間話「俺は、ふわりのことが」
西園寺、という名前が嫌いだった。
いや、「だった」は正しくないな。現在進行形だから。
俺は西園寺惟斗としてこの世に生を受けた。西園寺家の嫡子として。
家にはお金があった。暮らしに困ることはなかったし、必要なものも、欲しいものも、言ったら全て買い与えてもらえた。きっとこれは一般的には、いわるゆ「親ガチャ」に当たったと言えるのだろう。
だけど俺は、別に幸せではなかった。
家にはあまり親がいなかったし、いたとしても彼らが俺に求めるのは、品行方正であることのみだった。毎日家族で夕飯を取って、家族と喧嘩をして、休日は家族で遊びに行くような、そんな他の人たちの方が、俺には羨ましかった。
褒められたことはあまりない、と思う。彼らの求める結果を出した時は辛うじて、良く出来たね、などと言ってもらえたような気がするが、それだけ。淡白というか、俺が望んだものとは少し違う、ということだけが確かだった。
別に、愛してもらえなかったと思っているわけじゃない。愛は貰っていると思う。ただきっと、俺には合わない貰い方なのだろう。
……なんて言うと、やはり贅沢なのだろうか。
周りの人は、こぞって俺を囃し立てる。何をしても笑顔ですごいと言ってくる。別に皆が皆そうじゃないのかもしれないけれど、「西園寺くんと仲良くしてるといいことがありそうだから、仲良くしておこう」という思惑が見え透けている人が多くて、俺は疲れてしまった。だけどそれを無闇に跳ね除けるのは得策ではないと、分かっていた。わざわざ自分から孤立しに行くことなど無意味。だから笑って、波風立てることなくやり過ごそう。それが俺なりの処世術だった。
大学に行ってもそれは変わらなかった、というか、より酷くなった。……まあ、祖父の大学に通ってしまっているのだから当たり前だと思うけど。こうなると分かったうえで、この大学を選んだのは……いや、この話はいいか。
ともかく、大学で俺に近づいてくるのは、俺の隣というポジションを獲得しようとする人たち、単位が足りないのを救済してもらおうとする人たち。大体はこのどちらかだった。
近づいて来ない人も、「御曹司と関わるとトラブルに巻き込まれてめんどくさそうだからあまり関わらないでおこう」、「自分とは住む世界が違う人だ」と思っているのは分かっていた。
皆俺の、「西園寺」という名前だけを見ている。
それがいつも、苦しかった。……別に呼吸が出来ないほどじゃない。でも、ただ少しだけ苦しい。胸に小さな棘が刺さり続けているような、心を少しずつ、少しずつ……縛り上げられているような。……そんな少しの苦しさ。
いつも人に囲まれているのに、ずっと……独りぼっちな気がしていた。
だけど、そんなある日。
「西園寺くんのそのふわふわの髪、撫でさせてください……!!」
俺は、少し変な子に出会った。
彼女は……不破さんは、俺のことを「西園寺くん」と呼ぶ。でもそこには、「俺の名字が西園寺だから」以上の理由などないということが、少し関わっただけで分かった。
彼女は、なんというか、白黒がはっきりとしている人だった。自分が興味があること以外には、あまり興味がない。だから友人に教えられるまで自分のことは知らなかったらしい。俺に興味を持ったのは、俺の髪がふわふわだから……らしい。ちょっとよく分かんないけど、彼女にとってはそれが真実だ。
撫でさせてください、というその申し出を、俺は承諾した。特に断る理由はなかったし、本人にも言った通り、後腐れを残したくなかったから。……俺を助けたと、恩着せがましく触れて回られても困るし。
……今は彼女がそういうことをする人じゃない、ということは、分かってるけどね。
それはともかく。彼女に髪を触られ……もとい、頭を撫でられ、びっくりした。それがあまりにも、気持ち良かったからだ。
人生の中で、撫でられたことがなかったわけではない。でもその時は、こんなに気持ち良かっただろうか? 思わず彼女に撫でられた後、自分で自分の頭を撫でて確かめてしまった。でも全然気持ち良くなかった。
彼女に撫でられた時だけ……何故か俺は気持ち良くなってしまうのだと、気づいた。
