第二幕
それから一、二分程で彼女は祈りを終え、立ち上がる。そしておもむろに僕に手を差し出して来た。その行為の意味が分からず、ただ狼狽えるだけの僕に彼女が苛立ちを含んだ声で言った。
「よこせ」
水晶で出来た鈴の歌声の様な妙なる響きに心奪われドギマギしている僕に、女性は癇癪を爆発させた。
「包丁! 早く! 持ってきたんだろう!」
その声と共に僕は自分の仕事を思い出す。思わず手元を見るも、当然あるべき物がない。慌てて辺りを見渡すと、少し離れた地面の上で袋そっちのけで散乱している。僕は慌ててそれらを広い集め、袋に戻し彼女に渡した。彼女はそれを僕からひったくる様に奪い取ると、その中から大きな肉切包丁を取り出し、包装を剥がし始めた。
(まさかここで解体するのかな)
じっと見ている僕をよそに、彼女は抜き身となった刃を子細に点検し、やがてそれを自らの左腕に当て、鋭く走らせる。彼女の左腕に浮かぶ赤い一本の線。
「あ、危ない」
思わず叫ぶ僕など構う事なくなく、刃を見て軽く頷く彼女。その後おもむろに熊に跨り、その鳩尾辺りに包丁の切っ先を当て、そこに全体重をかける。刃が鈍い音と共に、熊の中へと沈み込んでゆく。それを四、五回程繰り返す事で、彼女は熊の胸に大きな穴をあける。よっぽどの重労働だったのだろう、彼女の額には熱い雫が幾つも浮かんでいた。
(次は何をするんだろう?)
都会ではまずお目にかかれない光景を前に興味津々の僕の前で、彼女はその両手を穴の中に突っ込みなんかしらの作業を行い始めた。ぐちょぐちょと血と肉、そして脂肪が混じり合う様な耳障りな音。彼女の手の動きから推測するに、どうも熊の肉体から何かを引っ張り出そうとしている様な感じだ。それから数拍の後、彼女は熊の体内から『何か』を両手で引きずり出した。赤く染まったその手が持つもの、それは熊の心臓だった。彼女は再び包丁を手にし、心臓にまだ残っている数本の血管を一本一本丁寧に切り離す事で、それを胴体から完全に切り離す。彼女はそれを軽く天に捧げ、その後地に置き、刃で十字の切れ込みを入れた後再び祈りを捧げる。今度は何に祈っているのだろうか? 彼女の美しい横顔を見ている内に、自分が先程何故殴られたのか、何となく分かった様な気がした。自分は先程、熊の下敷きから脱出する時熊を足蹴にした。野生の動物に感謝と尊敬の気持ちを持つ彼女からしたら、僕の行為は絶対に許せないものだったのだろう。僕の中で彼女への反発が薄らいでいく。それに反比例するかのように湧いてきたのは彼女への興味。名前はなんていうのだろう? こんな山の中で何故暮らしているのか? 一人で暮らしているのか、それとも誰かと暮らしているのか、それは男なのか女なのか・・・・・・祈りを終えた彼女は、包丁を手に再び熊に跨り、真剣な目付きで熊の正中線を指でなぞっている。方針が定まったのか、彼女が包丁の切っ先を熊の眉間に当てた時、ポツリと何かが僕の頬を打った。雨だ。空を見上げると、いつのまにか空は湿った雲でどんよりと淀んでいる。山の天気は変わりやすいというが、当にその通りだ。もう暫くすると多分土砂降りになる。どうしよう、傘を持っていない、と途方にくれている僕をよそに、女性はひらりと熊から降り、手荷物からスリング(ループになった登山用ベルト)を二本取り出した。一体何をする気だろう、とただ見ているだけの僕の前で、彼女は二本スリングの内の一本を八の字状にクロスさせ、襷の様に両肩にかける。もう一本で熊の両前足をしっかりと束ねる。そしてそれら二本のスリングを彼女が繋ぎ合わせたところで、ようやく僕は彼女の意図を悟る。
(引きずって行く気か?! この巨体を?)
唖然としている僕の前で、山岳用のストックを二本手にした彼女が声をかけてきた。
「おい、お前! このカムイを運ぶから手伝え」
カムイとは熊の事らしい。また一つ知識が増えた、と場違いな事を考えつつ、僕は声を張り上げる。
「は、運ぶって、無理だろこんなでっかいもん!」
血相を変えて抗議する僕を、鼻で笑い飛ばす彼女。
「こんなのがでっかいとな。私はこれより大きなカムイを何度も運んでおる」
あんたサイヤ人か?
