだ視線だった。

 やがて、その揺らぎは言葉になる。


「あなたって、本当に聖女なの?」


 母親の呟きのような疑問。


 父はそれを否定も肯定もしなかった。沈黙のまま受け止め、そしてその矛先をあたしへと向ける。


 成果を出せ。

 証明しろ、と。


 あたしは何も言わず、治癒の術の研鑽を続けた。

 以前よりも長く、深く、繰り返す。


 だが焦りは精度を鈍らせ、僅かな歪みが重なると術は不安定になる。


 久方ぶりにあたしに訪れた患者の前で、術は発動しても持続せず、光はすぐに途切れてしまった。

 その夜、父の手が振り下ろされた。

 一度では終わらない。二度、三度と続く衝撃に、視界が揺れた。


 それでもあたしは声を上げなかった。ただ歯を食いしばり、痛みが過ぎるのを待つ。

 そして静かになった後、床に落ちたまま、考える。

 

 ……本物が現れた、それだけのこと。

 自分がどれだけ近づこうとしても届かない場所がある。

 それが、はっきりと示されているだけ。


「なら、あたしって……いる意味あるの?」


 力の入らない手の甲に水が落ちた。







 その日は教会の裏手でひとり、治癒術の反復をしていた。


 枯れた植物に触れる。

 しかし指先に集めた光は形を成す前に解けだし、焦りが混じるほど霧散しかける。


「……この花を復活させたいのですか?」

 不意にかけられた声に、驚いて振り返った。


 白のローブの女性……あの聖女が、静かに立っていた。


「お手伝いしましょう」

 そうにっこりと微笑むやいなや、聖女の手のひらは枯れた植物を翳す。


 瞬く間に手元に白銀の光が集まり、植物はみるみると活気を取り戻して鮮やかな花弁を開かせた。


「あ……」

 驚きと共に、複雑な気持ちになる。


「ごめんなさい。余計なこと、でしたか?」

「……いえ」


 聖女は、あたしが手にしていた術が編まれた羊皮紙に気付いた。

「そちら、治癒の術式ですよね。きれいに書かれています」

「……まだ、研究中です」


「そうなのですか? でもここまで正確な形に編めることは凄いと思います」

 飾りも忖度もない、素直な声音だった。

 そんな聖女から目を逸らす。


「……あなたは、こんなことしなくてもすぐに治癒を発動出来るでしょう」

「ええと……はい」

 躊躇いの無い肯定に、胸の奥が少し軋んだ。


「でも、術で癒すのはとても大変だと聞きました。沢山覚えることがあるのだと。私には、そのやり方は分からなくて」

「分からなくても、困らないでしょ」

「……そうですね。今は」

 あっさりとした返答だった。


 あたしがそれ以上言葉を続けなかったので聖女は暫く黙っていたが、やがて静かに口を開く。


「町の方々は、治癒にあなたを頼っているのですね」

 その言い方に微かに眉を寄せてしまった。


 頼っている——確かにそうだ。そうだった。

 だがそれは両親の推薦と、他に過度な選択肢が無かったからであり、より確かな力が現れた今“頼られている”のはこの目の前の聖女だ。


「……別に」

 会話にもならない短な返しに聖女は少しだけ困ったように微笑んで、小さく頭を下げる。


「お邪魔しました。練習、頑張ってくださいね」

 そのまま、足音を立てずに去っていく。


 残された静けさの中で、あたしは拳を握った。


 自分の役割が削られていく。

 分かっていたはず、それでも飲み込んで努力していた。耐えていた。


 ——こんな気持ちになるのは、こんな立場になっているのは、聖女なんかが来たからだ。


「なんでわざわざ目の前で見せたの……」


 町の人間が自分から離れ、母は娘の力を疑い、父の暴力は増すばかり。

 胸の奥がざらつく。


 あの女が来たから。

 ……この町に来てほしくなかった。


 早く出ていけばいい。

 早く早くはやく


「――いなくなれ」






 十数日滞在の後、聖女を含む冒険者一行が町を出立する日になった。

 町の入口には人だかりが出来ていて、あたしは少し離れた場所からその様子を見ていた。


 冒険者達はここから北部に出現した、知性型魔物を討伐しに行くらしい。

「シモンとか言ったか、いくつもの村を壊滅させたとか」

「どんなに魔物が強くったって彼らなら大丈夫さ! 聖女様がいらっしゃるからな!」


 人々が意気揚々と激励を投げるなか、聖女はふとこちらに気づいたように視線を向ける。

 一瞬だけ目が合い、聖女は今回も悪気なくにこりと微笑んだ。

 それ以上は何もない。


 やがて一行は町を出た。

 白のローブは遠ざかっていく。

 その背が見えなくなるまで、あたしはその場に立っていた。


 ——聖女はいなくなった。ならば、奪われた役割は再び自分に戻ってくるだろう。


(でも……)


