第十五幕
金蔵は可能な限りの速さで斜面を滑り降り、北斗の後を追う。
だが、そんな彼の頑張りもむなしく、どんどんと離れてゆく二人の距離。やがて視界から北斗の姿が斜面の向こう側へと完全に消えた時、金蔵の背筋に冷たいものが走る。自らの遅々としたペースがもどかしかった。
「北斗! どこだ?」
斜面を降りきったところには再び森が広がっていた。その前で金蔵は大声を出しつつ北斗を探す。
返事はない。
山にこだまと化して消えていく己の声。
最悪の事態を想定しかけた金蔵の鼓膜を、『何か』が震わす。金蔵は反射的に音のした方に銃を構え、警戒体制を取る。スコープの中で、茂みががさがさと揺れている。
(なんだ?なんの音だ?北斗か? 獣か?)
呼吸を三回程したあたりで、茂みの中から北斗が出てきた。
金蔵がざっと見たところ、全身は小さな生傷だらけだが、骨折等はなく、命に別状は無さそうだ。
金蔵は安堵のあまり頬が緩みそうになるも、すぐに顔を引き締め北斗の頬を張る。
「この大馬鹿野郎!たかが斜面を下るのに命を投げ出すやつがどこにいる!」
頬を張られても顔色一つ変えず、北斗がぼそりと呟く。
「効率的かな、と」
「なんだと?」
「ああやって降りるのが一番早いと思いました」
「んな訳あるかっ!この大馬鹿野郎が!」
金蔵は怒りに任せ北斗を殴り付ける。対する北斗はよろけはしたものの、何とか踏みとどまりぺっ、と血が混じった唾を吐く。
殴打を喰らった直後にも関わらず、その瞳には何の色も浮かんでいない。
金蔵はそんな彼に何とも言えない気味悪さを覚えつつも、それを振り払うかの様に大声を上げる。
「そんなのを『効率』とは言わねぇんだ!ただの『自殺行為』ってんだよ!」
そう言って金蔵は北斗の頬を張る。唇の端にうっすらと浮かんだ血を、手の甲で拭う北斗に金蔵は続ける。
「自分を粗末にするんじゃねぇ! そんな屑に殺される獣の身にもなってみろ!」
金蔵のマタギらしい叱責が心に刺さったのか、心なししょげかえる北斗に、金蔵が続ける。
「お前の女房は何の為に死んだんだ! お前を生かす為だろう! そんなお前がその命を粗末にして女房は浮かばれるのかよ! ああ? 答えてみろこのクソガキが!」
そう言って再び北斗の頬を張る金蔵。
分かって欲しかった。勇気と無謀は違うと言う事を。
分かって欲しかった。自分の命が自分だけのものではない、と言う事を。
分かって欲しかった。お前が死んだら悲しむ人間がいるという事を。
「・・・・・・分かった。気を付ける」
嫌いなものを飲み込んだ時の様な表情で言う北斗に、金蔵が癇癪を破裂させる。
「気を付けるんじゃねぇ!反省するんだ!そして二度と繰り返すな!」
「分かりました。すみませんでした」
謝罪する北斗を前に、金蔵は彼を睨みながら四、五回程大きく呼吸をし、そして言った。
「上着を脱げ。上体を見せろ」
言われた通りにする北斗。
彼の引き締まった体が剥き出しになる。金蔵はそれを子細に点検し、怪我の程度を確かめる。
赤カガチが刻んだ傷が、嫌でも金蔵の視界に入る。
極力それに意識を向けない様にしつつ、北斗のコンディションチェックを済ませた金蔵が言った。
「軽い打ち身と切り傷のみか。よくぞこの程度でこの程度の怪我で済んだものだ。幸運だったが次はないぞ」
厳しい眼差しで釘を刺す金蔵に、北斗ははい、と返事をする。
金蔵はリュックサックから救命道具を取り出し、テキパキと慣れた手付きで、北斗の傷の手当てをしていく。そうして全てを終えた金蔵が、道具をしまいつつ言った。
「十分に休んだな。では行くぞ」
