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第四幕

すんません、遅くなりました。これから繁忙期である年末と確定申告がやってまいります。定期的にアップは難しくなるかもしれませんが、読んで下さる方がいらっしゃる限り連載は続けますので今後とも宜しくお願い申し上げます。


皆大好きです。


それではどうぞ。

盥を手に、母屋らしき大きい方の小屋の扉を開けた僕は、眼前に広がる居住空間を前に思わず絶句してしまう。

(江戸時代の長屋かよ)

戸を開けると小さな土間になっていて、そこには煮炊きする竈があり、座り流しに水瓶が置かれている。

小屋の奥は十畳位の畳ばりとなっていて、中央には囲炉裏がある。江戸時代の、九尺二間の長屋をイメージしてもらえばいいと思う。壁には手製のコマンドフックが至る所に設置されており、そこに様々な生活用品らしきものと毛皮がかけられている。部屋の奥は銃台となっていて、そこに鎮座するライフルが黒光りの中確かな圧を発している。銃台の上(ほぼ天井の一部だが)は神棚になっていて、宮形の中に祀られているのは伊勢神宮のお札だ。神様のお膝元にライフル置くなよ。

天井から何本もヒモが垂れ下がっていて、その先にそれぞれ『何か』が結ばれている。その内の一本に目を凝らしてみると、どうも乾燥したなにかの胆みたいだ。多分食用なのであろうが、その赤褐色の物体が持つグロテスクな佇まいにはとても食欲をそそるものはない。盥を持つ腕が悲鳴を上げ始めた事もあり、僕はそれらから目を離し、手にした物を水場へと運び込む。側に大きな水甕があり、。入りは七分くらいだった。


かまちに腰掛けアヤコを待っている間、改めて家の中を見回す。本当に何にもない家だ。最低限の生活用具しかない。よくこんなところで暮らせるな、退屈じゃないのか、と本気で思う。ふと見ると、すぐ側のフックに赤色の頭巾の様なものがかかっている。アヤコのものなのだろうか? 少し興が湧き、近づいて手に取ってみる。小さい。掌サイズ。子供用だ。名前が書いてある。『綾子』 アヤコとは漢字でこう書くらしい。何だか軽く失笑してしまう。綾という文字は綾絹の意味からも推測できる様に、奥ゆかしさ、上品さ、女性らしさを表現するものだ。雅さや優雅さを象徴する文字を、あんなメスゴリラにあてがうのは最早犯罪に近い。『綾』の字が可哀そうだ。人を殴る事を何とも思っていないあの暴力女には、綾子じゃなくてゴリ子の方がしっくり来る。因みにこれを当人に向けて言ってしまったら僕はどうなってしまうのだろう。鉈で八つ裂きか銃で蜂の巣か若しくはその両方か。そんな事を考えていると戸が開いて綾子が入ってきた。相変わらずの褌一丁で、その両腕には燻製肉の塊がある。体中を覆っていた血と油は綺麗に洗い流してきたのか、その裸体は白く輝いている。思わず見惚れてしまっている僕をよそに、さっさと水場へと向かう綾子。それにしても、と僕は思う。すぐ側にほぼ全裸の美女がいるのに、一向にやましい気分にならないのか何故だろう。先からボカスカ殴られているせいか。だとしたら恐怖というやつは性欲に打ち勝つらしい。僕が心理学者あたりなら論文でも一本書くところだ。そんな事をぼんやりと考えている僕の顔面を『何か』が直撃した。苦痛のため顔を覆って呻いていると、頭の上から綾子の声が降ってきた。

「こういう時は何も言われなくとも火を熾しておくもんだろう。本当に気が利かん」

「あ、あのさぁ」

僕は両掌の間から、ぐぐもった声を出す。

「あ?! なんだ」

綾子の目が据わる。その眼光の鋭さに思わず怯みそうになるも、下っ腹に力を込めて言っった。

「すぐに暴力をふるうってよくないと思うよ」

「暴力? ああ、殴る事か。何故だ?」

「へっ?」

「何故殴るのがだめなのだ?」

斜め上どころか非常識に近い反応に、僕は思わず口をあんぐりと開けてしまう。この女は本当にサイヤ人なのかもしれない、と半ば本気で考え始めた僕をよそに、綾子が悠然と持論を展開し始める。