 以前のように、あたしは町の人々や両親へ真っ直ぐに向かうことが出来るのだろうか?

 自分の指先は、こんなにも冷たいのに。








 聖女が町を去ってから幾日かが過ぎた。


 聖女の滞在中は人の往来で賑わっていた郊外の教会の前も、今は静かなものだ。


 以前と同じ流れに戻った。

 怪我人や病に倒れた者が出た時は、治癒術を使うあたしの名が挙がる。


 ただ、そこに含まれる意味は微妙に変わっていた。


「他にいないものな」

「聖女様の代わりに」


 あたしを呼びつけるうちの幾人かは、そうした前提が言葉の奥に沈んでいる。


 あたしは再びみんなに頼られるようになった。

 呼ばれれば行き、求められれば手を当てる。術式を編み、微かな光を灯して痛みを和らげる。

 完全な治癒には至らずとも、症状は確かに軽減されるし発動も安定している。

 ただ……


「……助かった」

 そう言われることはあっても、それ以上はない。

 感謝が広がることも称賛が積み重なることもなく、単純に必要な時に使われ、用が済めば離れていく。

 それは道具に対する扱いとよく似ていた。



 ——元に戻っただけ。


 そう考えることで、胸の奥でざわめく自己肯定を押し込めた。


 町の人々を癒す。

 町以外の人々も癒す。

 訪れた外商や冒険者達のことも癒す。


 あたしに還元されるのは、両親からの拙い褒め言葉。



「まぁ、本物の聖女様を財源にするわけにもいかないからな」


 ……偶然耳にしてしまった町員達の話。


 どうやらあたしの力は、以前から町にとって一種の資源だったらしい。

 外から訪れる行商人や冒険者、或いは小さな隊商に対して、治癒の力を提供する。対価として金銭や物資を受け取る。


 それ自体は珍しいことではない。

 だけど、この町はそれをあまり表に出さなかったし、あたし自身にも金銭のやり取りは伝えてはこなかった。


 教会従事者が話し込んでいたものを立ち聞いたところではこうだ。


 ――町に聖女がいる――実際は若年でありながら努力の結果で培った治癒術師だが――などと広く知られれば、余計な注目を集める。


 現に、治癒の術を安定して発動するための術師の勉学年数は計り知れない。

 あの少女はそれをほんの数年、文字通りの血の滲む努力でやってのけた。


 その努力と実力は「使える」――


(そういう、こと……)


