第二十三幕 第一部 完
ノリと酔狂に任せ、筆の赴くまま即興で書いている小説なのですが、まさか第一部終了までこぎつけられるとは・・・・・・。読んで下さる皆様のおかげです。本当にありがとうございました。
第二部も頑張ります。
お知らせ
今年の十月に本を出版します。私の第二作目です。お手に取って頂けると幸いです。
軋む空間の中で、空気の流れが止まった。
少し先に何かが立っている。いや、聳えている。『これ』が何なのか分からない。見えているけど認識できない。恐怖のあまり、脳が現状の認識を拒否している。脳内で危険を知らせるサイレンが鳴り始める。そのけたたましい音が、否が応でも僕を冷たい現実へと引き戻す。
目の前の『これ』をなんと表現すればいいのだろう。見た目は熊である。だが只の熊という表現は、『これ』にはなじまない。ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンや百メートル走金メダリストを只の人とは言わない様に、『これ』を熊と呼ぶのは不正確だ。目線の先にいる『これ』は明らかに熊の範疇を超越している。人を超えた者を『超人』と言うならば、この獣はさしずめ『超熊』だ。
四メートルは優に越えている背丈、四百キロの巨躯がまき散らす粘っこい重量感四百キロの巨躯がまき散らす粘っこい重量感、四百キロはありそうな(整合性)四百キロあるか想像できないくらいの、その巨躯から推し量れる重量感。大木の幹くらいある腕と足、その先端で生える日本刀の様な爪が、今まで引き裂いてきた獲物の血と脂を糧に不気味に光る。その巨大な口にすらも収まりきらない、まるでサーベルタイガーの様な巨大な数十本の牙。そして前半身を彩る赤い体毛。そして憎悪と殺意、そして破壊衝動が凝縮されたで彩られた、血よりも赤いその二つの目。が凝縮された、血に飢えた瞳の無い赤い目が僕を捉えて離さない。
(これが・・・・・・赤カガチ。いつの間に、気配なんかしなかったのに)
赤カガチの体毛が水で濡れている。それで僕は全て得心がいった。
(そうか、コイツ川の中に潜んでいたんだ。僕達に気取られないように)
水の中に潜んでいるものの気配を捉える事は、熟練の猟師でも難しい。
(それ以上に怖いのは)
額の汗が鼻を一撫でして足下に落ちる。
(ここで待ち伏せしていたと言うことは、僕達が船で脱出することを読んでいたのか?!)
「グゥウォォォォォォォォォォォォォォォォォ」
仁王立ちの赤カガチが僕を威嚇する様に咆哮を上げた。獣の雄叫びはまるで質量を持つかのように、ビリビリと僕の肌を打ち、そして僕の心を握り潰した。ストン、と僕の意思に反して腰が勝手に落ちる。下腹部は既に水浸しで体は岩の様に固まってしまっている。完全な気死だ。そんな僕に向けて、赤カガチは涎をたらしながらのっしのっしと全く警戒せずに近づいてくる。迫りくる危険を前に、まるで熱に浮かされたかの様に頭がボーツとして何も考えられない。心のどこかで抵抗しなければ、と思いつつ体はピクリともしない。赤カガチが僕をその間合いに捉える。牙と牙の間から、涎がボトリと落ちた。ああ、今から僕はコイツに生きたまま貪り喰われるんだな、とどこか遠いところでぼんやりと認識する。その時だった。『何か』が近くにある大岩を踏み台にして、赤カガチの背後からその右肩に飛びついた。視界を走る白銀の煌めきが、僕の意識を現実へと引き戻す。
「ギィヤオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!」
怒りと苦痛の雄叫びをあげる赤カガチ。身に取り付いている『何か』を振りほどこうと、全力でその身をよじっている。それを目にした時、恐怖で蕩けていた僕の目が大きく見開かれる。
「綾子!」
綾子が赤カガチの右肩に喰らいついていた。手にしていた山刀を鬼袈裟の首筋に深く突き入れている。ずっと水の中にいたせいだろう。赤カガチの毛皮は、濡れて柔らかくなっており、その驚異的な硬度は、山刀が通る程度には和らいでいた。
「逃げろ! 今のうちにボートに乗れ! 早く!」
綾子が叫ぶ。綾子!何故ライフルを使わないんだ?!まさか壊れたのか? 僕はライフルを求めて素早く辺りに目をやるも、見当たらない。どうやらふっ飛ばされた衝撃で失くしたらしい。
山刀一本でこの化け物と取っ組み合うなんて自殺行為だ。立たなきゃ、綾子を助けなきゃ、と思いつつも体が動かない。命懸けで戦う綾子を前に、呆けた様に尻もちをついているだけの僕。
「さっさと立たんかこの馬鹿!」
綾子が拳銃を抜き、赤カガチの動きが止まったその一瞬を利用して、こちらに数発発砲してきた。銃弾が僕の周りの石を弾く。その耳障りなかん高い音が、僕を金縛りから自由にした。反射的に立ち上がった僕は、なけなしの勇気を奮い起こすため、大声で絶叫しながら手槍を拾った。
