第一幕
本編です。つまんなかったらすみませぬ(´・ω・`)
あと、序幕少し付け足してます。最初と最後です。確認していただけると幸いです。
それではどうぞ。
駐輪場に止めてある自転車を引き出し、出発前の安全確認を行う。タイヤよし、ブレーキよし、ハンドル異常なし、各部に異常が無い事を確認し、仕上げのミラー調整を行う。鏡に映った丸顔の中に、とりたてて特徴のないパーツ達が無難に配置されている。どこからどう見ても平凡な容貌。まぁ、強いて特徴を挙げるとすれば、目の輪郭がやや鋭角的なところ位か。この丸みの無さが、見る人によっては冷たい印象を受けるらしい。あれは何年前だったか、大学の同級生(女)から
『見神さんはレオナルド・ディカプリオの劣化版!』などという、褒めているのか貶しているのか分からない評価を頂いた事はある。レオには特に興味は無かったので特に何にも感じなかった。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は傑作だと思ったが。
サドルに跨り、片耳イヤホンの状態で音楽アプリを起動。曲は当然スティングの名曲
『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』
ゴミみたいな音楽で溢れかえっているこの下らない世界で、『シェイプス・オブ・マイ・ハート』と並んで人が聴くに値する名曲だと固く信じている。ん? 『シェイプス・オブ・マイ・ハート』を知らない? こう言えば分かるかな? 映画『レオン』のエンディングテーマ。
裏打ちされたビートと渋いサックスからなる品の良いイントロに乗り、僕はペダルを漕ぎ出した。
街の繁華街を背に、住宅街へと道なりに進んで行く。五分も経つと、異世界に紛れ込んだのかと思う位に周りの景色が一変する。コンビニ、ガソリンスタンド、レストラン等の施設は影を潜め、地平線まで続いていそうな広大な稲田が眼前に広がる。道はその間をぬうように走っており、それに沿う形で年季の入った木造の民家がちらほらと見受けられる。のどかな風景を瞳の上で流す僕の心を、哀しみで綴られた曲がそっと包み込む。
〽一人前の男は無知を受け流して笑って見せるんだ
〽誰が何と言おうと自分らしさを忘れるな
この曲を初めて聴いた時の衝撃は今でも覚えている。何年か前の夏、バイト帰り、西新宿のバーに立ち寄り、ミントフラッペで疲れを癒す僕に、店のマスターがふるまってくれたのが馴れ初め。何となく聴いていたのも最初だけで、いつしか身動きも出来ないくらいにスティングの歌声にのめりこんでいた。最後のパートが終わるや否や、僕は思わず席を立ち、マスターの下へと向かっていた・・・・・・。
道が次第に狭まってきたが、対向車などまず来そうにないので減速せず通常のペースを維持する。照り付ける太陽の下で、夏風が舞い、稲田が踊る。雄大な自然の懐に抱かれながら、僕は再びスティングが奏でる魂の調べにその心をゆだねる・・・・・・。
〽私はエイリアン 法に認められたエイリアン 私はニューヨークの英国人
〽私はエイリアン 法に認められたエイリアン 私はニューヨークの英国人
作曲者のスティングはニューヨークで過ごした経験があるそうだ。その時彼は常に常に強い孤独感を感じていたらしい。
「自分はこのニューヨークではどこまでいっても異邦人なんだな」と。そんな疎外感からくる孤独を友として暮らす彼に一つの出会いが訪れる。ゲイである事をカミングアウトしたイギリス人の作家、クエンティン・クリスプだ。彼の中に自分と同種の孤独を感じ取ったスティングは、湧き上がってくる想いをそのまま楽譜に叩きつけた・・・・・・。
このエピソードを知った時、強い戸惑いを覚えた。『疎外された人間の哀しみ』を歌った曲に何故こんなにも強い共感を覚えるのか? 子供の頃からどうしても集団に馴染めない己の境遇をそこに反映させているからか? だとすると僕は孤独に彩られた己の人生を哀しんでいる事になる。何故哀しい? それは集団に帰属したいから。いやいやそんな馬鹿な。今まで『人』には散々苦しめられてきた。 学校でもどこでもいつもひとりぼっち。暴力をふるうとか性格が異常に悪いとか、そういった嫌われる理由が僕にあるならばまだ分かるのだが、生憎とそういったものは持ち合わせていない。集団の中では常に周りの空気を読み、言動行動に気を付け人とぶつからない様に過ごしてきた。にもかかわらず、何故か僕は自然と集団からは浮いてしまう。