 表向きは控えめに内々で話を回し、選んだ相手にだけ治癒の力を使わせ、報酬を得る。

 そうして得たものは、町の一部の者達によって密かに蓄えられているようだった。


 話を立ち聞きしたところで、その仕組みの全体を理解出来た訳ではない。

 ただ呼ばれる場所や相手に偏りがあることには薄々気が付いていた。

 それでも誰かに疑問を口にすることはなく、役割を果たす、それだけで精一杯だった。



 ——だがそんな町の内情も、不意に容易く崩れる。


 盗賊団が町に現れたのは夜半を過ぎた頃だった。

 眠りに沈んだはずの時間に不釣り合いな気配が滑り込む。複数の足音が重なり、僅かな合図で配置へと別れていく。


 町への侵入はあまりにも手際が良かった。

 内通か手引きがあったのかは分からない。


 扉が破られる音と同時に短い悲鳴が上がる。

 押し込められるような気配と、家具が倒れる鈍い音。抵抗は試みられるが長くは続かない。


 両親とあたしが住む家にもその波はすぐに届いた。

「……外を見るな」

 暗がりの中で父の声が低く響く。


 だがその直後には扉が叩き破られ、数人の男達が雪崩れ込んで来た。

 いくつもの松明は夜闇だった部屋を煌々と照らし出し、男達が持つ刃物の光を目にして思わず息を呑む。

 人間だけじゃない、彼らはどうやってか魔物まで下僕にし引き連れているようだ。


「動くな」

 それだけで全てが止まった。父も母も、青ざめて声を上げることすら出来ない。


 あたしは床にうずくまりながら、こちらにゆっくりと近づいてくる魔物から視線を外せなかった。

 大きな犬のような魔物はこちらを見下す。

「――は、」

 かつて自分の腹が抉られた記憶が蘇り、呼吸が浅くなり脂汗が滲み出た。


「よし、どこだ?」

 盗賊達は家の中を手早く調べ始める。棚を開け、暖炉を漁り、壁を確かめ、陶器の食器や小銭を見つける。


 だがそれとは別に、魔犬は床下を前脚で削るようにひと撫でし、団員に頭を向けた。

 その動きには迷いがなく、まるで最初から目的とそれが何であるかを知っているように。


 魔犬の合図を確認した男が、床板の一部を乱雑に剥がして持ち上げる。

「……あったな」

 低く笑う声。


 そこから引き出されたのは、布に包まれた幾つかの袋だった。中身は見ずとも分かる。重さと音が、それを示していた。

「へえ。思っていた以上に貯め込んでるじゃねえか」

 別の男が覗き込み、鼻で笑う。


「タレコミは本当だったな。治せるガキを使って、外から稼いでるって話」

「表に出さずに町ぐるみで囲ってたってわけか。抜け目ねえことで」

 軽い口調で交わされる言葉が、あたしの耳にはっきりと届いた。

 ——やはり自分の力がそういう形で使われていたという、知っていたようで深掘りを避けていた事実。

 その稼ぎがなぜあたしの家の床下に隠されていたのだろうか。


「おい、や……やめろ……!」

 父のそれは勇敢ではなかった。

 布袋を掴む盗賊の前によろよろと縋りかけると、案の定殴り飛ばされてしまう。


 外からも怒号や悲鳴は微かに聞こえる。

 他の町民の財産も奪われるのだろうか。

 他の家にも、こうやって隠された金品があったりするのだろうか。

 みんな盗賊に殴られたり蹴られたりしているのだろうか。



(——聖女が、いれば)

 あの人が、まだ町にいたなら。

 あの冒険者達があと数日ここに留まっていたなら、こんな風に好き放題されることはなかったのではないか。


 息が浅くなる。

(——いなくなればいい、なんて)

 あの時自分は確かにそう思った。その結果が、これなのか。


 ……いや、「聖女がいれば」だなんて今更、烏滸がましい。

 自分もまさかあの彼女に縋るだなんて情けない。

 自嘲し、視界が微かに揺れる。


 ふと盗賊の一人がこちらに目を向けた。


「……おい、このガキ。例の聖女ってやつじゃねえのか? 歳とか髪と目の色……話に聞いたのと近いぜ」

 その言葉に、何人かが興味を示す。

「ああ、この町にいるって……あれ、けどそれってギルドパーティにいる奴だっけ? もう旅立ったんじゃなかったか? けどもし聖女なら……」

 あたしに視線が集まり、値踏みするような目が向けられる。


「違う」

 団員の中の一人が、静かだがはっきりとした声で否定した。


「違う?」

「ああ。この子供は聖女じゃない」

 断定だった。

「昔本物に会ったが、気配がもう全然違う。あれはもっと……そうだな、うまく言えないが、もっと“満ちてる”感じがする。こいつにはそれが無い」


 それは事実でしかなく、あたしはうずくまったまま何も言えなかった。


「……じゃあ、要らねえじゃん」

 まだ年若い赤髪の団員がつまらなさそうに言う。


「でもこのナリなら売ったらそこそこになるだろ?」

「ああ? この前それで復讐に合ったばっかじゃねえか、面倒臭いって」


(要らない……面倒臭い……)


 聖女でなければ必要ではなく、盗賊が攫うほどの価値もない。

 両親を見ると、ただただ盗賊達と魔物の威圧感に怯えているだけだった。


 あたしの目の前にはその大きな魔物が佇んでいる。


 ああ。

 あの時の魔犬があたしの臓腑だけでなく、命も持っていってくれたら良かったのに。


 その時、床に投げ出されていた自分の手の甲がヒヤリとした。

 驚いて視線をそこに落とすと、魔犬が甲を舐めている。


 えっ と思った。その瞬間、なにかが自分の中で弾けた。



 ――聖女にいなくなれと願った。

 ――魔犬が自分を殺してくれたら良かったのにと思った。



(……何それ。あたしは、あたしはもっと自分で選んで……動けるはずでしょ!)