「今助けるぞ! 綾子!」
「馬鹿! さっさと逃げろと言っているだろう!」
熊の肩の上で山刀にしがみつき、必死に叫ぶ綾子。その口元は真っ赤に染まっている。そんな彼女を振りほどく為か、赤カガチは腕を振り回し激しく身をよじるも、いかんせんその巨体ゆえにかえって手が届かず、苛立たし気に咆哮する。
「馬鹿は君だろ! 妻を見捨てて逃げる夫がどこにいるんだ! こうなれば死なばもろともだ!」
啖呵を切った僕の頬を、銃弾がかすめた。綾子が再び僕をめがけて発砲したのだ。思わず硬直する僕に、綾子は凍てついた声を出す。
「もし逃げないならば次は当てる」
「綾子、何故?」
僕の手から力なく槍が落ちる。
「お前をこんな奴に殺されてたまるか! それなら私の手で殺してやる!さぁ、選べ。どちらがいい!」
その時僕は赤カガチの肩越しに確かに見た。綾子の胸部が大きく抉られているのを。体を守る筈の鎖帷子は、赤カガチの一撃を喰らったせいか跡形もなく消し飛んでおり、その内側で保護されていた筈の肉体はぐちゃぐちゃになっていた。胸部から腹部にかけての皮膚の大半が爪で抉り取られており、そこから胸骨や内臓が露出してしまっている。動けるのが不思議なくらいの致命傷だ。綾子はもう助からない、と直感的に感じ取ってしまう。その時ごふっ、と赤カガチにしがみついている綾子が血を吐いた。
「綾子!」
思わず綾子に、即ち赤カガチに歩み寄ってしまう僕。そんな迂闊な行動を見逃す程、野生は甘くはない。
「キシャァァァァァァァァァァァァァァ!」
「北斗!」
視界の端に何かが迫る。ダンプカーにぶつかった様な衝撃と共に、川原を転がる僕。胸と腹が熱い。焼けた串を押し付けられている様な感じだ。赤カガチに一撃されたらしい、と伏せた態勢で認識する。痛さを感じると言う事はまだ死んでないな、などとどこか冷静に思いつつコンディションを確認する。赤カガチの爪は鎖帷子ごと僕の上体を切り裂いていた。右肩から左脇腹にかけて三本の太い切り傷が走っている。大怪我だが胴は何とか原形を保っている。綾子程の致命傷ではない。皮膚が大きく抉られているものの、骨や内臓には達していない。
(直撃だったのに軽傷。何故?)
衝突のショックでまだボーっとする頭で考えていると、赤カガチが怒りの咆哮をあげ、今まで以上暴れ狂い始めた。目を凝らすとその右目は完全にふさがって、血の涙を流している。そんな赤カガチの肩にしがみつきつつ、手にした短銃で残った赤カガチの左目を必死に撃ち抜こうとしている綾子。その様子を見た途端、僕は自分が何故軽傷なのか悟った。赤カガチに一撃されそうになった僕を救うべく、綾子がその攻撃の瞬間、短銃で赤カガチの右目を潰してくれたのだ。そのため赤カガチは攻撃をしくじり、僕は軽傷で済んでいる。
「急げ! 早く!」
綾子はろれつのあやしくなった口調で僕に行動を促す。
「君と一緒じゃなきゃ嫌だ!」
痛みの為か、動きを止め呻いている赤カガチの前で、僕は涙声で絶叫する。
子供の様に泣き喚く僕が滑稽だったのか、綾子が赤カガチの上で少しだけ微笑んで言った。
「私はまだコイツと話がある。それが済んだら後を追うから心配するな」
目の奥じゃない、心の奥から溢れ出た涙で、視界が一瞬ぼやける。
「・・・・・・最期の会話が嘘だなんて・・・・・・、そりゃないよ綾子」
フフッと、血煙の中、口角を上げた綾子が、胸中の惜別を口の端に乗せる。
「三年か五年、いや、十年に一度でいい、たまには私の事を思い出せ」
「あやこぉ・・・・・・・、嫌だよ、行きたくないよ。君と生きて行きたいよ」
まだ未練たらしく駄々をこねる僕を、綾子が最後の力を振り絞ってどやしつけてきた。
「女々しいぞ! あの時私を殴りつけた気概はどこにいった!」
綾子の声が、気概が、魂が、未練たらしくぐずる僕のケツを蹴り飛ばした。
「さぁ立て! そして胸を張り行くんだ! 決して振り向くな! これは逃亡ではない! 前進だ!」
そして大きく息を吸い込み、最後の力を振り絞って叫ぶ!
「行け!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
僕は痛む体を引きずってボートへと駆け寄り、飛び乗る。慣れない手つきでオールをセットし、流れに向かって漕ぎ出す。ボートが川を滑り始めた。
絶対に振り向かない!
それが綾子の最期の願いだから。
絶対に生き残る!
綾子がくれた命だから
ボートが本流に入る。綾子がドンドンと遠ざかっていく。ボートの中で僕は子供の様に泣きじゃくっていた。
赤カガチの雄叫びと、綾子の断末魔が聞こえた様な気がした。
第一部 完