第二十二幕
「準備は出来たか?」
「ああ。万端だ」
荷物と言っても大して量はない。リュック一つと武器の手槍だけだ。念のため、非常食代わりの熊の干し肉を一塊だけ、水筒と共にリュックにつめる。麓まで何事もなければ二、三時間程で到着する。昼前には着ける計算だ。弁当なぞいらないとは思うが念のためだ。綾子が僕の前に立つ。両手には大型の猟銃、腰には武骨な山刀と小さな拳銃が吊り下げられている。
「忘れていた、これを着ておけ。爺さんのがあった」
綾子が鎖の塊のようなモノを差し出してきた。
「何これ?」
それが持つ物々しさに当てられたのか、僕は思わず息を呑む。
「鎖帷子だ。聞いたことないか? 簡易の鎧のようなもんだ。着ておけ、私も着ている」
綾子の胸元を見ると、確かに服の中は鎖で覆われている。
「分かった」
僕は鎖帷子を受け取り、綾子に手伝って貰いながらどうにかして装着した。なんか鎖で拘束縛られているみたいでどうにも気分がよくない。Tシャツを通して感じるひんやりとした感じも、どちらかというと不快だ。ドラクエでは三百ゴールドで買える、コスパに優れた良質な防具として随分とお世話になったが、まさか現実世界でもお世話になるとは思わなかった。防具が僕の体にしっかりと装着されている事を確認した綾子が、満足そうに頷いた後その口を開く。
「脱出経路を説明するぞ」
「うん。頼む」
「脱出には山道を使わない。川を使う」
「川? ボートとかはあるの?」
一瞬呆けたあと、僕は分かり切った事を聞いてしまう。至極当然のことを聞く僕を笑うことなく、綾子は頷く。
「ああ、お前には言ってなかったが、実は爺さんが持っていた川下り用の小さなボートがある。川の側にある小屋にしまってあるんだ。今回はそれを使って麓まで向かう」
「川に辿り着くまでが勝負ってことか」
僕の言に、一瞬だがその目を険しくする綾子。
「そうだ。ボートが必ずしも安全とは言えないが、少なくとも山道を行くよりかは安全だ。視界も見渡せるしな。お前を脱出させるのにはこれが一番だと思う」
「分かった」
僕は大きく頷く。
「いいか、麓の安全地帯に着く迄片時も油断するな。自分は今戦場にいるという認識をしっかりと持て」
「分かった」
僕は手の中の槍を強く握りしめる。
「常に神経を研ぎ澄ませ、辺りを警戒しろ。どんなに些細な事でも疎かにするな。一つ一つ必ず確認しろ」
「オーケー」
「奴に遭遇したら終わりだ。如何に遭遇しないで川まで行けるか、目指すはただそれだけだ。余計な音をたてないために会話は厳禁。伝達は全て手信号と筆談。肝に銘じておけ。質問あるか?」
「ないよ」
綾子の表情も口調も厳しいことこの上ない。昨晩の甘い一時は夢だったのではないか、と思わず思ってしまう。
「よし、行くぞ」
そう言って綾子が銃を片手に扉を開けた。戦場には似つかわしくない山の清々しい朝の空気が、一陣の風と化して小屋に入り込み僕の前髪を揺らす。扉の先に広がっている大自然。いつも目と心を彩ってくれるはずのその鮮やかな緑の海に、今日は恐怖しか感じない。 膝の震えが止まらない。今の僕にはこれを止める術はない。僕は大きく深呼吸し、先行く綾子に続いた。
いつもと変わらぬ山道なのだが何かが違う。空気が重い、とでも言おうか、山が纏う空気、と言うか雰囲気の様なものに、尋常ではない『何か』を感じる。いつも聞こえる鳥のさえずりや、あちらこちらに感じられる小動物の気配が全くない。山全体がそのものが怯えている。昨日の散々ビビらされた赤カガチの咆哮が、鼓膜の奥で蘇る。
(これは相当ヤバイな)
今までこの状況を、心の何処か軽く考えていたようなところがあったが、ここに来て初めて実感する。
今、自分の命が危険に晒されている、という事を。
先を行く綾子の背を追いながら、僕は冷たい汗を止める事が出来なかった。それから一時間あまり歩き、山の中腹辺りに辿り着く。川まではもうすぐだ。思わず楽観的になりかかる僕に綾子は一片の紙切れを差し出してきた。いつの間に書いたのだろうか? 僕はそれを受け取って目を通す。
気を抜くな。今まで以上に警戒しろ。
僕はリュックからペンを取り出し、作成したメモを綾子に渡す。
何故? 危険な気配もしないし大丈夫そうじゃない? とりあえず逃げ切ったんじゃ?
綾子はそれに目を通すと一度僕を睨み付け、手にしていた紙に何かを書き込み、それを此方に寄越した。
気配が無さすぎるんだ。昨日の晩から今まで、一度も奴の気配を感じない。おかしい。
僕は紙片に返事を書く。
隣の山にいるとか?
綾子からの返事。
そうかもしれないが、どうにも嫌な予感がする。引き続き警戒しろ!
分かった。
ペンをしまい、僕は改めて神経を研ぎ澄ます。
川へと続く斜面に辿り着く。ここを下れば川原、その先が川だ。綾子が辺りを警戒しながら斜面を流れる様に滑り降りる。僕も後に続く。川原に足を踏み入れる。のんびりとした川のせせらぎ、水が舞う涼やかな音が、張りつめた心と体を一瞬だけだがほぐしてくれた。
(こっちだ)
綾子が手信号で誘導してきた。それに続く僕。そこから五分程歩いた所に木製の小さな小屋があった。至る所がボロボロで、築後二十年は下ってないだろう。多分扉であろうモノを取り外し、中に入る綾子。僕も続く。天井から垂れ下がる蜘蛛の巣の向こうに、遊園地や釣り堀で見かける様な、なんの変哲もない小さなボートが一艘鎮座している。中にはオールらしきものが二本ある。
(こんなもん、どうやって山奥まで運んで来たんだ?)
そう思っていると綾子がボートの先端につき目で合図を送ってきた。逆側を持て、と言うことだろう。僕はボートの端の方へ行く。ボートを挟んで綾子と向かい合う形になる。綾子がボートに手をかけるのと同時に僕も手をかけた。目が合ったのを合図に持ち上げる。小さなボートの割には目方があり、筋肉が悲鳴をあげる。顔をしかめそうになるも、思いの外平気そうな綾子を前にして痩せ我慢を全開する。
二人でボートを持ち、小屋を出て川へと向かう。小屋から川までの距離である五、六メートルがこんなにも長く感じたのは生まれて初めてだった。川にボートを浮かべ、二人で一息つく。
その時だった。
水が盛大に跳ねる音と共に、いきなり視界に影が差す。怪訝に思う間もなく、何かに一撃された綾子が大きく吹っ飛んだ。




