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第五幕

「フーッ!」

大きな満足のため息と共に、碗を放り出しその場でごろりと横になる綾子。ぽっこりと膨らんだお腹が一定のリズムで上下している。目を閉じているが寝ている様子はない。食後の休憩といったところだろう。肉はまだまだ半焼けだ。静寂を持て余したのか、気付いたら自然と口が開いていた。

「なぁ」

「なんだ」

「ここに一人で住んでいるのか」

「そうだ」

「さっきお爺さんがいるような事を言っていたけど」

「ついこの間死んだ」

至極あっさりと肉親の死を語る綾子。そんな彼女に僕は慌てて謝罪する。

「ご、ごめん。悪い事聞いたね」

「何故謝る? 人はいつか必ず死ぬものだ。なんら特別な事でもない以上、それについての問いかけに良いも悪いもない」

淡々とした返事が返ってきた。こちらから見て仰向けに伏せる綾子の表情は伺い知れないが、その声には平素と変わらぬものを感じる。どうやらこの手の質問はタブーではないらしい。僕は安心して問いを重ねてみた。

「病気か何かで亡くなったの?」

「熊に食い殺された」

想定外の返答に顔を引きつらせる僕。そんな僕に綾子は続ける。

「友人との猟の最中に襲われたようでな、遺体は酷いもんだった。脳漿は大量の血と共に地面にまき散らされ、食いさしのモツや齧られた骨、細切れにされた肉、半分潰れた眼球・・・・・・。全てを拾い集めるのに数時間を要した。猟に出る時にはあんなに大柄だった祖父が、ミカン箱に収まって帰って来た」

凄惨すぎる事実を語る綾子の声に揺らぎや湿り気はない。だが、その声の向こう側にある表情は伺い知れない以上、僕はありきたりの対応に終始するしかなかった。

「辛かったね。本当にごめん、嫌な事を聞いて」

「だから、お前は先から何を謝っているんだ」

僕の気遣いに誇りを傷つけられたのか、綾子の声に苛立ちが混じった。お前なぞに気遣われるいわれはない、と言う事だろうか。

「熊は飢えていた。生き延びる為に食い物を探していた。その時たまたまその場に居合わせたのが爺さんだった。そのまま爺さんは熊に喰われ、その血肉となり、最後は糞になり地面に還った」

肉親の悲惨な死を、感情を乱す事無く淡々と語る綾子。これが生死を超越するという事だろうか? いや、違うな、と僕は思い直す。これはただの強がりだろう。弱肉強食が掟の大自然の中で、己の弱みを晒すなど愚の骨頂。食うか食われるかの世界では、辛い時ほど、弱っている時ほど強気に出ねば己の生を全うできないのだ。綾子の反応は、僕達都会の人間にとってはただの強がりだが、彼女にとっては立派な自己防衛の一種なのだろう。

「人はいつか必ず自然に還る。その時が遅いか早いか、ただそれだけの違いだ。何を悲しむ事があるかこの戯け」

戯けとは馬鹿の意味だ。あからさまな罵倒に一瞬色を成すも、心中新たに湧きおこってきたもの、『彼女への興味』が荒れかかった心を静かに均してゆく。

「これからずっとここで生きてゆくの?」

「そうだ」

「寂しくない? こんな山の中での孤独な暮らし」

くっ、と炎の向こうで綾子が笑いを嚙み殺した。そこに侮蔑のニュアンスを感じ取り、僕は少しだが声を荒げてしまう。

「何がおかしいのさ」

「いやな、何千何億と集まって暮らしながら、孤独に苦しんでいるお前達都会人にそんな事を言われるとはな」

綾子の閃光の様なカウンターに苦笑いするより他ない僕。言われてみるとその通りだろう。現代人は群れて暮らしながら、皆孤独にを恐れ、苦しんでいる。何故だろう? 何故人は隣の人と手を繋げない? 自分の半生を遠くの棚に放り投げ、考え込む僕をよそに、綾子は続ける。

「孤独など感じた事もない。何故なら私は既に自然の一部だからな」

理解するには雄大すぎる綾子の生き様に面喰う僕をよそに、彼女は続ける。

「太陽も空も木も水も風も花も草も獣達も皆、自然を形作る大事な仲間達だ。ここはそこかしこに仲間がいる。ここにいればいつでもどんな時でも彼らの存在を感じる。孤独など己の世界を見つけられない者の自己憐憫みたいなものだろう」

