間話「俺のことも見て」
西園寺、という名前が好きだ。この言葉を持って生まれて来れた俺は、とても幸運だと思っている。
だからこそ自分の兄の思考回路が、俺にはよく分からなかった。
俺は西園寺家の次男として生まれた。西園寺家には金があり、生活に困ることはない。良い暮らしをさせてくれている両親、ひいてはそんな両親と関わる人たち皆に、俺は感謝していた。
家に両親がいることはほとんどなかったが、家事をしてくれる人が来てくれるし、学校には友達がいるし、寂しくはなかった。逆に、いつも会えていない分、会えた時の喜びはとても大きい。俺はいつも幸せだった。
幸せ、なのだけれど。
俺には、兄のことだけがいつもよく分からないと思っていた。いつもボーっとしていて、つまらなそうで、こちらにあまり喋りかけてこないし、俺からも話しかけなかった。なんだか、現状に不満があるんだろうな、ということが何となく分かるだけで、特に関心はなかった。それ以上でもそれ以下でもなかった。
だけど俺が中学生になった時くらいから、兄に対する認識はどんどん変わっていった。
どうやら兄は、この家を嫌っているらしいと気づいたからだ。どうしてかは分からないし、分かりたいとも思わない。
何に不満があるというのだ。両親が忙しく働いてくれているお陰で、この家で何一つ不自由なく暮らせて、お前もそれを受け入れて生活しているというのに。一体何に不満があるんだ。もしこれ以上を望んでいるというのなら、それは高望みだ。俺たちは恵まれているのだから。
従姉弟である南條柚葵もそうだったらしいと風の噂で聞いた。家を嫌い、家を出たと。何故わざわざ不自由な方に流れるのだろう。俺は不思議でしょうがなかった。
彼女と仲が良かった兄も、もしかしたら同じように考えているのかもしれない。……まあ、どうでもいい。
家を出るなら、好きにすればいい。俺にはどうせ理解できないのだから。
だけど兄は、「西園寺の長男」としてとても有名人だった。勉強もスポーツも、何をしても優秀で、特に苦労した様子も見せずに涼しい顔をしている。天才だと流石西園寺だと、兄は周囲から持て囃されていた。
対して、俺は。……何をしても、どれだけ頑張っても人並みで、必然的に兄の威光に隠れてしまう存在になった。「お兄さんは優秀なのに」「優秀な遺伝子を兄に取られたんじゃないか」という陰口も聞いたことがある。初対面の人に名乗ると、「惟斗くんの弟だ」と言われる。その度に俺は悔しくて、何度も唇を噛んだ。
兄がいなければと何度も思った。そうしたらきっと俺も、兄のように褒めてもらえたのに。もしかしたら、兄の優秀な部分は、自分が持っていたものだったかもしれないのに。
それでも過度に捻くれずここまでやってこられたのは、周囲の存在があったからだ。軽口を叩き合える友人がいて、家事をしてくれる人がときおり話相手にもなってくれて、俺はこの思いを一人で抱えずに済んだ。周囲の存在が無ければ、とっくにどこかで爆発していたかもしれない。
兄は、何も言わない人だった。昔から今も、ずっと。何をしていてもつまらなそうで、だけどずっと、何かを言いたそうにしていて、でもすぐに諦めたような顔をするのだ。俺はそれを見るのが嫌いだった。言いたいことがあるなら、言えばいいのに。
家を出たいなら、そう言えばいい。俺はそれを喜ぶだろう。どっちの願いも叶って、それでWin-Winじゃないか。なのに兄は、いつも殻にこもるように固く口を閉ざし、そもそもあまり顔を合わせようともしてこない。
兄との溝は深まるばかりだった。
そんな兄に変化が訪れたのは、最近になってからのことで。
部屋から、少し楽しそうな声が聞こえるようになった。誰かと電話でもしているのか、その声は弾んでいて。笑って、不満そうにして、怒って、気まずそうに謝って。盗み聞きをすると、そんな兄の声がちゃんと聞こえてきた。