「私は理由なく人を殴らん。裏返すと理由があるから殴るのだ。手順を間違える、段取りが悪い、言う事を聞かない、気が利かない。こんな奴等は殴られて当然だろ」

「当然じゃねぇよ! そんなの加害者の理屈だろ! パワハラだ!」

「なんだそれは。あまり訳の分からん言葉を使うな。頭が痛くなる。」

偏屈爺の様に眉をしかめている綾子に、猛然と道理を説く僕。

「幾ら要領が悪いからといって、それだけで人を殴る理由にはならないよ」

「なる」

綾子の声には微塵も迷いも揺らぎもない。人を人たらしめる倫理、道徳を完全に無視した発言を前にして絶句している僕に、綾子は続ける。

「お前は人が人を殴るという事の、一面しかとらえていない様だ」

自己正当化の為か、綾子が何やらもっともらしい屁理屈を述べ始めた。何をうたいやがるつもりなのか、とりあえず最後まで聞いてみる事にする。

「人は殴られて覚えた事は絶対に忘れん。痛みと共に記憶に刻み込まれたその知識は、文字通りそいつの血肉になるんだ。それは生きていく上で力になる」

そうきやがったか! 眦を決して即座に反論する僕。

「何度も言うようにそれは殴る方の理屈だろ! 殴らなくとも物を教える事は可能だぞ。暴力を正当化するなんて人として最低だ!」

僕の物言いに対し、綾子は心底不思議そうな表情を浮かべる。

「正当化? 変な事を言う。私は自分の行為にやましさなぞ微塵も感じていないぞ」

「ああ、もうだからそういう事じゃなくて」

話が噛み合わない事に苛立ち頭をかきむしる僕をよそに、綾子は続ける。

「私は長年、ここで爺さんと暮らしていたが、それはもうしょっちゅう殴られていたぞ。だが、そのお陰で、爺さんが厳しく仕込んでくれたお陰で、私は大自然の中、こうして一人身を立てる事が出来ている。私が今、こうして自活できているのは、殴ってくれた爺さんのお陰だ」

「・・・・・・」

何となく黙ってしまった僕を前にして綾子は続ける。

「爺さんが殴らず教えていたら、私は今頃生きていない」

「・・・・・・」

反論できなかった。理屈じゃなくて、何というか・・・・・・。彼女の『生きる』という行為にかける『覚悟』とでも言おうか、とにかくそんな彼女を支える『気合』みたいなものに圧倒されてしまったのだ。酢を飲んだ様な顔付きで黙る僕に、綾子は嘲りの笑みを浮かべる。

「お前は、いやお前達都会の人間はろくに殴られた事もないのだろうな。道理で甘っちょろい訳だ。少し小突かれただけですぐにピーピーと泣き喚く」

「・・・・・・」

綾子のこき下ろしに対し都会人として言い返すら出来ず、奥歯をきしませるだけの僕。ひ弱な男を完膚なきまでにやり込めて満足したのだろう、綾子はそれ以上何も言わずに竈の側に向かい、壁に設置された戸棚から小さな壺を手に取る。

(火を熾すのか)

『竈に火を入れてみた!』生憎そんな動画は見た事はない。生まれて初めての光景に興を覚え、先程までの屈辱などそっちのけで、綾子の手つきに見入ってしまう。そんな僕をよそに、綾子は手にした壺から、何やら灰色の玉の様な物を数個取り出し、竈の中に放り込む。見たところその玉は、灰を丸めた物の様だ。その上に短く細く裁断された木を十数本放り込み、そしてまた別の小さな壺から木屑の様な物を取り出し、側にある小さな鉄の箱に移す。そして手近の台の上から二つの石の様な物を取り出して、その鉄の箱の上で打ち合わせ始めた。

(火打ち石だ。初めて見た)

