第十四幕
お世話になっております。作者です。
えーと、私事で恐縮なのですが、私の第二作『本能寺の武田兵』が昨日の12月15日、遂に発売されました!
私は当日、丸善日本橋店に確認しに行きました。
いや、ありましたよ。しかも平置きで!
感動でしたね!一生に一度かもしらん。
色々大変だったけど、全て報われた様な気がした。
そんな拙作ですが、もしご興味がわかれましたら是非ともお手に取って下さいませ。
因みにこの作品をここでアップする気はございません。
理由はちょっと長すぎるからです。
大変申し訳ございませんが、ご理解頂けると幸いです。
では、本日も楽しんで行って下さいませ。
あと、私の二作目の発売を記念して、今日は少し長めにしました。
朝日が山の頂きを僅かにだが黄金色に染め上げ、山鳥が囀ずり始める。
まだ薄暗さが漂う空気の中、二人の男が小屋の前で向き合っている。北斗と金蔵だ。二人共、上体は三枚重ねの登山服、下はハイキングパンツとハイキングシューズという出で立ちだ。
「本題に入る前に、お前に言っておく事がある」
改まった口調で語る金蔵の前で、北斗が心持ち背筋を伸ばす。それを目の端で確認した金蔵は、やや忌々し気な口調で言う。
「俺には鬼が憑いている。俺が言っている事分かるよな」
北斗が金蔵から目を逸らす事なく、小さく頷く。
それでだ、そう言って金蔵は手にしているものを北斗に差し出す。そこには手錠と足かせ、そして猿轡があった。
「俺の中の鬼が暴れそうになったら、事前に言うからお前はこれで俺を拘束するんだ。発作が出ちまったら止める事はできないが、出がかりを押さえる事はなんとかできる」
そう言って、金蔵は北斗に拘束具の使い方を簡単に説明する。北斗は質問を挟む事なく、それを神妙に聞く。一通り説明を終えた金蔵は、拘束具を手の中でまとめながら続けた。
「危険な仕事だが、できるよな」
「やります」
北斗の端的な返答が気に入ったのか、金蔵が笑い声と共に相好を崩す。
「いい返事だ。だがやる時は俺を殺す気でやるんだぞ。発作中の俺はただの殺人鬼だ。人殺し相手に手加減などしていたら、命など幾つあっても足らん」
「はい」
「発作は大体三十分から長くとも一時間程度で収まる。俺が正気を取り戻すまで、決して拘束を解いてはならんぞ」
「分かりました」
表情を引き締め頷く北斗に、金蔵がさらっととんでもない事を言う。
「もし、手に負えない場合は俺を殺せ」
目の前に差し出された拘束具を前に、息を呑む北斗に、金蔵は言った。
「どうした?出来んのか?」
北斗は首を振り、小さいがはっきりとした声で言った。
「その時は直ぐに終わらせますから」
北斗はそう言って拘束具を受けとる。北斗の洒落た返しに、金蔵の口角が自然とあがる。
「よし。では本題に入ろう」
そう言って金蔵は、その両手を胸の前だこすり合わせた。
金蔵は、手にした二つの荷物と二本の長い杖を北斗の前に投げ出す。
それらは大きめのリュックサックだった。
色々入っていそうだが、びっちりと詰まってはいない。精々七分と言ったところだ。それらをじっと見る北斗に、金蔵は言った。
「開けて中身をここに広げろ」
北斗はリュックサックを開けて、中身を一つずつ地面の上に丁寧に並べていく。
ナイフ(刃渡り十二から十三センチ)、鉈(刃渡り二十から二十五センチ)、鋸(刃渡り三十センチ)。ロープ。ビニール(ニ畳分)とマッチ。マッチは水に落ちても濡れない様に、小さな袋に入れて縛ってある。あと大きな布袋が一つと小さな布袋が二つ、その隣に飯盒があった。