「自分の世界?」

聞き慣れない、いや、普段聞いても意識しない言葉に何故だかドキリとした。

「そうだ、自分が必要とし、そして自分が必要とされる、己の存在を中核となす、自分の自分による自分だけの世界。心の内か外にこれを持てば、孤独などに思い悩む事はなくなる」

「君の世界ってなに?」

「目の前にあるだろう」

即座に返ってきた迷いのない言葉に、圧倒されるものを感じてしまう。

(多分僕より年下なのに)

それに引き換え自分は二十四年も生きてきて何を学んで来たのだろう。いじけて自分の殻に閉じこもり、ただ食う為にのんべんだらりと生きてきた自分の半生が、とてもしょうもないものに思えてきた。


その時寝そべって天井を見ていた綾子が、伏したまま体勢を入れ替え、その身を此方へと向ける。腕枕の上にあるその表情には、今までに無い色がある。

「おい」

「ん?」

内省の海で漂っていた僕の意識を、綾子の力強い声が現実へと引き戻す。

「私もお前に聞きたい事がある。答えろ」

「なんだい?」

聞きたい事とは何だろう? 僕の背筋が心持ちしゃんとなる。

「お前先程熊に喰われかけていた時、何を考えていた?」

あんな状況でものなんて考えられる訳ないだろう、何を言っているんだろうこの女は、と呆れる僕をよそに、綾子は眼差しを揺らさず、同じ体勢で静かに僕の返事を待っている。答えるのも馬鹿馬鹿しいので一瞬はぐらかそうとするも、炎の向こう側で輝く真摯な瞳がそれを許さず、気が付いたら正直に話していた。

「あんな状況でものなんて考えられる訳ないだろう。何とか逃れようとじたばたして、無理だと悟った途端諦めた。それだけだよ」

「信じられん」

そう言って綾子は小さく天を仰いだ。

「何がだよ」

「都会にはお前みたいなのばかりなのか?」

あからさまな侮蔑にやや鼻白むも、グッと堪えて返答する。

「自分の立ち位置が平均だとは思わない。下から数えた方が多分早い。だけど、僕みたいなのも沢山いると思う」

自分で言うのも情けないのだが、これは謙遜ではない。学歴は平凡、特殊な能力も気概もなく、おまけに低コミュニケーション能力ときたら降りてくる評価などたかが知れているであろう。三国志演技で言えば程遠志か鄧茂。ドラゴンボールで言えばレッドリボン軍一般兵といったところだ。僕の返答を聞いた綾子はおもむろに上体を起こし、床に胡坐をかいた。その表情には驚愕とも呆れともつかない『何か』が浮かんでいる。何を思っているのかは分からないが、僕の返答に感心していない事だけは確かだ。