人類が発明した太古の着火方法に妙な感動を覚える僕の前で、木屑から細い煙がたなびき始める。それに何度も息を吹き掛け小さな火口にし、それをそのまま竈の中に入れる。火口の火がじわじわと灰玉に燃え移る。綾子は竈の前で四つん這いになって、フーフーと息を吹きかけ始めた。褌一丁で四つん這いになっている女性を前にして、そのお尻を凝視する訳にもいかず、目のやり場に困った僕は窓の外に目をやる。いつの間にやら夜の帳が降りている。今日麓まで降りるのは無理そうだ。山の入口に停めてある自転車は撤去されていないだろうか、とぼんやりと物思いにふける僕の意識を、カンカンと何かを打ち合わせる甲高い音が現実へと引き戻す。竈の方に目を向けると、綾子が竈に炭をくべている。入れる前に二、三度打ち鳴らすのは彼女のスタイルの様だ。燃え盛り始めた竈を満足げに眺めた綾子は、近くの戸棚から鍋を取り出し、そこに水瓶から汲んだ水を入れて竈に乗っける。次にまな板を取り出し、その上で熊肉とゴボウをぶつ切りにし始める。『形を揃える』という概念は彼女の中にはないらしく、それらは全て見事なまでに不揃いだ。鍋の中身が沸騰すると、綾子はそこに日本酒注ぎ込み、ぶつ切りにした熊肉とごぼうを放り込み始めた。

(肉を下茹でしないのか?!)

半ば呆れている僕を前に、綾子は燻製肉の塊に包丁を入れ始めた。僕が持ってきた包丁だ。俎板の上で、燻製肉が細かく切られると言うか切断されていく。勿論それらの大きさはバラバラだ。切り分けた後、彼女はそれらを串に通し始めた。熊肉のバーベキューだ。美味しいのだろうか。そう思いながらふと綾子の横顔を覗いて見ると、その口元に涎が滲んでいる。『調理』とは呼べるかもしれないが、『料理』と呼ぶには何となくはばかられる綾子の取り回しを前にして、ただひたすら恐れ入っているだけの僕。そんな僕を前に、綾子は手にしていた肉を一旦置き、小さめの炭を五、六本と灰玉を手に囲炉裏へと向かう。それらを囲炉裏に敷き詰め、竈の火を利用しつつそこにも火を入れる。竈と囲炉裏、二ヶ所で熾った火が部屋の空気をじんわりと温めていく。夏とはいえ、山の夜は少し寒い。それらが放つ温もりに一息つく僕。囲炉裏に火を入れた綾子が、熊肉が満載の串を囲炉裏にくべていく。ジジジ、と肉が焼かれる音がする。時折出てくるジュウッとした音は、多分油が焼ける匂いだろう。ふと竈に目をやると、鍋が沸騰している。

「いかんいかん」

そう言って綾子は戸棚から別の壺を取り出し、その中身を手づかみで鍋の中にぶち込み始めた。

(あの味噌の中にだしは・・・・・・入っているわけないか。まぁ、肉がだし代わりと考えればセーフか)

何だかげんなりしている僕をよそに、綾子が菜箸かそこらに転がっていた木の枝か判別つかないもので鍋の中をかき混ぜる。そしてまた戸棚から別の壺を取り出し、ひっくり返してその中身を鍋の中にぶちまける。白く輝くそれは、我等日本人のソウルフード、米だ。綾子は箸で軽く中身を均した後、鍋を囲炉裏へと移した。鍋の中身が囲炉裏の上でグラグラと沸き立つ。黄金色のスープの中で、肉とごぼうが踊っている。鍋の周りでは、まだ半焼けの燻製肉が食欲をそそる香りを奏で始めた。煮えた味噌が放つまろやかな香りと、肉が焼ける香りが否応なしに僕の食欲を刺激する。綾子は水がめのところに行き、汲んだ水で軽く手を洗ったあと、戸棚から取り出した箸と椀、そしておたまの様なものを手に囲炉裏の前で胡坐をかいて座る。肉の焼け具合を確かめ、串の位置を調整しながら半焼けのところに火を入れていく。手にしたおたまで鍋の中身をグルグルかき回し、中身を椀によそう。そして一旦碗を囲炉裏のふちに置き、居住まいを正して目を閉じる。何をする気だ? と訝しむ僕の前で、綾子はその桜色の唇をそっと開く。


