第三幕
「神宝先生や鹿島先生、そして看護師の皆様にしっかりとお礼を言いなさい。皆お前の為に大変な苦労をしたんだぞ」
気の利かない息子に、健斗が苛立たし気な声を出した。
「いやいやお父さん、それには及びません。彼は本当によく頑張ってくれました。立派な息子さんです。褒めてあげてください」
そう言って神宝は北斗の正面に立ち、その肩に手を置いて言った。
「退院おめでとう。本当によく頑張ったね。君はもう大丈夫。ここでの頑張りを忘れず、これからも強く生きて行って欲しい」
ぼんやりとしたまま北斗が微かに頷く。
「北斗君、おめでとう。はい、これ皆から」
看護師が北斗の前に進み出て、手にしていた花束を差し出す。瞳を彩る、刈り取られた華やかな自然の一部を、何故か忌々し気な目付きで見るだけの北斗。
「おい、北斗! どうした! 早く受け取りなさい。皆様に失礼だろう!」
差し出した花束を手に戸惑う看護師を見かねた健斗が、北斗を叱りつける。周りにいる患者やその家族の視線が集まる中、それでも動かない北斗。このやり取りに何の意味があるのか、まるでそう言わんばかりに、相変わらずの忌々し気な目付きで差し出された花束を見続ける北斗。
「おい!」
声を荒げる健斗を、慌てて宥める看護師。
「寝起きでまだぼんやりしているのよね。お母様、お願いできますか」
「はいはい、本当にすみません。あんた、北斗はまだ病み上がりなのよ! 無理もないでしょう!」
由紀が健斗をどやしつける。憮然とした表情で健斗が口を閉じる。
「先生、本当にお世話になりました。ありがとうございます」
改めて神宝に頭を下げる由紀。隣で健斗がそれにならう。神宝は鷹揚に頷いたあと、鹿島に言った。
「これからは鹿島先生がメインですね。頑張ってください。私も出来る限りフォローはします」
「ありがとうございます。心強いです。ではそろそろ」
鹿島は神宝と看護師にいとまを告げる。大きく頷く看護師の横で、神宝は言った。
「そうですね。北斗君、二、三日はお父さん、お母さんとのんびりしなさい。それからゆっくりと一歩ずつやっていこう」
北斗が神宝に気のない頷きを返した。
まるっきり熱のこもっていない目で。
「先生、息子の就職先は大丈夫なのでしょうか」
タクシーの後部座席に座る由紀が、助手席に座る鹿島に声をかけた。
「絶対に大丈夫とは言えません。こればっかりと相手がある事ですから」
「ですよね、やはり厳しいですよね」
がっかりする由紀を元気付けるかの様に、鹿島は努めて明るい声を出した。
「ですが過度に悲観的になる必要もありません。今は社会の障碍者への理解も進み、それに合わせる様に社会資源も充実し始めました。障碍者を受け入れる企業も少しずつですが増えています」
「そうですか。良かったね、北斗」
由紀が再び表情を明るくして北斗に話しかける。彼は返事をせず、ただぼんやりと窓の外を眺めている。
「先生、こんな調子でも本当に大丈夫でしょうか?」
息子の様子に苛立った健斗が、たまらず鹿島に言う。
「北斗君はあの状態からここまで立ち直った強い人です。きっとどんな困難も乗り越えます」
難しい問いかけに対し、鹿島が無難な返答を返す。
「一緒にやっていこうね。お母さんも頑張るから」
由紀からの心のこもった声掛けにも返事をする事なく、北斗は相変わらずぼんやりと車窓を眺めている。
「北斗、ほら花よ。綺麗ね」
少しでも息子の注意を引きたいのか、由紀が花束を北斗に見せた。それを見た瞬間、北斗の目がカッと開く。突然だった。北斗が母親の手から花束を奪い取り、それを車の窓から外に投げ捨てたのだ。
「何するの!」
あんまりな息子の振る舞いに、由紀が悲鳴をあげた。
「こんなのは、花じゃない」
動揺する両親および鹿島の前で、ボソリと北斗が呟いた。
「えっ?」
目を白黒させている両親を前に、北斗は言った。
「僕が山で綾子と見ていた花は、こんなんじゃなかった」
「見神君、ちょっと」
オフィスの一番奥に座っている男が、その席から北斗を呼ぶ。会計ソフトの入力を止め、返事をする事なく男の元へと向かう北斗。机の前に立った彼に、男が盛大な一睨みを叩きつける。
「何か御用でしょうか、所長」
目の前の男からの威圧なぞどこ吹く風で、北斗が無愛想に言う。そんな彼を前に、所長と呼ばれた男がわざとらしい盛大なため息をつき、口を開く。
「俺が呼んだらまず返事をしろ」
「・・・・・・はい」
「ちょっと外で話そう」