「お前は生きていないな。死人みたいなもんだ。小さな紙切れに縛られて、食う為に生きている」

食う為に生きている、綾子の言葉が僕の心の深いところに深く突き刺さった。何故? 胸中の戸惑いはやがて反発へと変わり、自然と口の端に上がってくる。

「そんな事はない。僕は自由だし、毎日楽しく過ごして満足している」

どうしてだろう? 今まで何回も口にしてきた言葉なのに、今日に限って力が入らない。

「嘘だな」

揺るぎない声で僕の揺らぎをあばく綾子。私は全てをお見通し、と言わんばかりのその振る舞いに不快感を覚え、僕は思わず犬歯を向き出しにしてしまう。

「勝手に決めつけるなよ!」

「決めつけではない。私は事実を指摘しているだけだ。お前は生きていない。表面上平然としつつも、内心では暇を潰すだけの毎日にうんざりしている」

ニヤニヤと笑いながら綾子は言う。心の奥底にそっとしまってある古傷を晒された僕は、気が付いたら縄張りを荒らされた野良犬の様に彼女に噛みついていた。

「なら根拠をあげてみろ! そこまで自信満々に断じるならば、しっかりとした根拠があるんだろうな!」

事は僕の内心の問題だ。根拠など提示できる筈がない。言葉に詰まる綾子を想定し、フライング気味に勝ち誇る僕を、鼻で笑う綾子。

「充実した生を歩んでいる者は、どんな状況であっても自ら命を投げ出す様な真似はしない、と言うか出来ない。何故なら生きるという事は、一分一秒がそれ自体が宝だからだ」

核心を突いた彼女の言葉に一瞬言葉を詰まらせるも、論破されたくない、という反発心から脳髄を振り絞って幼稚な反駁を試みる

「充実している人間全員がそうとは限らないだろ? 中には危機に直面した際、やたら諦めの良い行動をする奴だって絶対にいる筈だ」

反駁の為の反駁。しかもその内容は例外をあげつらうだけの稚拙なもの。とても反駁とは言えないのは分かっていたが、これしか思いつかないのだから仕方がない。それは取りも直さず、彼女の言い分に理がある事を自ら認める行為に他ならないのだが、怒りで頭が一杯の僕はとてもそこまで気が回らず、彼女の主張にせっせと花を添え続ける。

「そう言う事ではない」

やれやれ、言わんばかりにとわざとらしいため息をつく綾子。そのどこか上から目線の所作に僕への軽侮を感じ取り、頭の血管を拡張させる僕をよそに、綾子は勢いよく上体を起こしてこちらに向き直った。たわわに実った乳房が囲炉裏の炎に照らされ、闇を背に赤白く輝いている。そのあまりにも蠱惑的な光景に一瞬怒りを忘れ息をのむ僕を前に、彼女は続けた。

「私は毎日が楽しい。山を歩き、川を渡り、水を汲み、薪を割り、山菜やキノコを集め、そして狩りをして自然の恵みを味わい、星の下で大いなる感謝と共に眠りに就く。最高に幸せだ」

力説する彼女の言葉には微塵の揺らぎもない。本心からの思いなのだろう。こんなネットもテーマパークもないところで生きる事のどこが幸せなのか、と思いつつも、瞳を輝かせている彼女にわずかながらの羨望も覚える。相反する二つの感情が僕の心を二つに分ける。

僕はどちらにいるんだろう? 分かれた心の狭間で漂う僕をよそに、彼女は続けた。

「生き物というのは生きていれば何をやっていても楽しいものなのだ。そう考えると、人生の一秒一秒が宝石のようなもので、日々の生活は当に宝の山だ。それを熊ごときに襲われた程度で投げ出す? ありえん、お前は手にしているモノの価値すら分からん愚か者だ」

彼女の嘲りを受け、僕の蟀谷が激しく脈動する。

「じゃあ聞くけど、あんな絶望的な状況で僕はどうすれば良かったんだよ! 羆にのしかかられて喉笛を齧られる寸前だったんだぞ!武器も無いあんな状況であがけって言う方がおかしいよ! 諦める他ないじゃないか!」

「絶望的な状況?」

またフフン、と鼻で笑う綾子。むかつく。

「教えてやる。あの状況は絶望的な状況ではない。むしろ最高の好機なんだ」

「どこが?!」

何を言っているんだコイツは、と僕は本気で綾子の正気と理性を疑った。そんな僕を前に綾子が得意げな顔で講釈をたれる。

「熊の開いた口が目の前にあったんだろう?最高の好機じゃないか。ああいう時はそのまま口の中に己の拳を突っ込んで押し込んでいくんだ。そうする事で熊の気道を塞ぎ、窒息に追い込む」

あまりの現実離れした話に一瞬呆けてしまう僕。しかしすぐに気を取り直し、ふざけてるとしか思えない目の前の女をどやしつける。

「ふざけるな! 真面目に答えろよ!」

「失礼な。私は大真面目だぞ」

そう言いつつ多分わざとだろう、これ見よがしにお尻をボリボリとかき始めた。こいつ絶対にふざけている、と確信した時、僕の目の角度は限界まで吊り上がり、声も一段と高くなった。山の中だから近所迷惑など考えなくてよいのは助かる。