ぶっきらぼうに言って金蔵が立ち上がり、さっさと歩き始める。北斗が無言でそれに続いた。
「よし、今日はここで夜営するぞ」
金蔵の言葉に、北斗がその場でへたりこんだ。
全てを出し尽くして北斗に、汗や唾液の一滴すらも残っていない。喉の奥などとうの昔に砂漠化している。疲労困憊を通り越して眠気すらもおよしている北斗に、金蔵が言う。
「周りを見てみろ、北斗」
頭上から降ってきた声に従い、やっとの思いで蓋骨頭を上げた北斗、その眼前に広がる光景を見た触れた瞬間、彼は言葉を無くす。
まるで地球の脈動を現す様な、果てしなく連なる雄大な山脈が北斗の瞳をはしり抜ける。
それらを取り巻く、どこまでも続く雄大な緑の海。
夜の帳を背に、悠然と地平線の向こうへとその身を委ねる太陽。
まだあたりに微かに漂うオレンジ色の淡い光を、闇が静かに取り込んでいく。全てが渾然一体とであり、全てが理に適っている。
自然を通して感じる宇宙。
自然とは宇宙の一形態であり、自然の営みは宇宙の営みなのだ。
地球はいや、宇宙は生きているのだ!眼前に広がる大宇宙の片鱗を前にして、いつしか北斗は膝まずき、それを受け止めるかの如く両腕を掲げる。
「人間も自然の一部だ」
かって北斗が綾子に何気なく言った一言が、今実感となって彼の胃の腑に落ちる。
僕はこの雄大で美しい大宇宙の一部一欠片なんだ
!
これはなんと素晴らしい事だろうか!
眼前の光景を『美しい』などという安っぽい形容詞で片付けるのは、自然への冒涜の様な気がした。「・・・・・・大宇宙だ」
「なに?」
北斗の呟きに、金蔵が反応した。師の訝しげな視線を背に感じながら、北斗は続ける。
「・・・・・・ここには宇宙がある。自然とは宇宙の一形態だ」
「なるほど、そうかもしれんな」
一度景色を見渡して、金蔵が大きく頷く。一陣の風が二人の頬を優しく撫でた。北斗の後髪がそれに合わせて踊る。
自身の気付きと雄大な自然を前にして、ひたすら感動している北斗を尻目に、金蔵がなんとはなしに呟く。「地平線に沈み行く太陽は、なんでこんなに大きく見えるんだろうな」
「今から無くなるからだと思う」
「何だって?」
北斗の呟きに言葉に金蔵が素っ頓狂な声をあげた。それに構わず北斗が続ける。
「逃がした魚はでかいというあれですよ。これから失われる日の光、それを惜しむ心情が視界の認識にその様な作用をもたらすんだと思う」
「ふふ、面白い見解だな、さて」
笑いを喉の奥へとやり、金蔵が改まった声を出す。それに合わせる様に、北斗は杖を使いつつ、その場から立ち上がった。
「授業だ。俺はここで待っているから、お前は今晩俺達が夜営する場所を見付けてこい」
「ここじゃだめなんですか?」
北斗は軽く辺りを見渡しながら言った。そんな彼に、金蔵は首を降りながら答える。
「だめだ。ここは尾根だ。山の尾根の内側(沢と沢の間)には泊まってはいけない」
「何故ですか? 見晴らしが良くて安全では?」
北斗が辺りに目をやりながら言う。そんな未熟な若者の物言いを、金蔵が一言で粉砕する。
「獣もそう考えるだろうな?」
北斗はあっ!と言った表情を浮かべる。
そんな彼に金蔵は言った。
「こちらから来た尾根と、別の方から来た尾根の落ちあうところとい言うのは熊が渡って歩くから危険だ。こういう所でキャンプをしてはいけない」
「分かりました」
神妙に頷く北斗の肩を、金蔵がぽん、と叩いてから言う。
「さぁ早く見付けてこい。日が沈むまでもうそんなに間はないぞ」
北斗は慌てて尾根を駆けおりて行った。
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