「これが猟師が山の中で使う道具だ。使い方は実地で教えていくが、一通り軽く教えておく。その前に」
そう言ってまず金蔵は飯盒を手にとって言った。
「お前これで米を炊けるか?」
金蔵からの問いかけに、北斗は黙って首を降る。
北斗が綾子から習った米の調理法は土鍋を使用するものだ。飯盒による調理法は習ってはいない。
「やれやれ、こんなところから始めねばならんのか」金蔵の言葉には、明らかな侮蔑の色が滲んでいたが、北斗は特に気にした風でもなく、涼しい顔で受け流している。
そんなに彼を前にして、金蔵は口の中で何やらブツブツ呟きつつ、三つの布袋の内、一番大きな布袋を取り上げて言った。
「まず米だ。猟の期間にもよるが、一週間から十日山に籠る場合に必要な米は大体五升(約九リットル)だ。布袋に入れておけば枕代わりにもなる。そして、次はこれだ」
そう言って金蔵は、小さな布袋の内の片方を取り上げて言った。
「何が入っているか分かるか」
「塩?味噌?」
自信無さげに応える北斗に、答える北斗に、金蔵は大きく頷いて言った。
「そうだ。これは味噌をサラダ油で炒めたものだ。茹でた切り干し大根かワカメを刻んで味噌と油で炒めて、それに油揚げを入れてよく練れば出来上がりだ。これに熱湯を入れて溶かせば温かい味噌汁になり、水に入れれば冷たい味噌汁になる」
金蔵の教えに、小さくだが力強く頷く北斗。
そんな彼を前にして、金蔵は一番小さな袋を取り上げて言う。
「察しの通りこれは塩だ。採った肉の味付けだけでなく、いざとなれば傷口の消毒にも使える。まぁ、食料はこんなもんだ。後の足りない分は現地調達をすればいい」
そして金蔵はナイフを手にして言った。
「これは肉を解体する時に使う。武器にもなるが、そういう状況になる前に終わらせろ。それが俺達マタギだ」
さり気なく矜持を口にする金蔵の威に打たれたのか、北斗がその身を小さく震わせる。
「返事はどうした!」
金蔵の厳しい言に、北斗が慌てて返事をする。
「す、すみません」
「俺に限らず、山の中では必ず返事をしろ。危険だらけの山の中で、命をつなぐのはチームワークだ。そして返事はチームワークの基本だ」
「気を付けます」
叱咤を受け、改めて背筋を伸ばす北斗に、金蔵は一瞬だけその目元を綻ばすも、すぐに表情を引き締め話を続ける。
「次にこの鉈だ。山では重宝する。邪魔な木を切ったり、薪を採ったり、穴に籠っている熊を見つけた時に、出口を止める杭を作る時にも使う」
「武器にもなる」
何気ない北斗の呟きに、金蔵がその目尻を険しくする。
「『刃物を抜く前に終わらせるのがマタギだ』と俺は言わなかったか?」
「・・・・・・すみません」
小さな声で己の失言を謝罪する北斗に、金蔵は言う。
「教えた事は一度で頭に叩き込め。山では二回も言える保証はないんだからな」
「すみません、肝に銘じます」
己の甘さを思い知り、悔しさのあまり唇を噛む北斗に、金蔵は続ける。
「次はロープだ。命綱という言葉通り、これ無しでは山は生き残れん。それくらい大事なもんだ」
全身を耳にする北斗の瞳に、金蔵の手の中にあるロープが映る。
「これの用途は多すぎてとても挙げきれないが、先程の絡みで言うと、熊の逃げ場を塞ぐ杭、それを結わえるのに使う。後はまぁ、おいおい教える」
そう言って金蔵は手にしたロープを丁寧に地面に置き、次の解説にうつる。
「次はにビニールシートだ。色々使いでがあるが、一番お世話になるのは獲物の解体時だ。これについての説明は要らんな、ってどうした?」