 主よ憐み給え キリストよ憐み給え 主よ憐み給え


え? これって祈り?! 絶句している僕をよそに、彼女の祈りは続く。


天にまします我らの神よ、願わくば御名を聖となさしめ給え


何故だろう、祈る綾子の顔から眼が離せない。


御国を来たらしめ給え、御心を天におけるが如く、地にも行わしめ給え


神の祝福を真摯に寿ぐ彼女の存在に、神々しさすら覚えてしまう


我らの日用の糧を今日も与え給え 我らに罪を犯すものを我ら許す如く


その姿は、そう、まるで


我らの罪も許し給え、我らを試みに合わせず、悪より救い出し給え


聖母マリアの様・・・・・・


アーメン


結びの言葉の後、目の前の料理を拝み、綾子は食事を開始する。手近の椀を掴み、猛然と中身をかきこみ始める。黒澤明監督のレジェンド映画 『七人の侍』に出てくる島田官兵衛の様な豪快な食いっぷりを晒すこの女が、先程まで聖母マリアの様に敬虔な表情で祈りを捧げていたと言って誰が信じる? 戸惑う僕をよそに、あっという間に椀を空にした綾子が、熊串に手を伸ばす。それを見た僕のお腹がグウと鳴った。たまらず綾子の向かいに座り、肉に手を伸ばした僕の額に『何か』が直撃した。額に広がる鈍い痛み。すぐ側で小さく跳ねているおたまを見て、僕は自分の身に何が起こったのか察した。綾子が僕におたまを投げつけたのだ。何をする! と言おうと僕が口を開くより早く、綾子が言った。

「何をする」

「こっちの台詞だ! 今度は何だよ!」

いきり立つ僕など歯牙にもかけていないのか、平素と変わらぬ様子で淡々と語る綾子。

「私の肉に手を出したからだ。本来なら撃ち殺してやるところだが、甘ったれの都会人だからそれ位で勘弁してやった。感謝しろ」

そう言って綾子は手にした肉にかぶりつき、ぐちゃぐちゃとこれ見よがしに咀嚼し始める。そのあからさまな嫌がらせに蟀谷が激しく波打つも、どうにかこらえて僕は抗議した。

「に、肉の半分は僕のモノじゃないのか!」

「その通りだ。だからあそこにあるだろう。自分で焼いて食え。ここの水と道具と火は自由に使っていいぞ」

そう言って綾子は空になった串を放り投げ、鍋の中身を碗に移し、それを一気にかっこむ。どう控えめに見ても女の食べ方ではない。山賊か海賊の振る舞いの方がまだ上品だろう。先程島田官兵衛に例えたが取り消す。名優、志村喬に失礼だ。因みに劇中、彼が農民達の用意してくれた米を食べる時に言う台詞、

「この飯、おろそかには食わんぞ」

は本当に名言だと思う。あとラストシーンの

「また負け戦だったな」も悪くない。黒澤映画は名言の宝庫。まぁ、どうでもいいが。

何か言ってやろうと思い頭を巡らせるも、思いつくより先に腹が盛大に鳴る。文句じゃ腹は膨れない、そう思い直した僕はため息をつき、台所へと向かう。熊の生肉が半分ほど残っている。綾子が鍋にぶちこんだものの残りだ。僕は包丁を手に肉を斬りにかかるも、刃が中々通らず苦戦する。綾子はさっさと切っていたのに。肉とはこうも切りづらいものだったのか。自分は包丁一つまともに使えない人間なんだ。その事実を認識したとき、何故だか異常にショックを受けた。自分はこの歳まで何を学んで来たのだろう?

それから二十分程費やし、どうにか肉を切り分ける。そして台所に散らばっていた串を数本かき集め、それに肉を通そうとするが中々通らない。綾子が食事に勤しむ音を背にしながら、肉相手に奮闘する僕。彼女がわざとらしくたてる肉を食む音、汁を啜る音が煩わしい。どうにかして全ての肉に串を通し、囲炉裏のところまで持って行った時、鍋の中身も肉も八割方無くなっていた。食べる量もスピードも猛獣並みだ。綾子の方にはあまり目をやる事なく、肉が刺さった串を一本一本火にくべていく。あぶられる事でより一層赤く輝く肉。焼けるまでには暫くかかりそうだ。上目遣いに綾子の様子を伺うと、お椀にたっぷりと盛られた雑炊をワシャワシャとかっこんでいる。

ブッ!

食事中は絶対にたててはいけない音がした。

勿論僕ではない。だとすると犯人は一人しかいない。そんな僕の白い目なぞものともせず飯をかっこみ続ける綾子。僕は顔をしかめるに留め、肉から滴り落ちる油をぼんやりと眺めていた。


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