「見神は嫌いじゃないんだけど、なんかね」
そう言いながら、皆は僕の手を振り払う。そんな経験が積み重なってゆくに従って、僕もいつしかクラスメイトと距離を置くようになっていた・・・・・・。
人なんか大っ嫌いだ。集団の中で生きるなんて吐き気がする。一人で生き、一人で死ぬ孤高こそ僕の生き様であり、この道を行く事に何の躊躇いもない。
なら何故この歌にこれ程のめりこむ? ・・・・・・分からない。僕はやはり・・・・・・。思考の堂々巡りに陥りかけている僕の目が、道の果てに建っている一棟の建物を捉える。配達先の市役所だ。僕は仕事に戻るべく、一旦この件を心の奥にそっとしまい込んだ。
「お世話になっています。ルーバーです。商品をお届けに上がりました」
重たい観音扉を開け、挨拶と共に役場に入る。『受付』のプレートが立てかけられているカウンターの後ろに、机が四台、向かい合わせに配置されている。そのうちパソコンが乗っているのは一台だけだ。壁際には書類を入れる書類棚、部屋の隅には来客用のソファセット(衝立無し)、奥に給湯室らしきものがあるが、出入り口付近が物置と化しているため普段使っているかどうかは疑問だ。床には小さなゴミが散乱しており、机や棚の上は本やら書類やら食べかけのお菓子が散乱している。全体的にだらけた雰囲気のオフィスであり、壁に貼られた十数年前のポスターがそれに侘しさ加味している。一番入口よりのパソコン席に座る初老の男が面倒くさげに振り返り、手をヒラヒラさせながら事もなげに言った。
「あー、それここじゃないんだわ。今から言うところにとどけてくれや」
そう言ってどっこらしょ、と立ち上がり、こちらまで歩いてくる。僕は一瞬、男が何を言っているのか分からず聞き返した。
「配達先は此方になっておりますが」
僕はスマホに目をやりつつ言う。大丈夫、配達先は間違いなくここだ。男はそんな僕の言葉など聞こえなかったかの様に、一方的に説明を始める。
「注文主は俺らじゃない。俺らは代行して頼んでいるだけなんだわ。兄ちゃん、悪いがもう一頑張り、引き受けちゃもらえねぇかな」
「どういう事ですか?」
僕の問いかけに男が答えた。それを簡単に要約すると以下の通りになる。
この村の外れに標高千二百メートル程の山がある。その山に一人のマタギ(猟師)を生業とする老人が暮らしている。偏屈な上に病的なまでの人嫌いで、決して麓には降りてこようとしない。基本は山の中で自給自足の生活をしているが、鉄砲の玉や生活雑貨など、山では手に入らないものが入用になった時だけ連絡をよこして来る。この偏屈老人の物資調達を、今現在市役所が代行しているらしい。
「今の役所はそんな事までやるんですか。いい事ですね」
何気なく唇に上がった言葉だったが、男は何故か一瞬だけ顔をしかめた。見神がその理由を問う前に、男は口を開く。
老人はスマホやパソコンなどの文明の利器は一つも持っていない。故にいきおい連絡手段は原始的なものになる。具体的には山の中腹にある小さな小屋を連絡所として使う。物が入用になった時、老人は必要物が記載された紙と、代金代わりのテンや野ウサギ、リスの毛皮を小屋に置く。区役所は月に一度、必ず人をやって紙の有無を確認、あればそれを揃えて連絡所まで持っていく。勿論代金は毛皮を売却してそれを当てる。毎度毎度十分な量の毛皮が置かれる故、この取引における市役所の決済は常にプラス。めんどくさい仕事ではあるが、割はいいので止めようという声は挙がっていない。故に今まで続いている・・・・・・。
「そういう訳なんだ。悪いんだけど、それを今から言うところまで持って行ってくれ」
男は『よろしくね!』と言わんばかりに片手を上げた。男の軽薄な仕草を前に、僕の蟀谷が引きつる。
「冗談じゃない! なんですかそれ! お断りします!」
「そこを何とか! この通り!」
よっぽど行きたくないのか、男はいきなり僕を拝み始めた。お人よしには効果的かもしれないが、生憎僕は人嫌い。困っている人を見てもなんとも思わない。
「拝まれても困ります。そちらにどんな事情があろうと、僕の知った事ではありません。契約上の配達先はここですから僕の仕事は終了しています。どうしても人にやらせたいなら、改めてそちらからルーバーに頼んで下さい」
このクソ熱い最中、重たい荷物を持って山登りなんざ死んでも御免だ。僕は怠慢公務員の頼みを断固としてはねつけ、話は終わりだと言わんばかりに踵を返す。こんな話、引き受ける方がどうかしてないか?
