間話「本当に、悔しい」
私の母の口癖は、「付き合う人は選びなさい」だった。
あの子はやんちゃだから友達になっちゃ駄目。あの子のお父さんはおかしい人だから遊んじゃ駄目。あの子は馬鹿だから、貴方まで馬鹿になっちゃう。
来瑠。貴方は私の可愛い一人娘なの。だからね、貴方には傷ついてほしくない。変な人に巻き込まれたら、お母さんはとても悲しいわ。
それを律儀に守っていたのが、私だ。母の言うことは絶対だと思って生きてきた。母が悪く言う人のことは、私も内心見下していた。あの子は一人じゃ何も出来ない子。あの子の親はおかしい。あの子は勉強もしないで遊んでばかり。放課後に寄り道なんて以ての外だったし、メイクもオシャレもしたことがなかった。
ようやくおかしいと思い始めたのは高校生の時だった。私の周囲には人がいなかった。「付き合う人は選びなさい」と言われていたのに、選べるほど人がいなかったのだ。
私が母に言われたように見下していた人たちは、誰かと笑い合って楽しそうにしていて、私ばかりいつも孤独だった。馬鹿は馬鹿とばかりつるんで、と思えたら楽だったが、頭がいい人ですら誰かと関わっていた。おかしいのは私だった。
だけどおかしいと気づこうと、私は私を変えることは出来なかった。当たり前だ。だってそれ以外の生き方を教わっていないのだから。
そんなこんなで大学まで進学して、私は相変わらず一人の生活を続けていた。別に謳歌はしていなかった。ただ勉強をするためだけに通っていた。いや、大学は勉強をするための場所だから、いいんだけど。
……それでも、私が原因で誰とも繋がりを持つことが出来ないのなら、それは改善すべきことだと思った。孤独はいつだって悲しさを伴う。私は孤高になれるほど強くなかったから。
自分を変えたい。しかし、どう変えればいいか分からない。強くある方法を知らない。それに日々苦しんでいた。
──そんな時に出会ったのが、あの人だったのだ。
「大丈夫? ……はいこれ、落としたよ」
大学の廊下で転んで、筆箱の中身を散らかしてしまった。締まりが緩かったらしい。大量に出てくるペンたちをかき集める私に、誰も見向きしてくれなくて。
こういう時友達がいたら、きっと拾うのを手伝ってくれるんだろうな……と考えてしまう。いやいや、無いものに期待しても仕方がないだろう。とすぐに気を取り直して拾うのを再開しようとすると……。
目の前からペンが消える。顔を上げると、そこにはカッコいい人がいた。そして私に向けて、そう言ったのだ。
私は驚いて何も言えなかった。まず、こんなカッコいい人が私みたいな人に話しかけてくれると思っていなかったから。次に、助けてくれるなんて思っていなかったから。最後に、何と返せばいいか分からなかったから。
私がそのまま何も言わないでいると、彼は困ったように眉をひそめた。彼自身も、これ以上何と言えばいいのか分からなかったのだろう。それを悟ると私はようやく硬直していた体を無理矢理動かし、差し出されたペンを受け取る。上手く声が出なくて、がとうございます、と言っていた気がする。
しかし彼にはそれで伝わったらしい。小さく笑って頷くと……今度は自分の鞄の中を探り始めた。どうしたんだろう、とぼーっと見ていると、差し出されたのは絆創膏。
「膝、擦りむいてるみたいだから。……良かったらこれ、使って」
あ、もちろん膝を洗ってからね。と彼は付け足す。受け取りつつ頷くと、彼は再び微笑んだ。
まるで花が咲いたような、雲が晴れて陽の光が地上に差し込むような──温かくて優しい、そんな笑みだった。
胸が高鳴った。こんなことは初めてだった。立ち去る彼の背中に、私は何も言えなかった。もっとお礼を言っておけば良かったな、と後から悔んだりして。
──そこでようやく私は、本気で変わる決意をしたのだ。
SNSで最新のファッションを研究して、美容院に行って髪をセットしてもらって、コスメショップに行って肌に合うコスメを見繕ってもらった。今まで使う機会がなく貯めるばかりだったお金を、全て自分の外見に投資した。それは今まで、私や母が忌避していたものだった。