面食らってる僕をよそに、どんどんと話を進めてしまう彼女。どうやら僕に拒否権はないらしい。
「私が引きずるからお前は後ろから押せ。心配するな、私の住まいはここからそう遠くはない」
「わ、分かった」
結局手伝わされる事になってしまった。理屈と言うより気合で負けた感じだ。癪だがやむおえない。箸より重いものを持った事がない都会人が、山の中で銃を手にした猟師に膝を屈しても恥とは言えない筈だ。
いつの間にか雨が降り始めており、女性と僕は半ばずぶ濡れだ。大雨の中の重たい荷物運び。心底うんざりしている僕の心情を、嫌そうな表情から読み取ったらしく、彼女が力づけるように言った。
「そんな顔するでない。このカムイは私とお前の二人でとった事にしてやる。どうだ、悪い話ではなかろう」
何が悪くないのか、その時の僕にはさっぱり分からなかった。それから小一時間、僕は散々どやされながら、女性と共に熊を運んだ。重たい荷物を抱えての登山、もはや苦行に近い。雨で足元がぬかるんでいるなら猶更だ。何度も転び、その度彼女に罵倒された。悲鳴を上げっぱなしの足腰、しびれてもう感覚のない指先、冷え切った体とは正反対の灼熱化した肺。もう限界だ、これ以上歩くなら撃たれた方がマシだ、と熊の足を投げ出そうとしたその時、女性の声がした。
「着いたぞ。早速あちらの作業場に運びこんで解体を行う」
大雨で霞む視界の中、女性の肩越しに住まいらしきものが見える。ログハウスの様な大きめの木造の小屋で、少し離れたところに小さな小屋が並んで建っている。多分作業所というのはこちらのちっこい方だろう。ここが彼女の住処らしい。息も絶え絶え、返事をする余裕もない僕は無言で頷いただけだった。
最後の力を振り絞り、僕は女性と共に熊を小屋の内部へと運び入れた。内部は畳十畳くらいのスペースで床に青いビニールシートが敷いてあり、そこには至る所に赤いシミが見える。部屋の壁には大ナタやのこぎりやスコップと、他にも何に使うのか全く分からない機材が立てかけられている。天井から一本鎖が吊るされており、先端には大きなフックがかかっている。部屋の奥には扇状にカットされた薪と炭が山と積んであり、その隣には移動式の作業台がある。クェンティ・タランティーノ監督のサイコスラッシャー映画『ホステル』に出てきた拷問部屋を彷彿させるものがあり、僕は何だか落ち着かない気分になる。
「とりあえず降ろせ」
彼女が言った。僕は痺れた腕でゆっくりと熊の足を降ろす。ドン、と放り投げたら殴られることは分かっていたからそこは慎重に対応する。
「あーーーーーーっ!」
雄叫びをあげながらその場でひっくり返る。
投げ出された手足の感覚はなく、目を閉じると自分がダルマにでもなったような気分になる。大きく深呼吸を繰り返していく内に、肺が落ち着きを取り戻し、それに伴って手足の感覚が戻ってくる。再び動き始めた五感が辺りの状況を捉え始める。彼女が部屋の隅にあった作業台を部屋の中央へと移し、声をかけてきた。
「もう十分休んだろう。手伝え」
そう言ってまた熊の両腕を掴む。作業台に乗せるつもりだ。
「これ以上腕を酷使したら腕がもげる」
僕は大の字になって抵抗の構えを見せる。
彼女は部屋の隅に立てかけたあった猟銃を手に取り、その銃口を僕の腹に向けて言った。
「腹に鉛弾をブチ込まれるとどうなるか知っているか? 想像を絶する激痛の中、血と糞尿をまき散らしながら苦しんで苦しんで苦しみ抜いて死ぬ。時間にして三十分程だが」
「はいはい分かりました」
僕は渋々熊の両足を掴み、彼女と一緒に時間をかけて作業台の上に乗せる。
「よし」
彼女は満足そうに頷き、銃を手に小屋から出て行ってしまった。
「何なんだよアイツ。ちょっと可愛いからって調子に乗りやがって」
