第六幕
暗闇の中を漂っている。
辺りは静かで物音一つしない。上下左右の感覚は全くなく、五感すらあやふやになりかかっている。自我があるのかどうかもはっきりしない虚ろな感じ。戸惑いこそ感じるものの、不安や恐怖はない。なんだろう、この感覚は。どこかで覚えがある。まだ胎児だった頃の、母親のお腹の中で栄養と惰眠を貪っていたあの時の様な感じ。なんの責任もなく、栄養もの摂取も排泄も身を守る事さえ他人に丸投げをして許される人生において一番楽な時期。唐突に轟音と共に稲妻が走り、暗闇が割れる。そこにあるものを見た時、喉の奥から叫び声がせりあがってくる。
「起きろ」
頭部を襲った衝撃が、僕の意識を覚醒させる。目を開けると棒を手に、国民服を着た綾子が僕を見下ろしている。側頭部が軽い悲鳴をあげているところを見るに、どうも棒で小突かれたみたいだ。
「出発するぞ」
「まだ外は真っ暗じゃないか」
寝ぼけ眼で腕時計を見ると朝の4時ジャスト。まだ人が活動する時間じゃない。
「都会ではどうだか知らんが、これが山の朝だ。さっさと支度しろ。もたもたしていると置いてくぞ」
僕の内心を読み取ったのか、綾子が有無を言わさぬ口調でせかしてくる。
この女に抗議しても無駄な事は骨身にしみているので、僕はぶつぶつ言いながら起き上がる。
「三分以内に支度しろ」
四十秒じゃなくてよかった、と思いながら用を足し、水瓶から水を組み、軽く口を濯いで顔を洗う。身だしなみを整えて所持品を身につける。と言っても財布とスマホをポケットに入れただけだが。
「済んだか?」
僕は頷く。女の子は無言で出口へと向かった。僕は後に続いた。
獣道と呼ぶのすら憚られる山肌を、苦もなくスイスイと進んでいく綾子。容赦なく足下に絡みついてくる笹藪を蹴飛ばしながら、どうにかしてついていく僕。綾子は一度も此方を振り向かない。ついてこられなければ死ね、ということだろう。
(くそっ)
僕は先程から悲鳴をあげている足に喝を入れて、綾子の背中に必死に喰らいつく。暫くすると綾子は立ち止まり、手にした棒で辺りの木を叩き回り始めた。もうこれで五回目だ。彼女は道の途中で必ずこれをする。この間は、彼女は前に進まないので、僕の貴重な休憩時間となる。ありがたい事この上ない。五分ほど周りの木を叩き回り、綾子は再び歩を進めた。
「なぁ」
「なんだ」
「さっきから何で木を叩き回っているんだ?」
「キノコを採るためだ」
「キノコ? なんで木を叩く事がキノコに繋がるのさ?」
はぁ、と綾子はわざとらしくため息を一つつき、言った。
「お前らは本当になーんも知らんのだな」
「あーはいはい、何も知らん赤ん坊ですみませんね」
僕の嫌味など聞こえていないかの様に、綾子は言った。
「こうする事で木の幹に隙間ができる。そこにキノコの胞子が入り込んでやがて見事な茸が実るんだ」
知らなかった。何となく感動している僕に綾子は言った。
「自然の恵みを感じ取れず、それを押しいただく方法すらも全て忘れ、自分一人では火も熾せないお前ら都会人」
綾子が此方を振り向いて言った。
「本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫かと言われても」
あまりにも深い問いかけにどう答えていいのか分からず、ひたすら戸惑うだけの僕。そんな僕を見る綾子の瞳に微かにだが憂いが宿る。
「本当に気を付けなければならないところが無頓着で、どうでもいい様なところに異常なまでのこだわりを見せる。やはりお前等都会人は分からんよ」
僕達都会人へのやるせなさを口にする綾子。彼女の澄みきった瞳を前にして、僕は何も答えられなかった。
それから十五分程、二人は無言で山道を下る。沈黙に耐えきれなくなった時、ふと疑問が湧き、思わず口にしてしまう。
「ねぇ」
「なんだ」
「君はクリスチャンなの?」
「なんだそのクリなんとかってのは。あんまり難しい言葉を使うな」
彼女は油断なく辺りに目を配りながら答えた。
「キリスト教に入信しているの?」
宗教など、と吐き捨て綾子は言う。
「数えきれない位の獣の死穢にまみれたこの身だ。今更救われようなどと虫のいい事は考えてはおらん」
キリスト教徒ではないって事らしい。
「でも昨日キリスト教の祈りを唱えていただろ?」
「ああ、あれか。母がキリスト教を信じていてな、食事の前はいつもああやって祈り言葉を唱えさせられた。まぁ、習慣と言うやつだ」
「お母さんいるんだ」
この女の母親か。さぞかし美人に違いない。性格は悪そうだが。
「もういない。死んだ」
寄ってきた蜂を棒で追い払いながら綾子が答えた。またか、と思う。どうも肉親に縁のない娘らしい。まぁ、縁もゆかりもない人間の家庭の事情だ、これ以上は踏み込まない方がいいだろう、と思い口をつぐんだ途端、綾子の声が淡々とその背中を通して流れてくる。
「私の父はろくでなしでな、飲む打つ買う暴力借金とそれはもう酷い男だったらしい」
綾子の家庭の事情など僕にとってはどうでもいい話な筈。でも何故だろう? 何で僕はこうして彼女の話に聞き入っている?
