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第三幕

彼女は台に横たわっている熊の下へと向かい、大きな包丁を手に熊にまたがった。そして包丁を持っていない方の手で熊の正中線を軽くなぞり、それに沿う形で切れ込みを入れていく。

それを終えると一旦熊と台から降りて、熊を横から見下ろすような位置に陣取る。そのまま正中線付近で浮いている皮を持ち、全力で身から剥がしていく。肌にへばりついているガムテープをひっぺ返した時に出る様な、少々神経に触る何とも言えない音がした。皮を剥ぎ取られるにつれ、徐々に獣から肉の塊へと化していく熊。新鮮な肉である事を証する鮮やかな赤い輝きの大半を、ドロドロした白い何かが覆っている。何かと思ってよく見てみると、それは熊の皮下脂肪だった。物凄い量だ。身だけではなく、皮の裏側にも大量に付着している。女の子は手慣れた様子で、熊の体から皮を剥ぎ取ると、それを手に部屋の中央へと向かう。そこには天井から吊り下げられているフック付きの鎖があり、彼女は手にしていた熊の毛皮をそこにひっかけた。そして彼女は部屋の隅から大きな金盥を持って来ると、吊るされている毛皮の下に置く。

「おい!」

いきなりの頭ごなし。

「は、はい!」

反発を覚えるより先に返事をしてしまう。まるで上官の前で命令を待つ二等兵の様に直立不動の僕に、彼女は右手の包丁を此方に差し出して言った。

「これで熊の脂をこそげ落とし、この盥に集めろ」

「ど、どうやってやればいいんだ」

僕の物言いを聞いた女の子の目が、苛立ちのあまり三角になる。短期な上に異常なまでのせっかちらしい。

「お前は赤子か! いい歳した大人がろくに試しもせずにいきなりやり方を聞いてきおってからに! 恥を知れ、この穀潰し!」

あまりの物言いに思わず僕も抗議する。

「最初にやり方を聞いて何が悪いんだよ! 試行錯誤なんかで時間を無駄にするより、やり方を聞いて一回で成功した方が合理的じゃないか!」

言い終えた途端、左の頬が爆ぜた。また無様に地に伏す僕。殴られたのだ、またしても。シートの上で虫けらの様に這いつくばり、痛みに呻いている僕に女の子の怒声が降ってくる。

「生きると言うのは困難や障害にぶつかった時、それを自分の力で乗り越えていく事だろう! 『我に七難八苦与え給え』 男ならこれ位言ってみろ!」

「・・・・・・」

知らず知らずのうちに唇を噛みしめていた。彼女の一喝が僕の心を屈辱で一杯にする。先程彼女の前で晒してしまった己の醜態は今、後悔と化して僕を打ちのめしている。そんな僕の足下に向けて、彼女が『何か』を放った。見ると包丁だ。刀身は完全に血と油で巻かれており、どの程度の切れ味が残っているかは甚だ疑問だ。

「合理的と言うのは無駄を省く事を言うんだ。楽をすると言う意味ではないぞ」

完全にノックアウトした相手にダメ押しのオーバーキルを浴びせ、自身の作業に戻る彼女。彼女の言葉が胃の腑へ転がり込んできた瞬間、胸の奥から熱い『何か』が湧きおこり、じめじめした屈辱や後悔を脇に追いやり始めた。せきたてられる様に、僕は目の前の包丁をガシリと掴む。ここまで言われて何もしなかったら男が廃る。いっちょ完璧な仕事をしてから見返してやろう、と思ったのだ。『熱くなるのは恥ずかしい』などという謎ルールに縛られ、斜に構えて生きてきた自分が今、熱くなってしまっている。そんな自分に戸惑いを覚えていない、と言えば噓になるが、とりあえず今は行動だ。

「内省なら布団の中でやればいい」

日本が誇る傑作ドラマ、『リーガル・ハイ』で、名優堺雅人が演じる敏腕弁護士、古美門研介先生の台詞を一部拝借しつつ、僕は皮の前に立つ。かって熊の一部だったもの。その裏側には白い油がべっとりと付着している。僕は包丁の刃を皮の裏側に当てて、それを静かに下へとスライドさせていく。包丁の動きに合わせて脂が下へ下へと流れていき、やがて金盥へとボトリと落ちる。何となく要領を掴んだ僕は、次々と皮から脂をこそげとっていく。時々刃が何かに引っ掛かるものの、構わず強引にスライドさせていく。半分程終わらせた辺りで後ろから声をかけられる。

「おい!」

振り返った途端、目から火花が散った。またまた彼女に殴り倒されたのだ。シートの上で呻く僕に、上から怒声が降ってくる。

「皮が刃でぼろぼろになっているではないか! もうこれは使い物にならん! 何故刃の方を使う? こういうのは背を使うのが常識だろう!」

彼女からの容赦のないダメ出しを浴びつつ、亀になって呻く僕。そんな僕の頭を蹴りつつ、彼女は僕を一言で片づけた。

「全く使えん! 話にならん」

そう言って熊の解体を進めるべく作業場へと戻る彼女。僕は痛む体を叱咤して起き上がり、彼女の背に向けて殴りかかった。侮辱されるのはともかく、頭を蹴られたのは許せなかったからだ。女の子は僕の拳を身をひねって回避しつつ、空振りにより体勢を崩している僕の手首と顎を取り、そのまま背負い投げの要領でシートの上へと叩きつける。無駄な動きなど一つもない、見事な投げだった。背中から全身へと激痛が広がっていく。横隔膜がせり上がり、呼吸が出来ない。地にあげられた魚の様に、シートの上で大口を開けてアプアプとやっていると、首筋に何やらひんやりとした感触を感じた。不吉な予感と共に目を開けると、女の子の顔が目前にあった。何かしらの花か植物だろうか? 微かに漂う香気の中、一瞬だけ気分が華やぐも、すぐに凍り付く僕。首筋でギラリと光る冷たい輝き。恐怖のあまり硬直する僕の耳元で、包丁の持ち主が声にドスを利かせる。