北斗が何やら言いたげな顔をしているので、金蔵が水を向ける。
「い、いえ、何でもないです」
「いいから言え。例え叱られても、それはそれでいい経験じゃないのか」
「・・・・・・分かりました」
そう言って軽く咳払いをした北斗は、思い切って疑念を口にする。
「これは寝床になりますか?」
またまた見当外れの北斗の物言いに、金蔵が小さなため息をつく。
「北斗」
「はい」
「後でもう一度言うが、山に入っている時は、人でありつつも人である事を捨てろ」
「仰る意味がよく分かりません」
首を傾げる北斗に、金蔵は厳かな声で言った。
「熊を追う時は熊になりきらなければならん。自分が熊なら、こんな所は通らない、自分が熊ならこんな逃げ方はしない。熊を師匠として、自分が熊になりきって考える癖を身に付けねばならん。ここまでは分かるか?」
理解はできるが実感がわかないのか、小さく首を捻る北斗。物分かりの悪い弟子に再びため息をもらし、金蔵は問いを重ねる。
「では聞くが、熊がビニールシートを敷いて寝るか?」
あっ!と北斗の表情から澱んだものが弾け飛ぶ。
「すみません、僕が間違っていました」
そう言って頭を下げる北斗を前にして、うむ、と一つ頷いて金蔵は言った。
「人間の道具を一切使わずに熊を狩る事は不可能だ。例えばライフル無しに熊に挑むのは自殺行為だろう? しかし」
金蔵は一旦言葉を切り、口に貯まった唾を飲み込み、再び続ける。
「自然にあるもので乗り越えられるならば、絶対に自然のものを使わねばならん。そうする事で熊に限らず獣の考えが読める様になり、それが猟に生きるのだ」「分かりました」
金蔵の言葉が心に刺さったのか、返事をする北斗の顔が心なしか明るい。
「よし、次だ」
そう言って金蔵はマッチを手に取り言った。
「火付け道具は必ずマッチにしろ。そして携帯の際には、水に落ちても濡れない様に袋で頑丈に縛れ」
「ライターでは駄目ですかだめですか?」
北斗の言葉に、金蔵が首を一振りして言った。
「駄目だ。ライターは確かに便利だが、風が強かったり寒かったりしたら点火しない。その点マッチは、どんな状況でも上手くやれば必ず点火する。面倒でも必ずマッチにしろ」
「分かりました」
「そして次にこれだ」
そう言って金蔵は、先程地面に転がせて置いた杖を手に取り、それを立たせる。杖の長さは二メートル以上で、その頂点はYの字になっている。
「見ての通り只の杖だ。だが、たかが杖と思うな。これがあるとないでは、山での行動に天と地ほどの差が出る」
「歩行の補助ですか?」
「そんなしょうもない理由ではない」
と北斗の言葉を苦笑いと共に軽く一蹴りし、金蔵は手にした杖に頼もし気な視線を送りながら言った。
「まず熊の穴を探すのにこれは必須だ。それだけではなく、雪原に刺してリュックをかけて休むとか鉄砲を撃つときに銃身をかけるとか、とにかく色々使える」
「命綱ならぬ命杖ですね」
北斗の口からこぼれた言葉に、金蔵が呵々大笑する。「その通りだ。杖は必ず携帯しろ。いつか必ずお前の命を救うだろう。命綱まらぬ命杖、まさにその通りだ」
「杖に使う木はなんでしょうか?」
「ナナカマドだ」
北斗の問いに金蔵が即答する。北斗が教えを脳に刻み込んだあたりで、金蔵は続ける。
「粘りと強さに関して言えば、この木の右に出るものはない。これ以外は駄目だ。杖は必ずナナカマドを使え」
「分かりました」
返事をする北斗に、金蔵が大きく頷いてから言う。
「後は包帯等の救命道具だが、これの説明はいらんだろう」
そう言って金蔵は説明の〆に入る。
