第16話「ちょっと教え合ってみない? 自分のこと!!」
「はぁっ、はぁっ……」
結構走って、どちらからともなく足を止めた。さっきトイレで見た目整えたのに、走ったら汗かいて、結局無駄になっちゃったな。
「ここまで来れば安心……かな」
「はぁ、っ、うん、っ、そう、だねっ……」
「ふ、不破さん、大丈夫?」
「ごめ……息が……」
沢山走ったら、酸素が足りなくなっちゃったみたい。肩で息をしていると、西園寺くんは黙って私の手を引いてくれる。そして木陰にあるベンチを見つけると、そこに座らせてくれた。
「お水買ってくる。ちょっと待ってて」
そう言うと西園寺くんは、目と鼻の先にある自販機に駆け寄り、水を購入。小走りで戻ってくると、私の隣に腰かけてそれを開けてくれた。
受け取ってそれを飲む。キンキンに冷えた水が体の中をぶわ~っと巡る感覚がして、生き返るような心地だった。
「ぷはぁ、ごめんね、西園寺くん。ありがとう」
「ううん。……俺こそ、走らせてごめんね」
動物園出ちゃったし。と西園寺くんは続ける。そう言われて気づいたけど、そういえば確かに、走ってる時にゲートを抜けたような……。
「それに、あの投げてたふわふわのキーホルダー、お気に入りだったんじゃない? ……投げさせちゃってごめん」
「いやいや、全然いいんだよっ。確かにふわふわしてて可愛いからお気に入りだったけど、ちょっと雑貨屋さん覗いたら売ってるようなものだし」
「でも……」
「それを言ったら西園寺くんだって、私を蜂から助けるために、上着を犠牲にしてくれたじゃん!! 蜂にわ~~~~って被せて!!」
「あれは……あの時は、そうするのが一番いいと思ったから……」
「私だってそうだよ。あの時は、ああするのが一番いいって思ったの!!」
それに私は、ちゃっかり荷物の中で一番安いもの投げたし……。だからそんなこと、本当に気にしなくていいのに。
「キーホルダーなんてどうでもいいよ。西園寺くんの方が大事!!」
私がそう言い切ると……西園寺くんは何故か、ぶわっと顔を赤く染めた。思わず首を傾げる。今は撫でてもないのに、どうしたんだろう。
「不破さん……近い」
「え? あ、ごめん」
そう言われ、私は顔を離す。熱が入ったばっかりに、気づいたら身を乗り出していたらしい。
すすす、と体を離して、座り直す。なんとなく何かを話すのも憚られ、ただ目の前の景色を見ていた。
風が吹いて、さわさわと頭上の木の葉が揺れている。さんさんと太陽の光が地上に降り注いで、色とりどりの花が輝いていた。
……うん、たまたま来ちゃった場所だけど、結構いい場所だと思う。
「……また不破さんに、迷惑掛けちゃったね」
景色の良さに浸っていると、横にいる西園寺くんがそう呟く。見ると、彼は少しだけ俯いて指と指を絡めていた。
「せっかく動物園まで来たのに、ほんと駄目だな、俺は……」
「──そんなことないよ!!」
西園寺くんが冷たい瞳でそう言って笑うので、私は思わず身を乗り出した。また近いって言われるかなって思ったけれど、でもいいやとすぐに思い直す。
今は、それを否定する方が先だ。
「迷惑なんて思ってない!! 西園寺くんは駄目なんかじゃないし……!!」
「……でも、あれがなければまだあそこに居られたし……」
「それはそうだけど、でも西園寺くんが悪いわけじゃないでしょ? 西園寺くんだって、巻き込まれただけじゃん」
「……」
私のその言葉に言い返す言葉をなくしたみたいだけれど、西園寺くんは納得していない様子だった。どうすれば、どう言えば、と私は迷って俯く。でもそれも、一瞬だけだ。
「私、西園寺くんと走れて楽しかったよ!!」
「……え?」
「ううん、走っただけじゃない。……一緒に動物さんを見て回った時間も、一緒のお弁当を食べた時間も、モルモットちゃんをナデナデする時間も、西園寺くんと一緒だから、全部楽しかった!!」
「……!!」
「それに、今も。私、西園寺くんといる時間、大好きだよ!! だから、そんなこと言わないで?」
「……不破さん……」
「西園寺くんだって、私といるの楽しいでしょ?」
「え? すごい自信……」
「え!? 楽しくないの!? 楽しくないのに遊びに誘ってくれたの!? そんなことある!?」
「ない、ない、ないです。……俺も、不破さんといるのは楽しい、よ」
私が問いかけると、西園寺くんは顔を赤くして恥ずかしそうに答える。それなら良かった、と私は笑って。
「じゃあ、お話しようよ。動物園に居なくても、私たちは楽しい時間を過ごせるはずでしょ?」
「……何の話をするの?」
「そうだなぁ……西園寺くんの話が聞きたいな!!」
「……俺の?」
「うんっ。……そういえばこんなに一緒に居るけど、西園寺くんのこと、あんまりよく知らないなって思って」
「……そうだね。そういえば俺も、不破さんのことよく知らないや」
「でしょ? ……だから、ちょっと教え合ってみない? 自分のこと!!」
「……いいね。それ」
わたしの提案に、西園寺くんは楽しそうに笑って頷く。そして私たちは、自分のことを話し始めた。
好きな食べ物は? 得意科目は? どんな動物が好き? 趣味は? 家族構成は? どうしてこの学部を選択したの? ……などなど。思いつくことを、一問一答方式で質問しては答えていく。
「私はね、オノマトペの研究がしたいって思って文学部に入ったんだ~」
「オノマトペ?」
