第27話「私……なんで……っ!!」
昨日に引き続き、柚葵さんのお家に辿り着く。相変わらず綺麗な家だな、と思いながら、お邪魔しますと小さな声で告げて家に入った。
作ってくるから、昨日と同じ部屋で待ってて。柚葵がいるはずだから。という夫さんの言葉に私は頷く。昨日いた部屋は覚えている。だからそこに向かい、少しだけ開いた扉に手を掛けようとして……。
「……惟斗、私も話があるって言ったと思うんだけど」
柚葵さんの声が耳に入る。その名前に、私は手を止めた。
惟斗……って、ゆいくんが、部屋の中にいるの?
思わず手を引っ込める。ゆいくんが、ゆいくんがいるなら、私は入っちゃいけない。だって、だって私、ゆいくんに会っちゃったら……。
ぐ、と、自分の左手で右手を抑えつける。そして、夫さんにやっぱり帰りますと伝えようと踵を返すと。
「私たちと一緒に来ない?」
歩き出そうとした足を、止めた。
……え……?
振り返ってしまう。盗み聞きなんて、いけないことだと分かっていた。……でも、その言葉の真意を知りたかった。だから私は、少しだけ開いた扉から中を覗いて。
「一緒に来ない……って、何……?」
「そのままの意味よ。私たちと一緒に放浪の旅しない? ってこと」
「……なんでまた急に」
「……ずっと考えてたことなの。まあ、惟斗にとっては突然かもしれないけど」
柚葵さんはそう言ってゆいくんを真っ直ぐに見つめる。……私が見られているわけではないはずなのに、酷く緊張した。
「惟斗、私はずっと、貴方と私は似ていると思っていた。……家を、ひいてはこの名前を、忌々しく感じている。この名前に振り回されてきた経験は、一度や二度じゃない」
「……それは、まあ……」
「だから私は、家を出たかった。誰も私のことも私の家のことも知らないところに行って、ありのままの私を扱ってほしかった。……家を継げって言われたけど、それも跳ね除けてね。もちろん出た先は大変だった。でも……嬉しかった。少し遠くに行けば私は自由で、本当に、生きているって感じがした」
「……」
柚葵さんの言葉を、ゆいくんは黙って聞いている。
そのことに、私の心臓は嫌な音を立てる。私は、焦りのようなものを感じていた。
「そりゃ、西園寺や南條の名を甘んじて受け入れて、四六時中受けるプレッシャーをきちんと自分の力に変えられて、この家にいることに喜びを感じているなら、それはとてもいいことだと思う。……でも私たちは、違う。私たちはそうは思えない。どうしても重荷に感じてしまうし、出来ることなら下ろしてしまいたい。……そうでしょ?」
「……」
「だから……今、貴方が大学に、しかも貴方のおじい様の大学に通って、それでより奇異の目に晒されていることを、私は……何というか、可哀想に思う。貴方は私よりよっぽど……傷つきやすいから。このままあの大学に居続けるのは、貴方にとって良くないことなんじゃないかって思うの」
ゆいくんの目を思い出す。悲しそうで、何かを諦めてしまったような、そんな……ふわふわじゃない目。
「……惟斗は昔から、詩を作るのが好きだったわよね。この大学を選んだのは、まだそれを諦められてないからでしょう?」
「……それは……」
「私が今までに行ったところで、有名な詩人さんと知り合う機会があったの。惟斗のことを話したら、ぜひって言ってもらえて。……私たちと来るなら、その人と繋げてあげることも可能よ」
「……」
「学校で座学を受けることも、もちろん立派だと思う。でも、実際に色々なものを見て、聞いて、触れて回って感じて……そういったところから育まれる感性もあると思うの。絶対に惟斗のためになる。……そうなるようにするわ」
ドッ、ドッ、ドッ、と、心臓の音が耳元で鳴っている。それなのに不思議と柚葵さんの声はしっかりと聞こえる。
視界が揺らぐ。上手くピントが合わないから、今ゆいくんがどんな表情をしているのか分からない。
やだ、やだ、と心の中で自然と呟いていた。何が嫌なのかも分からずに。
「惟斗、私たちと一緒に、ここから出ましょう」
「──ッ」
息を呑む。手が、ぶるぶると震える。
「……俺は……」
やだ、ゆいくん。
ゆいくん、やだ、やだよ。お願い、何も言わないで……!!