あんな兄の声は、初めてだった。いつも作ったような、人からコピーしたものを適当に貼り付けたような、そんな声や表情をするのが、自分の兄だと思っていたから。あんなのの内側にも、ちゃんと感情があったのか。と驚いてしまった。
恐らく大学で何か出会いでもあったのだろう。あの兄をこんなに変える人との、出会いが。……俺はそれに興味があった。
でも今更兄とどんな顔をして話せばいいか分からないし、恐らく聞いても兄は答えてくれない。だから早々に諦めたのだけれど。
出会いは偶然訪れた。高校の夏季特別旅行。その先に何故か兄の姿があり、その傍らに……一人の少女がいた。
不破ふわり。どうやら兄と同い年らしいのだが、全然年上には見えない立ち振る舞いだった。俺より身長も低いから、余計に子供っぽく見える。口からはポンポンと言葉が飛び出して来て、「ふわふわ」だの「シワシワ」だの「ふわふワールド」だの……なんだか曖昧な言葉を好んで使っているようだった。アホっぽ過ぎる。どうやら恋人らしいが、何故兄はこんなアホを選んだのだろう。
どうせ彼女は兄の容姿や才能、金のどれかに惹かれたのだろうと考えた。そういう女は……俺の周りにも、いないわけではないから。残念なことに、そういう上辺ばかり見ているやつは無数にいる。
別に悪いことだとも思わないけど。でもそれだけで付き合っているのなら、痛い目を見るのはこの女だ。あんな兄のようなつまらない人間、いつか一緒に居てもつまらなくなるのがオチだ。彼女が感情豊かな人だと思ったからこそ、そこに齟齬が生じたら、と考えたのだ。
だけど彼女は……ふわりは、真っ直ぐにそれを否定した。次いで口から溢れてくる言葉には、兄貴への愛情が沢山こもっていて……聞いているこちらが恥ずかしくなってくるくらいで。
同時に、羨ましいと思った。兄貴はこんなに真っ直ぐ、一人の人間から、人生を添い遂げるくらいの大きな愛を、もらっているのか。
……兄は昔から、周囲に沢山の人がいた。いたけれど、でも、兄が心を開いているような様子はなかった。どうやら友人もいなかったらしい。社交的な性格ではなかったから、当然だとは思うけど。
でもそんな兄でも、こんな素敵な女性に巡り合えたのか。
同時に、謎の敗北感に胸を締め付けられた。俺はいつも兄貴に負ける。勉強もスポーツも、人からの評価も。そんな俺は、兄より人脈に恵まれていると、それだけが兄より優れていることだと思っていたのに。
なのに兄も、唯一無二の人脈を手に入れたのか。じゃあ俺は、一体何なら兄に勝てるんだ。
だからこそ、ふわりの言葉が許せなかった。「弟くんは、ゆいくんのことが大好きなんだね」という言葉が。俺はあんなやつのこと、好きなわけなんかないのに。
取り乱す俺に対し、ふわりは落ち着いていた。そして相変わらずのふにゃふにゃとした口調で、意外に淡白なことを告げた。彼女の言葉は俺を突き放し、しかし、確かに寄り添ってはいた。
私は私、貴方は貴方。ふわりがそう思っているのが伝わった。
それが分かった時、俺は気づいたのだ。俺はいつも兄を比較対象にしていたのだと。兄に勝てないと、兄より上になりたいと。……でないと俺は、いつまで経っても「西園寺惟斗の弟」から抜け出せない。逆に兄貴の方を、「西園寺優兎の兄」と呼ばれるようにしたいと思っていたのだと。
だけどふわりは違った。俺のことを、ただの「西園寺優兎」として見ているのだと、そう、気づいた。
同時に理解した。兄貴はきっと、ふわりのこういうところに惹かれたのだろうと。……俺も同じだから。
年齢の割に子供っぽくて、でもどこかドライで一線を引いていて、そんなところが強くてカッコいいと感じる。きっと誰に対しても、その個人をしっかりと見てくれているのだろう。だからもっと、兄貴だけじゃなくて、俺のことも見て。……と、それはもう手遅れなのかもしれないけど。でもやる前から諦めたくはない。
別に、兄貴に遠慮する必要なんかないよな。俺は兄貴と違って、すぐに言葉にして行動できる人間なんだから。




