オノマトペ組【前編】
桜の花びらが宙を舞う、四月。
入学式の翌日、学科のガイダンスを受けた宝船綺羅と笑原日恋は、二人並んで大学から帰ろうとしていた。
「教科書、いつ買いに行く?」
「うーん、なるべく早い方がいいよね」
「少なくとも、授業始まる前には買いたいよね。授業のついでに買うとかなると、パソコンとさかんで重そうだし」
綺羅は先程貰った教科書リストを片手に日恋の問いかけに答え、日恋はそのリストを覗き込んだ。このリストには文学部以外が使う教科書もあるが、生真面目な性格の綺羅は既に自分が使う教科書に色マーカーを引いていた。流石、見やすい。後で写真撮らせてもらお、と日恋は笑みを浮かべながら決心して。
そこでふと綺羅が足を止めたので、リストが視界から消える。日恋も遅れて立ち止まり、綺羅を振り返った。
「綺羅? どうしたの?」
「日恋、あれって」
綺羅がそう言って何かを指差す。その方向を見ると……男性二人に話しかけられている、一人の少女がいた。
あの少女……見覚えがある。学科のガイダンスにいた少女だ。何故覚えているのかと聞かれると……すごくファンシーな、ふわふわのバッグを持ち、ふわふわな上着を着て、目立っていたからだった。……若干、悪い意味で。
とにかく、あの少女のことは覚えている。あの少女は、一人でガイダンスに来ていた。つまり、あの男たちは知り合いではないだろう。
「なんか、嫌な予感するんだけど」
「あー……うん。穏やかじゃない案件な気がするなぁ」
綺羅のその言葉に、日恋は同意する。なんというか……ここから見える男性二人の表情はにこやかだが、分かってしまう。あの笑顔の裏には、何か黒い思惑がある。恐らく、あの少女に悪いことでも持ち込んでいるのかもしれない。
ここから少女の表情は見えないから、あの少女がどう思っているかは分からないけれど。
「割り込もうか」
「や、綺羅は教務部の人呼んできてよ。ここは私の方が適任だと思う」
「……そう、分かった。気を付けてね」
「うん、もちろん」
二人は阿吽の呼吸であっという間に方向性を決めると、大きく頷く。綺羅が走り去ったのを見届けて、日恋はスマホを起動させた。念のため音声録音を開始し、三人のところに近づく。
「この本はね、西園大学の文学部に通う人だったら絶対に必要なんだよ」
「そうそう、俺たちも半信半疑だったんだけどさ、実際に買って使ってみたら、本当に役に立ってさ……」
近づくにつれ、二人の男が言っていることがよく聞こえてくる。なるほど、マルチ商法の類か。と日恋は憶測を付ける。
思ったより大事で良かった。教務部を呼んでもらったことが無駄にならなそうなので。
「でもこれってガイダンスでも説明されないことだから、後から困る人が多くて……」
「あの~!! 今、文学部とか役に立つとか聞こえたんですけど……私もそのお話、ぜひ聞きたいですっ!!」
日恋は大きく息を吸うと、思いっきり明るい声を出してそこに割り込む。突然の人の登場に男二人は一瞬訝し気な表情をしたが、すぐに笑顔を貼り付ける。それを見て日恋は、内心ほくそ笑んだ。
嘘笑いが下手だなぁ。もっと私みたいに、上手くやってくれないと。
日恋はさり気なく体を揺らし、胸の前で指を絡め、小首を傾げてみる。
「ご、ごめんなさい!! 突然……!! ……お邪魔でしたか?」
「いや、大丈夫だよ。君も、文学部に入学したの?」
「はいっ!! ……私、大学でいっぱい色んなことを学びたいんです。貴重な大学生活ですし……やっぱり、失敗したくなくて。だから、ぜひお話を聞きたいんですっ!!」
そう言って日恋は瞳を輝かせる。そんな日恋の様子に、男二人は疑う様子など微塵もなかった。
「そうだよね、分かるよ。……話を聞くのは、もちろん大歓迎だし!! 分からないことがあったら、質問もしてね」
「はいっ!! ……あ、その……本? を使われているってことは、先輩も文学部なんですよね。今後も関わることになると思いますし、お名前を聞いてもいいですか?」
そう言うと日恋は、さり気ない流れで名前を聞き出す。ポケットの中に入れたスマホが、しっかり録音してくれていることを祈って。