「待て! いや、待って下さい!」
男がカウンター越しに手を伸ばし、出口へと向かう僕の肩をがしりと掴む。その手を邪険に払いのけ、速足で出口へと向かう。
「待ってったら! 神様仏様見神様!」
出口付近で再び男に捕まる。いつの間にカウンターから出てきたんだ? その根性をもっと仕事に生かせ、この税金泥棒が。そう思いながら再び男を振り払い、観音扉に手をかけた。
「今日の夕方までに届けなきゃいけないんだよ。今から別の配達員を探していたら間に合わない。兄ちゃん、何とか頼むよ。この通り!」
そう言って再び僕を拝む男。今度は泣き落としか。可愛い子がやるならともかく、むさい初老の男それなど逆効果だと何故分からないのだろう? 僕は眼差しを凍てつかせて無情にも言い放つ。
「貴方が行ったらどうですか?」
「役場は今俺しかいない。ここ開ける訳にはいかないんだよ。なぁ、頼むよ、お願いだよ」
そう言って男は、行かせまいと僕の二の腕をがしりと掴む。汗か何かだろうか、男の手から感じるぬるっとした感触に肌が粟立つ。
「何度も言いますけど、あなたの事情なんて僕の知ったこっちゃないですよ。離して下さい。三秒以内に離さないと監禁罪で警察に通報しますよ」
通報という言葉が効いたのか、男が僕の腕を離す。ようやく解放され、やれやれ、と思いつつ観音扉を開ける僕。戸口を跨いだ僕の背を、男の声が追いかけてきた。
「よっしゃ! 分かった。俺も男だ。もし行ってくれるならもう一万円出そうじゃないか! これでどうだ?」
ピタリ、と僕の足が止まった。
「くそ、やっぱやめときゃよかった」
僕は足元にまとわりついている笹を蹴飛ばしつつ、山の中で一人悪態をつく。汗でぬめった顔を手の甲で拭い、休憩できる場所を探して辺りに目をやる。大小生い茂る緑の中、数えきれないくらいの大木達が僕を静かに見下ろしている。僕の背丈くらいある植物がそこかしこ生えていて、先程から僕の歩みを徹底的に妨害してくれる。足元には水分をたっぷり含んだ落ち葉や笹の葉、何やら背の低い植物達がひしめき合い歩きにくい事この上ない。昨日降った雨のせいか足元がぬかるんでいて、靴などとうの昔に泥まみれだ。霞む視界、焼け付く肺、鉛を含んだ脹脛。もう限界だ。引き続き休憩場所を探す僕の目に、腰かけるのに丁度いい岩が映った。ここから十メートル程先だ。今歩いている、半ば獣道と化している登山道から少し外れるが問題ないだろう。僕は重たい足を引きずりながらそこへと向かった。ぎゃあ、ぎゃあ、と山鳥か何かの鳴き声が聞こえた。
「あの野郎、下山したらぶん殴ってやる」
僕は筋張ったくるぶしをマッサージしながら、諸悪の根源である役場の男の言葉を思い出す。
「目の前の道路を右へ、そのまま道なりに五分程行くと山に着くよ。入口である登山道は道路に面しているから迷わない筈だ」
「険しいんですか? その山」
男は笑顔で手を振りながら言った。
「全然険しくない。素人でも楽に登れる。高尾山みたいなもんだよ。山というか丘みたいなもんさ。全然大したことないよ」
「・・・・・・熊とか出ませんよね」
何気なく言った僕の言葉に、一瞬だが男が確かに顔をひきつらせた。
「出るんですか!?」
にじりよる僕から、男が目をそらす。
「・・・・・・この話は無かった事にしてください」
そう言って出口に向かおうとする僕の両肩を、男ががしりと掴む。
「いや実はね、昭和の時代に少しだけ目撃例があったらしいんだ」
「離して下さい。警察呼びますよ」