当然、母からは相当怒られた。そんな馬鹿みたいな恰好をして、と言われたが、私はその姿勢を貫き続けた。外見を整えると、不思議と気が強くなるらしい。
そして外見を整えると、周囲に人が増えた。声を掛けられることが増え、私から声を掛ける機会も増やし、友達もいくらか出来た。
その間に、私はとあることを知った。──西園寺惟斗先輩。一つ上の学年の文学部。彼はこの大学の理事長の孫として有名人だった。
私のペンを拾ってくれた。私が変わるきっかけをくれた。私の王子様。
それだけならまだ良かった。……問題は、彼に彼女が出来たということだった。
不破ふわり。彼と同い年で同じ学部の、平々凡々な少女。
……いや、少し語弊があるかもしれない。彼女は病的なふわふわ好きで有名だった。たびたびふわふわを追い求めている姿が目撃されているとか……。まあ私にそんなことはどうでも良かった。
あんな大して可愛くもない子が、彼の隣にいる。私にはそれが耐えられなかった。
私はこんなに頑張って自分の外見を磨いて、彼の隣に立つに相応しい姿になったのに。
あいつは大した努力もせず、呑気な顔で彼の隣に立っている。
「……惟斗先輩はあの人の、どこが好きなんですか?」
私は彼から声を掛けられた。真剣な表情で、内容は、ふわりを怖がらせるようならふわりに二度と関わらないでほしい。ということ。彼はしっかり、あいつのことを守った。……王子様みたいに。
惟斗先輩らしいな、と思いつつ、私はそう聞いてみた。聞かないと気が済まなかった。
彼は小さく目を見開き、そうだな、と呟いて考え始める。……こうやって、自分の彼女に危害を加えるかもしれない人間の問いかけにもちゃんと真摯に向き合ってくれる。彼のそういうところが、私は好きだった。
「樋廻さんはさ」
「はい」
「誰かの期待に縛られて、身動きが出来ないような気がして、息が苦しかったこと……ある?」
誰かの期待に、縛られて。
こちらを見ないまま尋ねられ、私は考える。しかし体は先に頷く動作を取っており、はい、という声が次いで勝手に飛び出した。……脳裏に浮かぶのは、お母さんの顔。
そうなんだ、と彼は呟き、言葉を続ける。
「俺もあるんだ。そんな時に現れたのがふわりで……ふわりは、俺のそういう苦しかった気持ちを、真っ直ぐな言葉で取っ払ってくれて……心に、触れてもらえたような気がしたんだ。それで俺は、俺自身が見失っていた俺の形を、輪郭を、思い出すことが出来た」
「……」
「まあ他にも、俗っぽいのを言えば、好きなものを見つけた時の笑顔が可愛いとか、そういうのもあるけど……樋廻さんに伝える理由なら、これだろうなって思った。……俺はふわりに、救ってもらえたんだ。それで世界が広がった。……これは恩で、憧れで、それでいて、恋なんだと思ってる」
そう言う彼の瞳は、澄んでいて、真っ直ぐで、綺麗で──その瞳に写るのは私だけのはずなのに、彼は、ここではないどこかを見つめていた。
来瑠ちゃんは素敵な子だね。とあいつは言って、その理由を並べたけれど、そうじゃないんだな、と私は気づいてしまった。
だって私は、あの人の外見しか見ていなかったのだ。
自分の容姿を磨いたのは、あの人の隣に立つのに相応しくなろうと思ったから。この外見のままでは駄目だと思ってしまったのだ。だからあいつが許せなかった。
内面など見ていなかった。私はあの人の内面を垣間見ることも出来ず、やったのはあいつに迫り、別れさせようとしたことだけ。……そんな内面だったから、私はあいつに負けたのだ。
例え私が幸運にもあの人と付き合えたとしても、私は……私には、あの人を救えなかっただろう。あの人は人知れず苦しんでいて、私はきっとそれに気づけなかった。
本当に、悔しい。勝てないと悟ってしまったことも……あいつの真っ直ぐで優しい、ふわふわと柔らかな言葉は、私にも届いてしまったことも。あれが、惟斗先輩が好きだと言ったところ。
……だから、少しは認めてやっても良いと思う。あの人の隣にいるべきなのは、あいつなのだと。
でも、諦める気は毛頭ない。いくら外見だけを見ていたと言えど、好きな気持ちに変わりはないわけだし。
……あいつの言う通りなら、私は人の内面をちゃんと見ることの出来る人間なのだから。