その後も日恋は、様々な話を聞き出した(途中で何回かファミレスに連れて行かれそうになった場面があったが、そこは上手く躱して)。詳しく話を聞くとやはりマルチ商法の類らしく、文学部に役に立つらしい馬鹿高い本を買わせ、他の人にも買わせると利益の一部を貰い受けることが出来る。更に他の人も本を売ることが出来ると、仲介料も入る。最初はお金がかかるけど長い目で見れば利益が出るとか、うんちゃらかんちゃら。
実際に自分はこのネットワークビジネス(マルチ商法という言葉を避けているらしい)でいくら稼いだとか、こんな高価な物が買えたとか、聞いてもいないのに言ってくれた。
「先輩はいつ、誰から買ったんですか~? やっぱり、先輩みたいに素敵な人から?」
「素敵だなんて……照れるな。まあそうだね、本当に素敵な人で、今は四年生の先輩なんだけど──」
ついでにもっと上らしき生徒の名前も挙げてもらえた。収穫が沢山で日恋が内心ほくそ笑んでいると。
「あの」
そこまでずっと黙っていた少女が、不意に口を開いた。
そういえば、と日恋は思い出す。元はといえばこの子が絡まれているのを助けるために割り込んだんだった、と思い出して。つい情報を聞き出そうとするのに夢中になって、存在を忘れていた。
男たちも、この少女の存在をすっかり忘れていたらしい。大方、この少女のどこかぼんやりとした表情を見て、簡単に騙せそうだと踏んだのだろう。そこに日恋のような興味津々の(フリをした)人間が割り込んだから……。
というか、ずっとこの場にとどまって話を聞いてたのか、と日恋は戸惑って。仕方ない、男たちの興味がこの少女に戻る前に、利益を独り占めしたいフリをして追い払うか……と日恋が決心して口を開いたところで。
「これ、マルチ商法だと思うので、いくら話を聞いても無駄だと思いますよ?」
その場の時が、止まった。
日恋に向けられたその言葉を発した少女は、自分は何かおかしいことを言ったのか? と言わんばかりにキョトンとしていた。
日恋は思わず青ざめるのを感じる。この子、マルチ商法に気づいてたのか。じゃあなんで逃げなかったんだ。というか、図星を突かれたらこの男たちがどんな反応をするか……。
「ま、マルチ商法なんて、そんなのじゃないよ」
「そ、そうそう」
男たちは分かりやすく動揺している。すると少女は相変わらずキョトンとした顔で。
「だって、そんな本一冊に十万円なんて、おかしいでしょう? 軽く見た感じ新品で、貴重な価値のある古書というわけでもないですし。それに、そんなに役に立つなら学校から本の情報を出されますよね? 出されないということは、その本は不要ということでしょうし。大学は、私たち生徒が専門分野の……いわば達人者になることを望んでいるわけですし、本当にその本が必要で情報提供をしていないのなら、私たちに売るより先に学校に訴えた方が効率が良いと思います。でもそうしないのなら、高く売りつけて利益を得ることが目的なんじゃないかと、そう思いました」
少女は何も考えていなさそうな顔で、スラスラとそう告げる。……何も考えていなそうなのに(二回目)。
日恋は驚いてぽかーんとしていたが、先に状況を理解したのは男二人の方らしい。足を一歩前に踏み出すと。
「お前……黙ってればそんな勝手なこと言いやがって!!」
「えぇっ!? 私、何か間違えたこと言いました!?」
男に詰め寄られ、少女は本気で驚いている。いや、詰め寄られていることに驚いているのではなく、自分の言い分が勝手なこと判定されたことに驚いているらしい。
なんだかズレてる子だな、と日恋は呆れてしまう。しかしそれも一瞬で。今は呆れている場合ではない。
出来れば実力行使はしたくなかったんだけど……!! と心の中で叫んでから、日恋は足を振り上げる。それは見事に少女と男の間を通り、男の顎にクリーンヒットした。
男は一瞬で意識を失い、後ろに無抵抗に倒れる。頭を打ったかもしれないが、生憎そこまでに気を回せない。
「わっ、す、すごーいっ!!」
……そして少女は瞳を輝かせて手を叩いている。こんな状況なのに呑気だな、と日恋は今度こそ呆れてしまって。
日恋の蹴りに恐れをなしたらしいもう一人の男が青ざめ……仲間を置いて逃げ出そうとするのを。
「待ちなさい!! この状況、説明してもらおうか!!」
「ひっ」
教務部の人を連れた綺羅、そして教務部の人数人に行く手を塞がれ、男は小さく悲鳴を上げる。
それを見て日恋は、ようやく肩の力を抜くことが出来たのだった。