僕は振り向かず、手にしたスマホを男に見せる。そんな僕の警告などものともせず、男がまたペラペラとまくしたててきた。
「けど、ここ四、五十年以上出てない。皆死んだか引っ越している。俺この近所に住んでるけど、この年まで熊なんて動物園以外では見たことない。何ならそのスマホで調べてみ? この辺りの熊の目撃情報なんて無いから」
「調べるまでもないですね。さよなら、ごきげんよう」
男の両手を振り払い、今度こそおさらばしようとする僕に、男が遂に最後の切り札を切る。
「分かった! 三万出す! どうだ!」
「・・・・・・」
僕は足を止め、『熊目撃情報●●県◯◯市』でググってみる。熊の情報をリアルタイムで教えてくれる『YPくまさんマップ』というサイトがヒットしたので、これ幸いとばかり活用し、男の言葉の真偽を確かめてみる。・・・・・・確かに嘘はついていない。ここ数十年、●●県◯◯市で熊は目撃されていない。男の言葉通り、この近辺に熊はいないと判断してよさそうだ。僕は振り返り、某漫画の凄腕スナイパーの様に言った。
「話の続きを伺いましょう」
「いや本当に素人でも登れるくらいのちんまい山だから。先程も言ったけど、それに山頂まで行かなくていいんだ。途中まででいいんだ、途中までで」
「途中?」
そう言えば、先程の説明の中にそんな言葉があったような気がする。僕の問い返しを乗り気の現れと見たのか、男が一気に畳みかけてきた。
「そう。山頂へと続く道があってさ、そこを登って行って欲しいんだよね。行くとすぐに先程話した連絡小屋があるから、そこに配達品を置いておけばオッケー。こんなんで三万円貰えるなんてボロいじゃない。いやいや兄ちゃんは運がいい。本当にもう羨ましいよ」
男の舌の回転は止まらない。唾が数滴僕の顔にかかる。僕は顔にへばりついた唾を手の甲で拭いながら、嫌味たっぷりの口調で言った。
「そんなに羨ましいなら変わってあげましょうか? 僕がここの留守番しているから貴方が行けばいい」
「と、とんでもない! 私は人様の幸運を横取りするような男ではないよ。この幸運は君のものだ」
男は首と右腕をブンブン振り回しつつ、白々しいことを喚く。そんな男を前にして僕は軽くため息をつく。四万円という大金に目がくらんで引き受けてしまったが、やはり間違いだったのかもしれない。軽い後悔の中、男の前で僕は出立の準備をする。まぁ、準備とは言っても、ルーバーの配達バッグを事務所の隅っこに置き、配達品とペットボトル入りに水を手にしただけだが。
「んじゃ兄ちゃん頼むよ。役場は五時までだからそれまでに帰って来てくれ。楽勝だろ?」
壁にかかっている時計を見る。時刻は十三時過ぎ。確かに楽勝だろう、男の言葉が本当ならば。出口まで見送りに出てくれた男の軽薄な笑顔に一抹の不安を覚えつつ、僕は山へ向かって歩き始めた。
五分程くるぶしを揉む事で筋肉から乳酸を取り除き、僕は岩から立ち上がる。もっと休みたかったがそうもいかない。山の中で夜を迎えるハメになったらことだ。登り始めてもう小一時間ほど経つが、一向に目的地は見えてこない。すぐに着くとか言っていたがあまり信用しない方がよさそうだ。一呼吸おいて登山ルートに戻ろうと一歩踏み出した途端、うなじの毛が逆立った。全身の皮膚が粟立っている。
(なんだ? この感覚は)
例えて言うなら、財布を落とした事に気が付いて血の気が引く、あの時の感覚を百倍に膨らました様なイメージ。
(何かいるのか?)
