第七幕
すみません、最近忙しくて今回少し少なめです。申し訳ないです。
ガァガァと何かの声がする。山鳥か? なんかアヒルみたいだな? こんな山奥にアヒルなんているのか? そんな事をぼんやりとした意識の中で考えていると、少しずつ頭が回り始め、脳内の霧が晴れてくる。意識が覚醒してくるにつれ、全身に痛みがぶり返してくる。Tシャツから露出している腕は擦り傷だらけで、重たい感じの痛みが体の内外を問わず全身に纏わりついている。間断なく襲ってくる激痛に耐えながらおそるおそる目を開けてみると、生い茂った木の枝が視界一杯に広がっていた。その葉っぱと葉っぱの隙間から青空が見える。まだ霞む目を凝らし、今度は辺りに注意を払ってみる。周り一面木の枝と葉っぱだらけ、背中と腰の下に太い枝が何本も通っている。どうも僕は巨木が群生しているエリアに落っこちたらしい。狭い空間で、木の幹から光を求めて伸びる枝達がひしめき絡み合った結果、形作られた自然の手による小さなベッド。僕はその中の一つに救われたらしい。なんという幸運だ。どうやら神様は僕を殺す意図はなかったらしい。勿論まだ安心出来ないが。ぼくは木の幹に手をかけ、心を込めて感謝の言葉を述べる。
「ありがとう」
木から手を離した途端、心がポワッと暖かくなる。そう言えば心を込めて礼を述べたのはいつ以来だろうか? ありがとう、ってこんなにも気持ちのいい言葉だったんだな。相変わらず痛みは酷いが気分はいい。体の各部を動かしてコンディションをチェックする。動きに問題はない。骨も神経も異常は無さそうだ。この痛みはおそらく、斜面を転がり落ちた時に出来た打ち身や擦り傷からくるものだろう。痛いは痛いが耐えられない程じゃない。
(もう少しだけ休んでいこう。暫くすれば痛みも少しは収まるかもしれない)
僕は再び目を閉じた。子供の頃、母に抱かれた時の事を思い出しながら。
森の中を歩いている。
あれから二時間程眠り、大木から降りた。その場から離れる時に、木の幹に抱きついてもう一度全身で感謝を伝える。腕を通して感じられる、力強い大自然の鼓動。都会にいた頃は木なぞ意識した事すらなかったが、今では畏敬の念すら覚えている。
「ありがとう」
もう一度心を込めて言い、僕は歩き始めた。体は痛むが歩けない程じゃない。生い茂る草や木を手で丁寧に払いながら進む。草木達が相変わらずゆく手をふさいでくるが、不思議と煩わしさは覚えなかった。取り敢えずこの森から出る為に崖のところまで向かう。位置は先程木の上から確認してある。歩いていると背後から何かの音がした。足を止めて振り返る。ガサガサと辺りの草木をなぎ倒しながら何かが歩いてくる。獣匂、それが鼻腔を刺激した時、自然と目じりが険しくなる。草木の中から現れたのはヒグマだった。既に二本立ちで呼吸が荒い。戦闘態勢だ。
(入れ込んでいる? そうか、僕の血の匂いのせいか)
僕の全身は生傷だらけだ。そこから発した血の匂いが、この熊を呼び寄せてしまったようだ。全く、何がここ四、五十年、熊の目撃例はない、だ。ヤケクソ気味の苦笑いを浮かべる僕に、熊が一歩一歩近づいてくる。ジリジリと後退りしながらも、視線を走らせ武器になりそうなものを探す。ダメだ、何もない。当に絶望的な状況。だが何故だろう? 不思議と恐怖は感じない。それどころか頭の中は澄みきっていて、体に余分な力みはない。それが良かったのか僕の頭に天啓が宿る。僕は素早く腰からベルトを引き抜き、金具の部分を熊の前でブンブンと振り回す。見慣れぬものを警戒してか、熊が少しだけ後退りをした。僕は熊から決して目を離さず、叫び声をあげながらそれを辺りの木や岩、そして地面にやたらめったら叩きつける。僕の威嚇に対し、じわじわと下がる熊。臆したと言うよりかは、一旦下がって様子見といったところだろう。睨み合う熊と僕。今世界中で熊とエンカウントしている人間はどれだけいるんだろう? 戦線は膠着状態におちいった。熊は相変わらず警戒をするものの、逃げる様子は見せない。どうしても僕を齧りたいようだ。
(ならば)
僕は攻撃を決断する。熊に一撃を与える事で手強いと思わせ、撤退させる。これで助かった人は何人もいるそうだ。勿論助からなかった人もいるようだが試してみる価値はある。ダメだったらそんときはそんときだ。僕は思いきって一歩踏み込み、熊の胸を金具で一撃する。熊は痛みのため逆上し、雄叫びをあげ、僕にのしかかってきた。