「よし、事前説明はこれくらいにして、後は実地で教える。全てしまえ」
北斗が荷物を一つ一つ丁寧にリュックサックへと詰め、その入口を確りとしめる。
そしてそれを背負い、杖を手に金蔵の前に立つ。
そんな北斗の前で。金蔵は言った。
「これから山で生きる術をお前に教える。だがその前に言っておく事がある」
「はい」
「俺がこれから教える事は知識、体験としてお前の中に残るだろう。だが、それだけでは不十分だ。何故か分かるか」
「分かりません」
秒で返答する北斗の額を、金蔵がその拳で軽く小突いてから言った。
「すぐに投げ出すな。少しは自分の頭で考えろ」
斜め下に目をやり、北斗は考え込むも、やはり何も思い浮かばす白旗を上げる。
「分からないです」
やれやれ、と言った様子で首を降りつつ金蔵は答える。
「知識、体験はあくまでも知識、体験に過ぎないんだ。それらを得たところで、ただ物事の表面をなぞっているに過ぎない。要は血肉になっていないって事だ」
「・・・・・・」
話が見えなかったのか、表情を曇らせる北斗に金蔵が辛抱強く続ける。
「『分かる』と『出来る』は明らかに違う。点と点が結ばれる事で面になる様に、知識や体験はを理解、咀嚼して己の血肉にせねばならん。それが『出来る様になる』という事だ。分かるか?」
「はい」
金蔵のかみ砕いた物言いのおかげで理解が追い付いたのか、北斗がその表情を心持ち明るくする。
そんな彼に、金蔵が目尻を険しくして言う。
「その為には俺の尻にくっついて分かった気になっているだけでは駄目だ。今回の俺との山籠りは十日を予定しているが、これを終えたら今度はお前一人で行かねばならん。期間は一ヶ月だ。今回の修得が甘ければ、お前は死ぬ事になるぞ」
出来なければ死ね。
金蔵の苛烈な指導に、北斗がその身を小さく震わせる。そんな彼に金蔵は続ける。
「いいか、お前はこの十日間、一分一秒足りとも無駄には出来んぞ。生き残りたくば俺の言動だけではなく、俺のその一挙手一投足から、そして自然からも死に物狂いで学びとれ」
「はい!」
怯むどころか覇気を漲らせる北斗に気を良くした金蔵は、右手で弟子の左肩を強く叩く。
「よし、では出発!、といきたいところだが、その前に一つやる事がある」
そう言って金蔵は小屋の中に入り、燃え盛る松明を手に戻ってきた。
「持て。そして掲げろ」
言われた通りにする北斗。金蔵は北斗が掲げた松明に向かい、両手を差しのべ、朗々とした声で言った。「アペフチカムイ。これから山に入ります。私共に山の恵みをお与え下さい。邪霊からどうぞ我々をお守りください守って下さい」
そう言って金蔵はその場に跪き、祈りを捧げる。その後暫くしてから立ち上がり、北斗の手から松明を取り言った。
「見ていたな、お前も同じ様にしろ」
「これは儀式ですか?」
燃え盛る炎を一瞥し、言う北斗に金蔵が頷いてから言う。
「そうだ、儀式だ。アペフチカムイは火の神の事だ。神に豊猟と山中の安全をお願いするんだ」
頷いて金蔵と同じ様にする北斗。金蔵はそれを見て満足そうに頷き、松明を手に小屋へと戻る。火を戻しに行ったのだろう、と北斗は何となく推測した。
案の定、戻って来た金蔵の手に松明はなく、代わりに彼の手には大きな酒瓶がある。
今度は何が始まるのか、と目を丸くする北斗を前に、金蔵はその身を東の方に向けて、瓶の中身を地面へと吸わせてから言った。
「ヌプリコロカムイ。山に入らせて頂きます。宜しくお願い致します」
言葉の後、金蔵が無言で北斗に酒瓶を差し出す。師にならう北斗。儀式を終えた北斗に金蔵は言った。