 聖女のようにと、がむしゃらに治癒を独学し始めたあの頃みたいに。


 気付けば勢いよく立ち上がり、盗賊一団の中心に立つ男——恐らくこのグループのリーダーであろう男の服を掴んでいた。

 指先に力が籠る。


「あ? なんだよ……」

 口を開く。だがハクハクとするだけで声が出ない。

 緊張と震えと、自分の行動の意味不明さで喉が動いてくれない。


「つ……連れて、いって」

 やっとか細く漏れた声に、男がこちらへ視線を落とす。

「は?」

「こ、ここに、いても……」


 頭の中にいくつもの断片が浮かんでは消える。

 両親が本当のあたしを見てくれていたのは、いつの頃だったか。

 あたたかな夜。

 童話を読んでくれた両親の笑顔。

 ――殴られた自分の痛い頬。


 魔犬が殺してくれていればと思った時に、この町でのこれからのあたしは、もう見えなくなった。


「……連れていって!」

 今度こそはっきりと声が出た。

 周囲の盗賊たちが面白そうにざわめく。

「おいおい嘘だろ、お転婆がすぎるぜ!」

「なに……なにを、言ってるんだ」

 父がよろよろと立ち上がる。


「テメェらのガキがこんなこと言ってるぜ!? 黙ってていいのかよ!」

 笑い混じりの男達の声。

 焦燥した父が母を伺うと、母は精気の無い目でこちらを見ていた。


「……だって、子供が産めないから」


 そうぽつりと。


「おまえ……おまえは……!!」


 父が母に向かって何か喚いているのを尻目に、赤髪の団員がこちらへ魔犬を呼びつけながら問いかける。

「聖女じゃないとして、オマエって何か出来んの?」

「あ、あたしは……」


 治癒だ、と言ってもそれが自己の売り込みになるのだろうか。

 だって聖女の足元にも及ばない。

 それでも今の自分にはこれしかない。


「あたしは……治癒が出来る。じっ術だから、聖女みたいに完璧に治すことは出来ないけど……」

「ふーん。術ってことはすげえ勉強したってワケ? やべえじゃん」

 称賛とも否定とも違う、事実を述べているだけのあっさりとした言い方。

 だがその声色にあたしは嫌悪を感じなかった。


「やべえどころか治癒術は超高度だぞ? どの業界にでも斡旋出来るし、なんならウチに居てもらえ」

 そう言ったのは先程あたしを聖女ではないと断言した男だった。


 そのやり取りの最中もあたしはリーダーの服から手を離さなかったので、男は暫くこちらを見下ろし、やがて短く息を吐く。

「……連れてけ」

 それだけだった。

 別の団員に腕を掴まれる。


「ま、待て……!!」


 後ろから父親の声がした。


「本当に行くのか? エリーゼ……!」


 よその区画からもバタバタと撤収を促す声と足音がする。


 盗賊に殴られた父親の顔面はさぞかし痛いだろう。

 あたしの治癒なら回復も促進出来るし、痛みを和らげることだって出来る。


 そこまで考えた時、大きなズタ袋に頭から入れられ盗賊に担がれてしまったので思考をやめた。



 やがて盗賊団は、ひとつの町を後にする。

 奪った多くの資金とひとりの子供を連れて、夜の闇へと音もなく溶けていく。


 あたしは何も言わなかった。

 目の前はズタ袋で真っ暗だ。

 何も見なくていいし、何かを考える理由が、もうあたしには無かった。






暫くして盗賊団は北部に向かった。

知性型魔物シモンに壊されたいくつかの村から金品などを盗掘するためだ。

その最中に盗賊団は偶然、シモンに敗れた冒険者達を発見する。

シモンはその後、別の冒険者に討伐されている。

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― 新着の感想 ―
両親と町の人達が屑っぽい。生き方を選んだ彼女は幸せになれるのか。多分両親はなれないだろうけど。
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