「戦うと言うのは命のやり取りをする事だ。自分の命を取られる覚悟もないものが人なぞ襲うなこのひょっこが」

そう言って彼女は、その刃を僕の首筋の外側にあてて。軽く引く。微かな痛みの後、うっすらと赤い線が一本、僕の首筋を走り抜ける。ひっ、悲鳴をあげてしまう僕に彼女は続けた。

「世間知らずの小わっぱの命なぞ取ってもしょうがない。だから今回はこれで勘弁してやるが次は無いぞ」

そう言って僕を解放し、再び作業に戻る彼女。そんな彼女に対し、僕に出来る事は、屈辱感に打ち震えながら、シートの上で無様に横たわるだけであった。


包丁の背を使い、皮から脂を落としていく。やがて金盥は熊の脂で一杯になった。作業を終え、相方の方を見る。彼女は熊の胴体から内蔵を取り出しているところだった。その手付きは慎重そのもの。内蔵を傷付けない為の配慮だろうが、どうも理由はそれだけではない様な気がする。彼女は首尾よく五臓六腑を取り出し、それらを側にある金盥に入れた。その後骨から肉を部位ごとに切り取っていく。肩、背中、胸、腹、足、そして高級珍味である掌や最も値が張る熊の胆(胆嚢)・・・・・・。台の下にある盥が熊の肉で一杯になった時、台の中央には白骨化した熊の死骸があった。女の子が盛大なため息と共に額の汗を拭う。その肢体は血と脂で鈍く光っている。

「終わったか?」

彼女が此方に顔を向けて言った。その表情には疲労が色濃くにじみ出ている。

「あ、ああ。全部取れたと思う」

彼女が僕の足下にある金盥をチラリと見て、特に何も言わず足下の盥を担ぎ上げた。包丁を片手に、それをぼさっと突っ立って見ている僕。そんな僕に彼女が声をかけてきた。

「おい!」

「何だよ」

「運ぶぞ。手伝え」

そう言って奥にある小さな小屋を指差し、自ら肉満載の盥を軽々と担ぎ上げ小屋へと向かう。やむ終えず渋々従う僕。肉弾戦では敵わないのだ。空手かボクシングでもやっときゃよかった。

えっちらおっちらと、熊肉で満載の盥を奥の小さな小屋へと運び込む。中は幅90㎝、奥行き60㎝、高さ180㎝(基礎を含めて210㎝)およそ1㎡の空間で、足下は一段下がっており、そこに七輪が置いてある。その上には木と網で出来たラックが組んであり、天井からは肉の塊が幾つもぶら下がっている。桜の木だろうか、小屋の中は香ばしい匂いで一杯だった。

(燻製小屋だ。初めて見る)

初めて文明に触れた未開人の様に小屋の中を見回している僕をよそに、彼女はラックの上に手際よく肉を並べて行く。我に返り、慌てて彼女を手伝うも、手際の悪さから彼女の仕事を増やしただけであった。燻製小屋に火を入れ、一息つく彼女。その満足げな表情に、己の力で生きている者の矜持を感じ取り、思わず羨んでしまう。

「おい!」

「な、何だよ」

「お前が取った脂は、あの壺の中に移しておけ。明日それを煮しめて熊油を取る」

そう言って彼女は部屋の隅にある大きな青い壺を指差した。逆らって殴られるのが嫌だったので、僕は無言で従った。僕が作業に携わっている間、女性はシートの上に直接座り、解体に使った全ての刃を研ぎ石で研ぎ始めた。彼女が座っている場所から少し離れた所に、肉とモツが入った小さな盥がある。作業を終えた僕に、彼女は仕事の手を止めて言った。

「ざっとすんだな。よし、あの肉とモツは今晩の飯だ。母屋の方の水場に運んでおけ。私は少し水を浴びてからいく」

そう言って彼女は、手入れした刃と研ぎ石をしまい、壁にかけてある手拭いを片手に外へと向かう。僕は慌てて彼女を呼び止め、今更ながら基本的な事を確認する。

「待ってよ」

「なんだ?」

彼女が振り返る。やや声に苛立ちが混じっているのは、きっと早く水浴びをして、身を綺麗にしたいからであろう。

「僕は北斗だ。見神北斗。北斗でいい。君の名前を教えてよ」

「そんなもんはない」

想定外の返答に戸惑っている僕に女の子は言った。

「ここでの生活に名前なぞ不要だ。獣に自己紹介をする奴がおるのか?」

「僕は獣じゃないよ。歴とした人間だ。そしてこうして人間である僕と話している以上、君も人間だ。人間には名前が必要だ」

僕の返答が気に入ったのか、女の子は軽く顎を撫でながら言った。

「成程。確かにお前の言う事にも一理ある。ならアヤコとでも呼べ。爺さんは私をそう呼んでいた」

そう言い残して外に出た。この土砂降りの中、どこで体を洗うのだろうか。僕は肉とモツ入りの盥を持ち、作業場を出た。



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