「ヌプリコロカムイは山の神だ。山に入る時には必ず一言挨拶せねばならん。山に入るときは火の神と山の神への挨拶を忘れるな」
「はい」
「因みに序列は火の神の方が上だ。必ず火の神から挨拶をする様にな」
「はい」
頷く北斗に金蔵が言った。
「よし!、では出発だ」
老いを感じさせない足取りで、金蔵が山道を行く。
その背に続く北斗の姿は、金蔵の遥か後方にある。
十歩程、歩を進める二人。また少し、二人の間の距離が開く。先行く金蔵に離されまいと、北斗がふくらはぎに力を込め、両足の回転を速める。
ギアを上げた甲斐があったのか、二人の間の距離が少しだけ狭まるも、それ以上の差は縮まらない。
距離にして僅か七、八メートル。どうしても潰せないこの距離が、師と自分との差なのだ、と痛感する北斗。
少しでも気を抜くと直ぐに離される。灌木や熊笹が生い茂る、傾斜のきつい山道にも関わらず、金蔵の足取りは常に一定で、その一歩一歩にほんの僅かな乱れもない。
一方、金蔵を追う北斗の足取りは、しっかりと山肌を踏みしめていない為に、しょっちゅうバランスを崩しては、何とか踏みとどまる事の繰り返し。
北斗が伏せた顔の下で、乱れた呼吸を繰り返す。
熱い吐息と、足の下で合唱する耳障りな草ずれの音が、北斗の神経を苛立たせる。
『山道を行く時は音を立ててはいけない』
マタギにとっては基本中の基本である筈の心得だが、激しい疲労と金蔵に遅れまいとする焦りが、北斗の心から初心を奪い、彼をひ弱な都会人へと逆戻りさせていた。
行く手を塞ぐ、成人男性の腰くらいあるゼンマイを手で払った時、金蔵の声が降ってきた。
「北斗」
金蔵に名前を呼ばれた北斗が顔を上げ、焦点の合わない目を師の方へと向ける。たった七、八メートル先にいる師の姿に、果てしないものを感じる北斗。
そんな彼に対し、金蔵は木の枝が生い茂っている辺りを指差して言った。
「彼処に沢があるのが見えるか?」
「・・・・・・沢?」
そう言って、北斗が金蔵の指の先に目をやる。木々の隙間から、確かに山に挟まれた川らしきものが見えた。まるで疲労困憊の北斗を労る様に、金蔵はゆっくりとした口調で言う。
「山の中を歩く時はな、沢に沿う形で、沢を見ながら歩け。沢というのは方向の目印になる。沢の形を見ると山の出来が大体分かる」
荒い息の下で、何とか集中を維持して話を聞く北斗をを見て、金蔵は僅かにその口元を綻ばせる。
「疲れたか?」
北斗が黙って首を振る。弟子の痩せ我慢を前にして、金蔵やれやれ、といった風に苦笑いをする。
「疲れた時は素直に疲れたと言えばいいんだ。そんなところでやせ我慢せんでいい。頑張るところを間違えるな」
金蔵はそう言って懐からナイフを取り出し、近くにある木の前に立った。
何をする気なのか興味津々の様子の北斗の前で、金蔵は手にした刃を木の幹に当て、それをゆっくりと丁寧な手つきで上下に動かす。
次第に木の表面が擦れて、樹液が溢れ出てくる。
「こちらに来てこれを飲め」
喉がカラカラだった北斗は、それが何なのかを深く考えず、ただ言われた通りに木にしがみつき、まるでカブトムシの様にその樹液を貪った。
無味無臭のその液体が、北斗の干からびた口内と喉になんとも言えない潤いを与える。死んでいた舌が息を吹き返し、その身で樹液を転がし始める。
不純物の欠片もない、透き通った甘味が喉ごしを通りすぎる。渇きが癒えていく快感が快感を呼び、いつしか北斗は、無我夢中で木にむしゃぶりついていた。
だめだ、物足りない。もっと! もっと!