「そんなダメ人間から私を守るため、母は父の下から逃げ出し、何とか自力で私を育てようとした」
綾子の声は相変わらず淡々としている。ただ、祖父の死を語った時よりも、気持ちその語り口に抑揚を感じるのは気のせいだろうか。
「ただ、ろくな学歴も職歴もなく、手に職もない女を雇う会社などあるわけなく、母はまるで世間に追い立てられるかの様に夜の世界に入り込んだ」
綾子の話に耳を傾けつつ、僕は額の汗を手の甲でぬぐった。彼女の話は続く。
「三年目の春、私が六歳の時、母は倒れた。肝硬変だったらしい。仕事での無理な飲酒が祟ったのだろう。そのまま帰らぬ人となり、私は山の中で暮らす祖父に引き取られた」
一方的に話した後、もう話は終わりだと言わんばかりに綾子は口を閉じた。彼女が何故山の中で一人暮らしをしているのか、ようやく納得がいった。それにしても、と僕は思う。己の半生をほんの数分で綺麗にまとめてしまった彼女の心境に思いが及ぶ。そこにあるのはなんなのだろう。何となくそこに物哀しさを感じてしまう僕の感性はおかしいのだろうか?
木々の隙間から麓を垣間見る。まだ遠い。あとどれくらいかかるのだろうか? 早くシャワーを浴びたい、そんな事を考えながら山道をひいこらと歩く。暫くすると向かって右側が山肌で左側が急斜面、その間に細い道、という難所にさしかかる。急斜面の先は崖になっており、その下には森が繁っている。
「近道を行く。滑るなよ」
綾子がそう一言言い残し、慎重な足取りで難所に足を踏み入れる。僕は視線を綾子の背から急斜面へと移す。角度的には六十度から七十度位だろうか。歩いて降りるには危険過ぎる角度だ。こういう時手がかり若しくは足掛かりとなり得る切り株や岩、草木などはちらほら見受けられるもののその数自体は少なく、事実事上この傾斜は平坦に近い。一度斜面に落ちたらひたすら転げ落ちていくだけだろう。おまけにその先は崖になっており、その向こう側には広大な森が広がっている。落ちたら一巻の終わりだ、気をつけないと。僕は一つ気合いを入れて、狭い道へと足を踏み入れた。道を踏み外さぬよう、一歩一歩慎重に歩く。さすがの綾子もここでは早足ではなく、ゆっくりと慎重に歩いている。半分ほど走破してあたりで何かが僕の顔の周りをまとわりつく。スズメバチだ!