僕は注意深く辺りに目をやる。辺りは大小の木々や草等の植物だらけだ。特に変わったところはない。木や緑が入り組んでいるので視界は良くないが、少なくとも近くに変わったものは見当たらない。
(気のせいか)
そう思い歩みを再開させた瞬間、獣臭がした。(やはり何かいる)
足を止め、もう一度辺りを見渡そうとしたその瞬間、何かがぶつかってきて僕は吹っ飛ばされた。慣性の赴くまま宙を舞う僕を、大木が手荒に抱きとめる。背中を苛む激痛のため、地面をのたうち回る。横隔膜がせりあがってしまっている為か呼吸が出来ない。痛みと窒息。二つの苦しみの中、地に転がる僕は薄目を開けて周りを見渡し、何とか状況を確認する。視線の先に『何か』がいる。大きい。人間の二倍はありそうな背丈に巨大と言っても差し支えない体躯、その全身を覆う筋肉と剛毛、手足の先から生える日本刀の様な爪、そして涎で光る大きな牙・・・・・・。知っている。僕はこの動物をよぉく知っている。ははは、でも何でかな? 名前が思い出せない。知っているのに思い出せない? 何だか変な話だ。あ、そう言えば俺チャリの鍵どうしたっけ? まさか刺さったまま? 持っていかれたらどうしよう、あのチャリ高かったのに・・・・・・。いや、『熊』を前に何を考えているんだ僕は。あ、そうだ『熊』だ! こいつの名前は『熊』だ! やっと思い出せた。恐怖のあまりパニックを通り越して現実逃避を始めた僕の視線の先で、熊は四つ足でゆっくりとこちらに近づいてくる。少し開いた口の中から時折発せられるフォッ、フォッという声と耳障りな歯ぎしりからは友好の意図は感じられない。さらに接近してくる熊。ヤバイ・・・・・・やばいやばいやばいやばいやばい! に、逃げなきゃ。どう見ても森のクマさんこんにちは! 一緒に遊びましょという雰囲気じゃない。そう思って立ち上がろうとするも、体はピクリともしない。呑まれてしまっているのだ、野生に。無様に腰を抜かしている僕を、熊がその間合いにとらえる。
鼻腔を刺激する酷い生臭さが、迫りくる死を嫌でも意識させる。小さな唸り声と共に熊が二つ足になる。まるでロック・オンするかの如く絶対に僕から目を逸らさない。呆けた脳みその片隅で何となく悟る。これはコイツにとって『狩り』なんだ、と。ん? 狩り? と、言う事は・・・・・・このままでは食われる! そう思った瞬間、呪縛が解けた。体の各部が勝手に動き、僕は自然と立ち上がる。立ち上がった僕を見て熊が雄叫びをあげた。僕の行為は敵意の発露と捉えられてしまったようだ。熊が迫ってくる。恐怖のあまりパニックになった僕は、慌てて熊に背を向けて逃げようとするも、草に足を取られて無様に転倒した。だがそれが幸いだった。ほんの数瞬前まで僕の頭があった空間を、熊の爪が薙いだのだ。転んでいなかったら今頃首を吹っ飛ばされていたことだろう。自らの幸運に喜ぶ間もなく、僕は悲鳴を上げながら地面をはって逃げようとする。そんな僕に熊がのしかかってくる。無意識のうちに仰向けになり、僕の喉笛を齧ろうとする熊の顔と喉に手をあて、全力で突き放しにかかる。だが、強大な野生を前にして、僕の力はあまりにも無力だった。牙は徐々に僕の喉笛に迫りつつある。
(もうだめだ。詰んだ)
迫りくる死を前にして、心の奥から諦観がわきおこってくる。
(もう疲れた。父さん母さんには悪いけど諦めよう。この世に未練なんか無いし)
僕は熊を押さえている腕から力を抜き、目を閉じた。
(頼む! 一思いにやってくれ! 痛いのは一瞬で頼むよ)
どこかで轟音が鳴り響いた様な気がした。熊が覆いかぶさってくる。その時に備えて僕は全身を硬直させた。
静寂が訪れた。どこか遠くの方で山鳥が風と戯れている音がする。僕の上に乗っかっている熊は、何故か先程からピクリともしない。状況を確認するため目を開けてみる。毛皮に覆われた筋肉が視界一杯に広がる。よく見ると熊の胸部だ。松脂をたっぷり含んだ毛はクタッと寝ている。顔を上げると赤い花が見えた。それは熊の頭部で咲いていて、その深紅の輝きが僕に状況を教えてくれた。
(死んでいる。誰かがこの熊を狙撃したんだ。でも、一体誰が)
安堵と共に体の左半身が悲鳴を上げる。無理もない。今僕は熊の死骸のしかかられているのだ。
(と、とりあえずここから脱出せねば)