それから五分ほど、思い存分樹液を貪り、ようやく人心地ついた北斗に、金蔵が微笑みながら声をかけてきた。
「美味いだろ? それ」
「美味いです」
「それはサルナシの木だ。樹液にはビタミン、ミネラルが豊富に沢山含まれている。山の中で水がなければこれを飲め」
「はい」
木に感謝の眼差しを向ける北斗に、金蔵は続ける。
「それとこれだ」
そう言いながら金蔵は、一本の背の高い草の様なものを差し出してきた。
「これは?」
「トドマツの新芽だ。これの露には渇きと疲れをとる効果がある。慣れないうちはこれをかじりながら歩け」
北斗は金蔵からそれを受け取りさま、早速口に含む。噛み締めると、口の中に先程のサルナシの木の樹液とは違った風味の水分が溢れ、それが喉を通して北斗の全身にまた新たな潤いを与えていく。
夢中になって茎をしゃぶる北斗に、金蔵が言う。
「山歩きってのはな、まぁ、慣れない内は大変だが、そんなもんは一日か二日の辛抱だ。三日目あたりから嘘みたいにするするスルスルと登れる様になる」
金蔵の言葉が信じられないのか、どこか釈然としない表情で頷く北斗に、金蔵が言う。
「よし、では出発だ。今日中にあの山の頂きまで行くぞ」
金蔵の指差したのは隣の山だった。その頂きはゴールは遥か彼方。北斗の表情にへばりついていた憔悴が、一団と深くなった。
「よし、今からあの斜面を下るぞ」
金蔵が、今二人が歩いている獣道から少し外れたところにある斜面を指さして言った。因みに現在二人がいるところは、山の七号目辺りといったところだ。
「ここを?」
斜面の上から麓の方を下を見下ろす北斗。
彼の眼下には、四捨五入したら七十度位にはなってしまいそうな程の、斜面というか崖という表現が似合いそうな傾斜のきつい山肌が広がっていた。
そんな彼の隣に立った金蔵が、北斗と目線を合わせて言った。
「そうだ。山に入る前の言葉を覚えているか? 熊を追う時は熊になりきらねばならない。あそこを見ろ」
金蔵が傾斜の一点を指差した。それを追う北斗の視線の先で広がる、灌木と藪に覆われた山肌。
一見普通の山肌であり、異常など無さそうだが、よく見るとそのうちの一か所が大きく陥没している。
視線を鋭くして指し示された場所を観察する北斗に、金蔵が言う。
「熊の足跡だ。それ程形が崩れていないところを見るに、ここを通ったのは多分今朝くらいだろう。熊がこの斜面を降りていったんだ」
「・・・・・・」
北斗は無言で山肌を見下ろしている。
その瞳には何の色も浮かんでいないせいか、その内心は伺えない。彼の横で、手にしていた杖を点検しながら、金蔵が言う。
「熊がここを下ったという事は、マタギを目指すお前もここを下らねばならん。分かるな」
躊躇いなく頷く北斗に金蔵が続ける。
「怖いか?」
「いえ、別に」
「強がらんでいい」
そう言って金蔵は北斗の肩に手を置いた。
「怖いものを怖いと思うのは恥ではない。大事なのはそれをどう克服するかだ」
金蔵の言葉を聞いた北斗が、かけられた手を己の肩から丁寧な手つきで外す。
怪訝な表情を浮かべる金蔵を前にして、北斗がとんでもない行動に出る。
「山肌を転がり落ちるのは初めてじゃない」
そう言って杖を片手に、北斗が山肌へと踊り出す。
彼は僅か二、三歩でつんのめり、山肌を転がり落ちていく。
「北斗!」
山肌を転がり落ちていく彼の後を追うべく、血相を変え、山肌にその身を正対させる形で滑り降りる金蔵。
落ちていく北斗を見失わない様に、時々下に視線を向け、その姿を追い続ける。
彼の視界の中で、山肌を転がり落ちる北斗が、ところどころにある灌木や岩にぶつかりながら、結構なスピードで転がり落ちて行く。彼に意識があるのかどうか不明だ。
(どうか無事でいてくれ!)
金蔵は心中で北斗の無事を祈りつつ、杖を上手く使いながら、出来る限りの速さで山肌を下る。
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