「素人だと思っていい加減な事を言うな! そんな事をしたら手首ごと嚙みちぎられるのがオチだろ!」

ふん、と綾子が僕の物言いを鼻で笑い飛ばす。

「人間に限らず生き物というのはな、喉を塞がれるとモノを噛めなくなるんだ。なんなら体験してみるか? ん?」

そういってこれ見よがしに、己の拳を掲げる綾子。思わずお尻で後ずさる僕を前に綾子が信じられない事を言った。

「私はそれで三頭ほど仕留めた事があるぞ」

その話が本当なら間違いなくコイツはサイヤ人だ。だめだ、なんかもう人種が違う。なんだかウンザリしてしまった僕は、会話を切り上げにかかる。

「分かった、もういいよ。僕達はなんか前提というか住んでいる世界が違いすぎる。話し合ったって無駄だ。もうやめよう」

そう言って僕は囲炉裏にくべてある串を取り、程よく焼けている肉にかぶりついた。初めて食べる熊の肉。油っこい。それに少し固い。でも味は濃厚で喉ごしにはどっしりとしたものがある。初めて口にする野生の恵みに食欲を刺激され、気付いたら一心不乱に肉にかぶりついていた。僕が三本目の串に手を伸ばした時、綾子が話しかけてきた。

「どうだ? 美味いか」

「ああ。野生の肉ってこんなに美味いもんなんだな」

僕の物言いに冷笑で応じる綾子。それやめてくれ、本当に腹が立つ。

「お前が今食べているのは自然が生んだ本物の脂身であり赤肉だ。不自然な環境で飼いならされた動物の肉とはものが違う。めったにない経験だ。心して食え」

別にありがたくもないけどね、との言葉が口から出かかるも、すんでのところで飲み込む。口にしたら間違いなく殴られると思ったからだ。それから黙々と肉を食べ続ける。再び寝転び、天井を見ながら綾子は言った。

「都会というところは昔住んでいた事があるるが、何というか薄気味悪いところだな。どこ行っても同じ景色で同じ物しかない。お前らよくあんなところで暮らせるな」

昔住んでいた? 都会に? 生まれてからずっとここにいるのではないのか? 確かめてみたい衝動にかられるも、綾子の物言いに対する反発がそれに勝った。

「山の中だって同じじゃないか!」

僕の反駁に、はっはっはっとわざとらしく腹を震わせる綾子。お前絶対にそれわざとだろ。

「何を戯けた事を。山は一秒たりとも同じ顔をしてはいない。常に変化している。毎日毎日同じ顔しかしない、金太郎飴の様な都会と一緒にするな」

こいつの前で口を開いた時点で負けなのかもしれない、とようやく僕は悟る。なにせサイヤ星の重力は地球の十倍。そんな異常な環境で育った奴等と分かり合えなくて当然なのだ。

「僕はその薄気味悪い都会の住人でね。どうもこういう所は落ち着かないんだ」

「都会の人間は憐れだな。まるで飼いなさられた家畜の様に生きる力を奪われ、権力者達の養分となる。お前らはそこにいる限り、一生命というものを感じとれやせんぞ」

大きなお世話だ、と思いつつ僕は言った。

「明日帰る」

「勝手にするがいい」

僕の事など心底どうでもいいのであろう、綾子は寝転んだ状態で足を立たせて、何やら縮めたり伸ばしたりしている。何かの運動だろうか。この女のエクササイズなどに興味は無いので特に突っ込まず、僕は要求を口にする。

「山の麓まで送ってよ」

「断る。何だって私がそんな面倒な事せねばならんのだ」

「また熊に襲われるかもしれないだろう? 銃を持ってついてきてくれよ」

「お前が生きようが死のうが熊の糞になろうが私の知ったことではない」

そう言いつつ謎の体操を継続する綾子。つれない返事だが想定内だ。こちらもこの女が素直に動くとは思っていない。僕は切り札を手にする。

「勿論ただとは言わない」

「ほう?」

綾子が体操を中断し、興味深そうにこちらに顔を向けてきた。

「貰った熊肉を全て君に渡す。これでどうだ?」

熊肉なぞ持って帰っても多分食べないし、第一数十キロあるのだ。そんなものを持って下山なぞできやしない。ならばいっそ全部くれてやろう。僕には不要でもコイツには必要な物の筈だ。綾子からの返事はない。天井を見つめ何やら考え込んでいる。一、二分程して彼女は言った。

「いいだろう。明日の朝、お前を麓まで送ってやろう」

交渉成立。あと一晩でこんなところからおさらばできる。明日山を下りたらゆっくりと風呂に入って美味しいものでも食べに行こう。なにせ臨時収入が四万円もあるのだ。当分の間はだらだらできる。最高の休日に思いを思いをはせるも、不思議と心は華やがなかった。


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