幸い乗っかられているのは体の左半身だ。何とかなるだろう。僕はまず、地面と熊の死骸の間から己の左上半身をどうにかして抜き取り、上体を起こす。熊の死骸を膝の上に置いて、その場で座り込んでいる形だ。因みに左下半身はまだ死骸の下だ。僕は改めて熊の死骸を見下ろす。ぶ厚い毛皮に覆われた巨大な筋肉の塊が、僕の膝の上で静かに横たわっている。既に物言わぬ骸と化している事が分かっていても、目の前の物体が発する圧力、迫力は、生前のそれと比してもいささかも減じる事はなかった。
(凄いな、野生って)
死してもなお、圧倒的な存在感を放ち続ける野生に驚嘆の念を抱きつつ、僕はどこか冷めた目で自分の体を点検する。
(ほぼ無傷か。それにしても、こんなもんに襲われてよく助かったな)
思いっきり深呼吸して生きている事を確認する。
(命があるって当たり前の事じゃないんだな)
何かしら大事な事を悟った様な気がして感慨にふける僕の鼓膜を、草木をかき分ける様な音が揺らす。それは少しずつこちらに近づいてきているようだ。
(マズイ! まだいるのか)
僕は慌てて熊の死骸の下から足を抜きにかかる。自由になろうと四苦八苦している僕をよそに、ドンドンと音は大きくなる。僕が熊の死骸の下から足を半分以上抜いたあたりで、目の前の草木が大きく左右に開いた。
異様ないでたちの女の子がそこにいた。年は十代後半くらいか、いっても二十代前半だろう。戦時中の国民服だろうか? どうみてもサイズがあっていないブカブカの男用の服を着て、片手に少し古い感じのライフルを手にしている。髪は短く、適当に切っているためか毛先が揃っていない。手入れも禄にしていないらしくボサボサだ。涼し気な目元、長いまつ毛、細いがスッと力強く伸びる眉、輝く瞳、高い鼻、控えめだが引き締まった口、それらのパーツが小さな顔の中にバランスよく配置されている。整いすぎていてやや冷たい印象を受けるも、美少女と形容しても差し支えない容貌だ。そう、美少女。清潔感の欠片もない身なりにもかかわらず、見る人に『美』を意識させるのは本物である証拠。そしてその美しさはテレビの中の女が持つ紛い物の美しさではなく、厳しい環境で懸命に生きる雪ヒョウのような、甘えの許されない過酷な環境で生きる者のみが備える何処かとんがった、気高く誇り高い美しさだ。彼女にそれをもたらせているものはなんだろう、少なくとも顔の作りだけではないような気がした。それが何なのか、頭を巡らす前に状況が動いた。彼女が此方へと大股で歩み寄って来たのだ。僕は立ち上がってお礼を言う為に、熊の下に残っている足を急いで抜きにかかる。僕の命を救ってくれたのはどう考えてもこの娘だろう。好意に対しては礼を言うのが人としての基本だ。右足で熊の体を足蹴にし、その反動で左足を引っこ抜く。ようやく自由を取り戻し、安堵のため息と共に立ち上がる。自然と女性と向き合う形になった。礼を言おうと口を開きかけた瞬間、僕の左頬が爆ぜた。再び地面に伏す僕。殴られたのだ、この娘に。拳ではなく銃の台尻で。経験した事ない激痛に、恥も外聞もなく亀になってうめき声をあげる。女性が僕から遠ざかっていく気配がしたが、そんなことはどうでもよかった。ひたすらうめき、痛みが治まるのを待つ。近くで女が何かをしている気配がしたが、痛みでのたうち回る僕に、それを気にする余裕などありはしなかった。
三分程すると痛みが引いてきたので、舌で口内を点検し、歯が欠けてない事を確認する。大丈夫だ、全て揃っている。感覚も戻ってきたし頭も回り始めた。回復するにつれて心の底から怒りがこみ上げてくる。いきなり殴る事はないだろう! 何なんだコイツは! 僕は抗議の声を上げるべく憤然と立ち上がり、その女に顔を向けるも瞬時に固まってしまう。女性は熊の死骸の前で跪き、両手を組んで静かに祈りを捧げていた。僕の開きかけた口が自然に閉じられていく。邪魔するのもはばかられる位、彼女の祈りは真摯だった。そこから感じ取れるのは溢れんばかりの感謝と尊敬の念。自分が仕留めた獲物に対する尊敬と、その命を与えてくれた事への感謝。僅かな揺らぎも許さない荘厳な雰囲気が彼女を中心に広がっていく。先程まで荒れ狂っていた心が。いつの間にか穏やかになっていた。『生きる為に殺した者』と『弱肉強食の掟の下、大自然にその身を捧げたもの』との間に交わされる無言の会話。呼吸する事すらはばかられる厳粛な空気の中、僕に出来る事はただ案山子の様に突っ立って、事の経緯を見守るだけであった。