子供みたいな悪態をつきつつ、僕は着ていたTシャツを脱ぎ、その場で絞る。ボタボタと水が流れ落ち、シートの上で跳ねた。まだ水気の残るそれをタオル代わりにして、頭と体を拭う。湿っているのであまり意味はないが、何もしないよりかはマシだろう。ズボンはどうしよう? ここでやってもいいけど、多分あの女性は戻ってくる。女性の前でパンツ一丁になるのは少し抵抗がある。場所を変えて絞るか、と僕も小屋を出ようと足を動かしかけた時、再び小屋の扉が開いた。女性が戻ってきたようだ。振り返った僕の目が驚きのあまり大きく見開かれる。彼女はふんどし一丁の姿だった。唖然としている僕を前にして、女性はどこ吹く風で壁に立てかけてあるのこぎりやら鉈を手にしている。
「ちょちょちょちょちょ、ちょっと、ちょっと!」
動揺のあまりうまく言葉が出てこない。情けない事に僕は、母親以外の異性の体を見た事がない。
「なんだ? 何をそんなに騒いでおる」
女性が此方に体を向けた。まるで取れたてのミルクのような白い肌、たわわに実ったおわん型の乳房、命を育む存在に相応しい豊かな腰つき、そしてふんどしの間からはみ出ている黒い繁み・・・・・・。惜しげもなくその裸身を晒してくる女性を前にして、僕は慌てて彼女に背を向け言った。
「ふ、服を着ようよ! いくら何でもその姿はまずいだろ」
「戯け! こんな蒸し暑いのに服なぞ着れるか。それに今からカムイをお迎えするんだ。全身血まみれになる作業をやるのに服を着ながらやる馬鹿がどこにおる」
お迎えと言うのは解体の事らしい。頭の片隅でそんなことを考えつつ、僕は自分が今まで培ってきた常識を主張し続ける。
「さ、さっきまで服を着ていただろう」
「山の中は害虫もいるし蛭も出る。転倒の可能性もある。そんな中で皮膚を保護するには服を着るのが一番だから服を着ていたんだ。ここではそんな危険はない」
女性の言葉には微塵の揺らぎもない。妙な風格すら感じられる。どうやら僕と常識が違うらしい。それを悟った僕は別の角度から切り込む。
「ぼ、僕はこう見えても男なんだよ!」
「見れば分かる。それが何だと言うのだ? それにしてもお前は先から何をそんなに狼狽えているのだ?」
女性の声には疑問符がふんだんに含まれている。間違いなく本気で僕の振る舞いを不思議がっているのだ。
「お、女の人はむやみに人前で裸にならないものなんだよ」
「何故だ?」
「えっ」
「女性が何故人前で裸になってはいけないんだ? 野生の雌で服なぞ着ているヤツは一匹もおらん。何故人間だけがいけないんだ?」
そう言われてみると何故なんだろう、人間は何故服を着て過ごすんだ? 毛皮が無いから冬は仕方がないとして、真夏の真っ盛りでは裸で過ごしても問題ないんじゃないか? 例えば国民全員が裸で過ごすなら恥ずかしいなんてことはなくなるだろう。正しいような気もするし間違っているような気もする。結局自分の中で生じた戸惑いの中で、筋道だった理屈を構築できずに一般論に終始してしまう。
「に、人間は獣じゃない。恥じらいとか慎みとか獣には無い感情を持つ生き物なんだ。これらの感情が働いた結果、人間は服を着るようになるんだ。人が人である事、洋服はその象徴なんだよ」
ふん、と僕の言葉を鼻で笑って彼女は言った。
「服を着ていない人間は人間ではないのか?」
「揚げ足を取らないでくれ! とにかく今すぐ服を着るんだ」
「断る。私がなんでお前ごときの指図を受けねばならんのだ」
僕の言葉をピシャリとはねのけて、のこぎりと鉈を手に作業台へと向かう彼女。無様に突っ立っている僕に女性は追い打ちをかけるように言った。
「自分が人間なのか獣なのか、そんなことは私にとってはどうでもいい。獣なら獣で構わんよ。人として生きるのも獣として生きるのも大して違いはない」
反論できなかった。理屈ではなく彼女の言葉に含まれる揺ぎ無さに圧倒されたためだ。この女性は自らの人生、即ち歩んできた道のりに寸毫の迷いもない。二十数年も生きて、未だに地に足をつけられない僕が説得できる類の人間ではないのだ。彼女の目から見たら、僕なぞヨチヨチ歩きの赤ん坊と変わらないだろう。