「うわっ!」
本能的にのけ反る。その瞬間、体のバランスを崩し、僕の左足は道を踏み外してしまう。残った右足で何とか踏みとどまろうとするも、昨日の雨でぬかるんでいたため踏ん張りがきかない。左足に引っ張られるように、僕の体が道から外れる。一瞬体が浮き、横倒しの姿勢で斜面に落ち、そのまま転がり落ちかけたが、すんでのところでどこかしそに似た、先っぽが尖った葉を持つ植物を掴んで何とか滑落を免れる。あ、あぶなかった。これが無ければ、このまま奈落へまっさかさまだった。現状僕は、山肌に対して腹ばいの状態で、植物の束にぶら下がっている。植物の手触りはざらざらしておりお世辞にも良いとは言えないが、構う事なくしっかりと両手で握り込む。
滑落を免れ、安堵のため息をつく僕。状況を確認する為辺りを見回そうとした瞬間、体がズルリと山肌の上を流れる。まさか、と思いしがみついている植物を見ると、僕の想像した通り、根が地中から三割程露出していて、その体勢は山肌に対して傾いている。手にした命綱がそんなにもたない事を悟った僕は、蒼白になった顔面を山肌の上に向ける。そこには斜面を覗き込む綾子の顔があった。
「何をしてるんだよ! 早く引っ張り上げてくれ! そんなにもたない!」
ただ救いを待つより他ない僕に、綾子は手にしている棒を此方に向けて差し出してきた。
「どうだ? 届くか?」
僕は必死に棒に向けて手を伸ばすも届かない。それを掴むには十センチ程リーチが不足している。
「ダメだ、届かない。ロープを投げてくれ!」
ちっ、これだから最近のガキは、などとツッコミどころ満載の悪態をつきつつリュックからロープを取り出した綾子が、ふいにその動きを止め辺りを見回し、そして何やら考え始める。この状況で何やってんだよ! 激高した僕は、思わず大声を張り上げて綾子を罵る。
「何やってんだよ、この馬鹿! 早くそれ投げろ!」
「そうかそうか、成る程、そういう事か」
何やら意味不明な事を呟きながら、綾子はせっかく広げかけたロープを再び畳み始めた。眼前の光景が信じられずに一瞬呆然とするも、すぐに我に返り、癇癪を爆発させる。
「おい! ちょっと待てよ! どういうつもりだ!」
「どうもこうもない。必要無いからしまう。ただそれだけだ」
そう言って文字通り僕にとっての命綱を、リュックの中にしまってしまう。眼前の光景に絶望する僕の体が、山肌の上をまた一段ずり落ちる。見ると手にしている植物の傾斜が一段と険しくなっている。まずい、もうそれ程持たない!
「お願いだから早くロープで僕を引っ張り上げてくれ! 頼むよ!」
怒鳴るだけでは埒が明かないので、今度は泣き落としで綾子の翻意を試みる。だが、そんな僕の懇願に対し、返ってきた返事は恐ろしいものであった
「お前の行き先はこっちじゃない、向こうだ」
そう言って崖の方を指差す。人の所業とは思えない彼女の振る舞いを前に、僕の全身を駆け巡る血液が一瞬で凍り付き、そして沸騰した。
「ふざけるな! 僕に死ねというのか!」
「死ぬかどうかは山の神次第だろう」
そう言ってリュックを背負う綾子。完全な帰り支度だ。
「山の神ってなんだ! ふざけてないで助けてくれよ!」
「私はふざけてなどいない。山の神がお前を呼んでいるんだ」
「・・・・・・」
かけられた言葉に理解が追い付かず呆然としている僕に、綾子が続ける。
「きっと都会人が珍しいのだろう。名誉な事だ。存分に可愛がってもらうといい」
そう言ってわざとらしく手を振る綾子。それを目にした瞬間、沸騰する脳みその奥で『何か』がブチッと弾けた。
「許さないぞ! 絶対に復讐してやるからな! 僕を助けなかった事を後悔させてやる!」
「確か北斗とか言ったな、お前」
立ち去りかけた綾子がこちらに目をやり、ようやく僕を名前で呼ぶ。
「お前は今ここで死んだ方が幸せかもしれんぞ」
「なんだと!」
「私が見たところ、お前は人として弱すぎるんだ。自然の中では勿論の事、きっと甘っちょろい都会でも生きてはいけんだろう」
「うるさい! 僕の生き死には僕が決める!お前になんか決められてたまるか!」
聞いていて気恥ずかしくなる様な台詞が自然と口から出た。山に入る前の自分だったら綾子の言葉を受け入れ、諦めていただろう。しかし今は違う。心の中で新しく生まれた『何か』が、しきりに綾子の言葉に反発している。
植物に目をやると、根が半分以上、地中から露出してしまっている。ダメだ、このままじゃ・・・・・・。
「自然の洗礼を浴びてこい。都会じゃ絶対に経験できない素敵な時間になるぞ」
綾子の言葉が終わるや否や、根がブチブチと嫌な音をたて始めた。もうダメだ、もたない。畜生、せめて、せめて言葉だけでも。
「次会ったら顔の形が変わるまでぶん殴ってやるからな!」
僕の呪詛を綾子は涼しい顔で受け流す。
「それは楽しみだな。私は忘れっぽいからなるべく早めに頼むぞ」
おどけたように綾子が言ったのと同時に、手にしていた植物が山肌から飛び出した。体が一瞬浮いたあと、また背中が山肌に激突する。
「くうっ!」
衝撃が背を通して肺を打つ。一瞬だけ息がつまるもそれを痛がる間もなく、斜面を転がり落ちていく。そんな僕を、まるで坂道で転がっている石ころを見る様な目付きで見送る綾子。その表情には何の感情も浮かんでいなかった。