(しまった! 裏目に出たか)
僕は地面に押し倒される。生臭い匂いの中、数滴の涎と共に、熊の牙が僕の喉笛に迫る。両手で熊の顔を掴み、必死に引きはがそうとするも当に無駄な抵抗、じわじわと迫る熊の牙。パニックになりかかったその時、綾子の言葉がふいに頭をよぎる。
(熊の口の中に拳を突っ込んで気道を塞ぐんだ)
「うぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
考えている暇などなかった。雄叫びで自分を奮い立たせ、熊の口の中に拳を突っ込む。手の甲を走る鋭い痛み、ぬるりとした感触。
「グオァァァァァァァッ!」
予想外の攻撃を受け明らかに動揺する熊。口内に侵入してきた異物を払うべく顎を大きく降る。そうはさせじと僕は無我夢中で熊の舌を掴んだ。
「グギァァァァァァァ!」
熊は先程とは明らかにトーンの違う声を上げる。悲鳴だ。舌を掴まれて平気な生物はいない。ここは生物の急所なのだ。僕は掴んだ舌を思いっきり引っ張ってやる。熊は苦しみの中、全身の力を使い僕を振り払おうとする。熊のパワーに振り回され、地面を引きずり回され、時折叩きつけられる僕。でも掴んだ舌は決して離さない。命懸けで掴んだ勝機だ。殺されたって放すものか。暫くその状態が続くも、やがて何かにぶつかり、その痛みの為思わず掴んでいた舌から手を放してしまう。
(しまった!)
そう思いながらも、あまりの痛みの為、地面を転げまわる。そんな僕の目の端に映ったのは、糞を垂れながら逃げていく熊の背中だった。
・・・・・・静かだ。耳朶をうつものは何もない。目を閉じてこの心地よい静寂に身を委ねてみる。微かに聞こえる鳥の囀り、木々の間を巡る風の足音、どこかから確かに感じる獣達の気配。自然が織りなす静寂と息吹が僕の体を優しく包み込んでいく。目を開けてみる。どこまでも続く青い空、透き通った空気、木々や草、そこかしこにある頑固そうな大小の岩にどっしりとしたむき出しの地面・・・・・・。目を閉じる前と同じ光景だが、先程とは『何か』が変わっている様な気がした。右の拳が僅かに疼く。先程の戦いでのMVPだ。僕はそれを目の前に持ってくる。熊の口の中にねじりこむ事によってできた幾筋もの赤い川が、僕の手の甲を縦横無尽に駆け巡っている。拳を染めていく赤い命の輝き。それに言いようのない衝動を覚え、思わず舌ですくいとる。しっかりとした塩味と、乾いた鉄の味が口の中に広がる。五感で感じ取る生命の証。
生きている!
僕は今確かに生きている!
ゆっくりと起き上がってみる。大丈夫、体の節々は少し痛むが、十分歩ける。軽傷だ。木々の隙間から、僕が先程ダイブした崖が見える。改めてみると高い。多分七、八階建てのビル位はあるかもしれない。あそこから落ちて助かったのだ。よく無事だったな、と心底思う。幸運だったから? 違うだろう。僕が助かったのはそんなチンケな理由じゃない。もう一度血と涎と泥にまみれた拳を見る。ヒグマを退けた僕の拳。僕はこの手でヒグマに勝ったのだ。銃も鉈も無しで。見ている内に『何か』が胸の内からこみ上げてくる。僕はそれを押さえつけるような野暮はせず、思い存分開放する。山全体に僕の雄叫びがこだました。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
山の空気を震わせながら隅々まで響き渡っていく僕の雄叫び。驚いたのか山鳥が二、三羽飛び立っていく。誇らしかった。高い崖から落ち、羆に襲われるという二度の危機を己の全てを活用して切り抜けた自分自身が。また雄叫びを上げる。止められない、止めたくないもっと、もっとこの命を感じたい、誇りたい、爆発させたい。そうでもしないと、こみ上げてくる『何か』で体が内側から破裂してしまう。
熱い!
これが『生きる』という事か!
細胞の一片一片が滾っている。命ってこんなにも熱いものなんだ。箱の中での生活においては、あやふやだった五感が今はっきりと実感できる。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。五感を通して感じられる全てがリアルだ。そしてその五感から生まれる感情も。喜びや悲しみ、そして・・・・・・・。怒り。僕は険しい目付きで崖の上を見上げた。その先にあの女がいる。