そう言って所長は出口へと向かう。その時女子職員の一人が所長に声をかけた。
「山下先生、お電話です」
「後にしろ」
山下と呼ばれた男が、ドアの取っ手に手をかけつつ言った。
「○○税務署の大内さんからですけど」
行きの三倍のスピードで席へと戻る山下。
「もしもし! 税理士の山下でございます! お世話になっております。はい、はい、へ? 今から、でございますか? あ、はい!」
電話を片手に受話器に向かって平身低頭する山下を置いて、北斗が先に廊下に出る。ドアの外で山下を待っていると、トイレ帰りらしい女子二人組が向こうから歩いてくる。北斗が勤める税理士事務所と同じフロアにある、弁護士事務所に勤めるOL達だ。片方は派手かつケバい感じの女性で、もう片方は地味な装いだ。地味な方がケバい方に話しかけた。
「都築さんは正月は実家?」
「旦那のね。私の実家に行くのは二日かな」
「自分の方はともかく、旦那の実家は気が重いよね。気を使うし家事の手伝いとか色々やんなきゃいけないし」
「そうでもないよ。私なんにもしないし」
都築と呼ばれた女性の返答に、思わず驚きの声を上げる地味な女性。
「えっ!? 姑の手伝いとかしないの」
ふん、と同僚の物言いを、都築が鼻で笑い飛ばす。
「するわけないじゃん、磯部ちゃん。座っているだけ。一度でも手伝ったら、今後ずっとやり続ける事になるでしょ。旦那の実家では何もしない。基本よ基本」
「舅とか姑キレてない?」
磯部と呼ばれた女性が、おずおずと聞く。
「影であたしの事ボロクソ言っているらしいけど気にしない。あたしだってあいつら大っ嫌いだし。そもそも何であたしがあいつらの餌をこさえてやんなきゃいけないわけ? 動いたら損よ損。ここは我慢のしどころよ」
都築の口調は清々しい程ふてぶてしい。自分は正しい、と心の底から思っているのであろう。
「申し訳ない気持ちにはならないの?」
そんな彼女に、磯部がやや非難がましい声で言う。かけられた言葉を、またまた鼻で笑い飛ばす都築。
「なんで? 十五も年上のおじんに嫁いでやった上に跡継ぎまで産んでやったのよ。もう十分仕事はしたのに何でこの上家事までやってやらなきゃいけないわけ?」
「やってやる、やらないの問題じゃなくない? 家族ってさ、皆で助け合うものじゃないかな?」
磯部の言い分はもっともなものであったが、それを受け入れるだけの器が都築には備わっていない様だった。
「そういう問題よ。舅と姑からどれだけ距離を取れるか、嫁ぎ先で如何に楽をするか、ここで結婚生活の質が決まると言っても過言ではないわ。磯部ちゃんももう少し賢く立ち回った方がいいよ」
会話にいそしむ二人組が北斗の前を通りすぎる。すれ違いざま気味悪げに北斗を一瞥していく二人。十分離れた辺りで二人はコソコソ話を始めた。
「アイツでしょ? 精神病院から来たキチガイ」
「見るからにキモいよね。目付きとか危なくない?」
「山下先生死ぬほど嫌がったらしいわよ、あいつ雇うの。たまにうちにも来るあの鹿島とかいう生意気そうな女、あの女に半ば脅される形で仕方なく雇ったらしいわよ」
心底北斗が嫌いなのか、まるで汚物でも見た様な顔で都築がまくしたてる。
「そうなんだ」
相槌を打つ磯部の表情にも、都築程ではないものの、ネガティブなものが浮かんでいる。そんな同僚の表情に勢いを得たのか、都築が更にまくしたてる。
「山下事務所のメンバー達もあいつを本気で気味悪がっているらしいわよ。同じ部屋の空気も吸いたくない、って。佐藤さんとか高山さんとかは本気で転職考えているらしいわよ」
女共の陰口を聞き流しながら、北斗は窓の外を見る。箱と人の世界。時々申し訳程度に緑が見えるがとても自然とは言い難い。かりそめだらけの虚構の世界。ネット上の電子の世界と何が違うのだろう? 、と北斗はぼんやりと思う。
「都会は人の住むところではない」
綾子の言葉が北斗の脳内をよぎっては消えていく。
「見神君」
後ろからいきなり呼びかけられた。振り向くと、山下が事務所から顔だけ出して北斗を見ている。
「急用が入ったから話はキャンセルだ。今日はもうあがっていいよ」
山下の言葉にまたしても頷くだけの北斗。そんな愛想の欠片もない彼の反応に、遂に山下の堪忍袋の緒が切れる。
「お前さぁ!」
オフィスから飛び出てきた山下が、北斗の前で仁王立ちになる。
「お前さぁ、もうちょっとちゃんとしたコミュニケーション出来ないの?! 何かロボットと話しているみたいで気味悪いんだよ!」