「……俺は柚葵さんと──」
そこで金縛りから解けたように、急に足が動き出す。私の足は勢い良く踵を返し、玄関まで走って行った。
急いで靴を履くと、柚葵さんの家を飛び出す。痛い、心臓が、痛い。
なんで、なんでこんなにズキズキと痛むの? そして、どうして勝手に涙が溢れてくるの?
走って、走って。私は自分の家に帰ると自室に飛び込み、ベッドに体を沈めた。ふわふわの布団に包まったら、少しだけ安堵してしまって。余計に涙が止まらなくなってしまった。
……頭では分かってる。柚葵さんの提案は、とてもいいものだ。柚葵さんと一緒に行ったら、もうゆいくんは変な噂に苦しめられたりしない。そうしたらきっと、あんな諦めたような目をしない。ふわふわと笑ってくれる。詩の勉強だって出来るんだ。色々なところを巡って、感性も磨いて。きっと思い思いに、のびのびと……素敵な詩を作ってくれる。メリットしかない。
だからゆいくんはきっと、柚葵さんに付いて行く。
「……やだぁっ……!!」
私は無意識に、布団の中で小さく叫んでいた。
やだ、やだ。行かないでゆいくん。私、やだ。ゆいくんが遠くに行っちゃうなんて……そんなの、やだ。
分かってるのに。遠くに行くのはゆいくんのためになるって。むしろ、こんな思いを持ってしまった私とは離れた方がゆいくんのためだって。こんな思いを持つ私にそんなことを言う資格はないって。……分かってるのに……!!
なんで私、こんなに嫌だって思ってるの?
『ふわりって本当にあの西園寺惟斗に恋してるわけじゃないんだよね?』
はっ、と目を見開く。突然綺羅ちゃんの声が脳裏によみがえって、それに呼び起されたようだった。
……あれ、私……。
胸に手を当てる。心臓が、ドッ、ドッと鳴り響いていて。頬に手を当てる。ちょっぴり熱かった。
……私……。
それを自覚した瞬間、また涙が勝手に溢れ出てきて、もう拭う気力すらなかった。
「私……なんで……っ!!」
いつからだったんだろう。今思えば、最初からだった気がするし、今この瞬間からだった気もする。
……ううん、いつからなんて、そんなこと、どうでもいい。
この気持ちはもっと、綺麗なものだと思っていた。きっとすごく真っ白で、ふわふわとしていて触り心地が良い、そんな気持ち……。そう、思ってた。
でも私の抱えてるこの気持ちは、何? 全然ふわふわしてない。きっとすごく真っ黒で、イガイガってしてて、これに触れたら嫌な気持ちにさせる。……でもこの気持ちは、間違いなく〝それ〟だと、私は理解していた。
……なんで? なんで私、ふわふわで綺麗な気持ちを、持てなかったんだろう。
これをゆいくんに渡したら、絶対に駄目だ。きっと絶対、もう二度と、今のような関係に戻れなくなる。大事に思っているはずのゆいくんのことを傷つけてしまう。……そうしたら私は、絶対に自分のことが許せない。
……閉じ込めなきゃ。絶対に、何かの間違いで渡してしまわないように。
……顔を合わせないようにしなきゃ。彼と会ってしまったら、何の拍子に溢れ出してしまうか分からないから。
大丈夫。きっと大丈夫。……どうせゆいくんは、もうすぐ遠くに行ってしまう。
だから、それまでの辛抱だ。
「……ゆいくん、好きになって、ごめんなさい……っ」
絶対に彼に届かない気持ちを叫んで、私は笑う。
そう決心したら、なんだか笑えてしまったのだ。