「うん!! ほら、私が大好きなふわふわって擬態語じゃん。そういう言葉を、いっぱい集めたいなって思ったの!!」
「……そっか。いい理由だね?」
「西園寺くんは?」
「俺は。……やりたいこととか、特になくて」
「そうなの?」
「うん。……まあ、強いて言うなら国語が得意だからって、そのくらいの理由」
そう言って、西園寺くんは私を見ないまま笑う。私はその横顔をじっと見つめ、一言呟いた。
「本当に?」
すると西園寺くんは弾かれたように顔を上げ、目が合う。じっと見つめると、彼は少しの間黙って……それからぽつりと、呟いた。
「……詩が、好きなんだ」
「詩? 詩って、ポエムの?」
「そう。……昔から、作るのが好きだったんだけど……最近は作ってなくて」
「……うん」
「でも、この大学、有名な歌人とかがよく卒業してる学校で、詩を作る人も結構いるから、そういう授業もあるじゃん」
「そうだね」
「……そういうの、他の大学には、ないから。まあ、受けられたらいいな、みたいな……」
髪をいじりながら、恥ずかしそうな様子で語る西園寺くんを、私はじーっと見つめていた。
表情と、喋り方で、分かる。……今私は、西園寺くんの大事な一面を見せてもらった。
心の中にある、大事な部分。大事に大事に鍵をかけて、守っているふわふわな部分。今私は、それを開いて見せてもらえた。……そんな感じがする。
「……いつか西園寺くんが作った詩、聞かせてほしいな」
それだけ言うと、恥ずかしいな、と彼は眉を八の字にしながら、でもどこか嬉しそうな顔で、そう言った。
そんなことを一通り喋って、気づけば夕方になっていた。夏だから、まだ日は落ちてないけれど……でも、あんまり夜遅くまで外にいるのも、あれだろうし。
「そろそろ帰ろうか」
西園寺くんも同じことを考えていたらしく、そう切り出してくる。うん、と私は頷いた。
ベンチから立ち上がり、私たちは駅までの道を並んで歩く。……どうしてだろう。距離感は変わっていないはずなのに、いつもより彼の肩が近くに感じられた。
ううん、肩、っていうか……。
「……不破さん」
「はいっ」
そろそろ駅だ、というところで、西園寺くんが不意に私を呼んで立ち止まった。つんのめりながら私も立ち止まり、西園寺くんを振り返る。
彼は真っ直ぐに私を見つめながら、告げた。
「……あの、良ければ……名前で呼んでも、いいかな」
「……えっ?」
「いや、その、結構仲良くなったのに、いつまでも『不破さん』はなんか……他人行儀かなって」
嫌だったらほんと断ってくれて大丈夫だから、と西園寺くんは早口で念を押してくる。私はそんな西園寺くんの顔を見つめ……迷わず笑顔で頷いた。
「もちろん!! 大丈夫だよ、好きに呼んでっ!!」
「そ、そっか。……ありがとう」
「じゃあ私も、西園寺くんじゃなくて……そうだな、ゆいくんって呼ぼうかな」
「ゆ、ゆいくん?」
「あれ? お名前、ゆいとくんだったよね?」
「そうだけど……」
「ゆいとくんだから、ゆいくん!!」
そっか……と西園寺くん、改めゆいくんは相槌を打つ。さて、ゆいくんはなんて呼んでくれるんだろう。とワクワクしていると。
「俺は……えっと……」
ゆいくんは口元に手を当て、少しだけ言い渋る。待っていると、その唇がゆっくり動き。
「──ふわり」
その声が、空気を揺らして、私の耳まで届く。
思わず、はっと目を見開いて。ゆいくんに呼ばれると、なんだか自分の名前が……まるで、全く知らない単語のように聞こえて。
知らない気持ちが、心をとくんと揺らした。
「……さん」
「……え?」
かと思えば、ゆいくんは何故か敬称を付け足して。思わず拍子抜けしてしまう。
「えっ……えぇっ、結局そんなに変わってなくない!?」
「ご、ごめん。日和った」
ふわり。とゆいくんは私の名前を言い直して。少し赤くなった顔で、私のことを見つめる。
なんだかそれが嬉しくて、はいっ、と意気揚々と返事をした。
「じゃあ……うん、帰ろうか」
「そうだねっ」
今度こそ駅に入り、改札を抜ける。ここから先、乗る電車が違うので、ここでお別れだ。
「じゃあまた、大学で」
「うん、また。……」
私は挨拶をして、踵を返す。えっと、次の電車は何分後かな……。
「──ふわり」
名前を呼ばれる。振り返ると……ゆいくんの顔が目の前にあって。そして一気に接近する──かと思いきや、彼は私の耳元に、口を寄せて呟いた。
「……今度は、俺のことも撫でてね」
そして彼はすぐに私から離れる。恥ずかしそうに、気まずそうに、苦笑いで右手を挙げると。
「ごめん、急に、近づいて。……また連絡します。それじゃあ」
それだけ言って、踵を返す。この場にとどまるのがよほど恥ずかしかったのか、足早に去っていってしまった。
ぽつんと取り残される私。……耳元には、さっきの声が鮮明に残っている。
俺のこと「も」、って……何のことだろう。と考える。すぐに思い至ったのは、モルモットちゃんで。……確かにモルモットちゃん、撫でたけど……。
もしかして、私がモルモットちゃんを撫でたことが……ちょっと羨ましかった、とか?
……ちょっとありそう。
「……今度会った時、聞いてみようかな」
私はそう呟いて、微笑む。かわいいなぁ、とスキップをするみたいな軽い足取りで、ホームに向かった。
……ん? かわいい? と、自分が無意識に挙げた単語に気が付いたのは、電車に乗ってからのことだった。