理由は分からないまま、俺は彼女に頭を撫でてもらうことをせがんだ。よく知らない男から撫でることをせがまれ、彼女もきっと困惑したことだろう……いや、別に困惑してなさそうだったな、髪に触れて喜んでたな……。むしろ俺と二人きりになることに抵抗感がなさ過ぎて、心配になったくらいだし。
でも、その気持ち良さに夢中になっていた俺は、忘れていたんだ。自分が他の人とは、少し違う境遇に立っている人間だということを。
授業が始まる前、俺は見てしまった。不破さんが、いつも俺に話しかけてくる女子たちに囲まれているのに。
俺は、助けに入れなかった。入ったとして、火に油を注ぐだけだろうと心の中で言い訳をして。……結局、彼女の友人だと思われる女子が間に入って、事なきを得ていたけれど。
「いっ、いえ!! 私と西園寺くんは……全然関係なんてないので!! ご安心を!!」
不破さんがそう叫んだのを、俺は聞いていた。
聞いて、何故か少し、ショックを受けて。……でも、ショックを受ける資格などないし、そうでないといけないと気づかされた。
不破さんは言っていた。トラブルに巻き込まれるとしても、俺と仲良くしたいと。それは心の底から、俺と仲良くしたいと思ってくれているのだと、自然と思わせてくれる声で。
いつも笑っているのに悲しそうに見える、と指摘されて、ああ、気づいてくれる人がいるのだと、嬉しくなった。
彼女がくれる言葉は、いつも俺の苦しさを……少しだけ、楽にさせてくれる。
……だからこそ、巻き込んではいけないと思った。今思えば、それはただの言い訳で。……怖かったのだろう。そういうことを経て、彼女まで俺のことを、「西園寺」として見るようになってしまったらと思うと。
でも彼女はそんな俺の恐怖なんて軽く飛び越えて、勝手に諦めるなと怒ってきた。彼女の言うことはご尤もで、俺ははい、と返事をするしか無くて。
他に撫でる人が出来たのかと思った、と胸を撫で下ろす彼女に、他の人なんていない、と答えた。
──そうだ、他の人なんて、いない。
俺を撫でて気持ち良くしてくれるのは彼女だけだし……そうじゃなくても。
俺を、俺自身をきちんと見てくれる。……見てほしいと思ってしまう。それは、彼女だけだ。俺は、そう気づいた。
不破ふわりという少女のことを、もっと知りたいと思った。もっと近づきたいと願った。だから遊びに誘って、ただ、気持ち良くさせてくれる存在が欲しいと思っている可能性もあったから、撫で抜きで頼んで。
だけど、そこは予想通りというか……例え撫でられるということがなくても、俺は彼女と過ごしたがっていると再認識できた。
元気いっぱいに駆け回る姿も、塩と砂糖を間違える抜けているところも、ふわふわに目を輝かせるのも、何の躊躇いもなく俺を颯爽と助けてくれるところも、俺の話を真剣に聞いてくれるところも、いつだって俺の恐怖を軽く飛び越えて来てくれるところも。……全部、全部。
きっかけは、「撫でたい」という彼女の言葉だった。彼女に……ふわりに撫でられて、もっと撫でてほしいと、みっともなくも求めてしまって。
たぶん、だけど。……ふわりはいつだって、ありのままの俺を見てくれている。だから撫でてもらって、ありのままの俺がここにいるのを許してくれているようで。……俺にはそれが、泣きたいくらい、嬉しかったんだ。
俺の呼吸を少しだけ苦しめるものが全て取り払われて……ふわりの言葉を借りるなら、俺の心はふわふわになってしまったんだと思う。
ふわりといる時間が、こんなにも心地いい。
もちろん、撫でられるのも……気持ちいい。
きっかけが何なのかはもはや分からないし、きっとそこは大した問題じゃない。……大事なのは、結果だ。俺は自分の思いを認めるしかなかった。
俺は、ふわりのことが好きだ。
好きだから……もっと、一緒にいたい。いたいし、彼女にも、出来たらそう望んでほしい。
ふわりが好きなのは、あくまで俺のふわふわな髪で、望み薄だろうなってことは……分かっているけど。でも、初めて誰かのことを好きだと思えた。だからこの気持ちは大事にしたいし……大事に渡したい。
それで、ふわりも同じ気持ちを返してくれたら……高望みだとしても、そう願ってしまったりして。
……そんな風に、悠長に構えていたからだろうか。
「……あれ、惟斗!? 惟斗じゃない!? ひっさしぶり~!! 元気だった!?」
よりにもよって彼女の前で、最悪な人物が現れてしまった。