第十四幕・改変
ザアザアぶりの雨は天からの恵み。信じられないなら自然の中で暮らしてみるといい。三日もしないうちに分かるよ。
「いいか、先ずは皮を剥ぐ」
あれから狩った鹿を二人で小屋へと運び込んだ。作業台に横たわる鹿を前に、綾子が言う。
「本来なら内臓抜きを終えてから毛皮を剥ぐんだが、今日は技術の解説だ。手順は無視でいいだろう」
「手順通りにやればいいんじゃない?」
素人感丸出しの台詞を口にする僕を、綾子がどこか挑む様な眼差しで捉える。
「お前がそうしたいならそうしてもいいが・・・。いいのか? 内臓と言うやつは命そのものだ。かなり生々しいぞ」
「そ、そんなに?」
いきなり覚悟を問われ、声が自然と上ずる。内臓ってあれだろ、焼肉屋で出るホルモンとかスーパーのパックに入っているやつ。あれらの扱いってそんなに大変なのか?
初手からひよる僕を前に、綾子が手の内のナイフを弄ぶながら言う。
「出産や葬式程度でしか生死にかかわっていないお前達都会人には正直厳しいかもな。精神的に脆い奴は結構くるぞ。三日程悪夢でうなされるかも」
どこか飄々とした綾子の物言い。僕をかついでいるのだろうか? 一瞬そう思うも、即座にその考えを改める。命を扱う現場に冗談を持ち込む様な女じゃない。それだけは分かっている。僕に腹を探られているのを知ってか知らずか、綾子は先程と変わらぬ調子で続ける。
「最初は大人しめのやつから始めて、徐々に上げていこうと思っていたんだが、まぁ、いい。お前の希望通り本丸から攻めるか」
そう言って手の内のナイフをギラリとひらめかす綾子に、僕は慌てて白旗を掲げる。
「皮剥ぎからお願いします!」
「先ずは手本を見せる」
そう言って綾子は鹿の後ろ脚を手に取った。
「いいか、ここが関節だ。この下のあたりに、一周切り込みを入れる」
そう言って綾子は該当箇所にナイフを走らせる。切れた毛皮がペロリとめくれた。
「次は足の付け根だ。見えるか、ここ」
綾子は両後ろ脚を広げ、それらの付け根を指さす。死後硬直が始まっているせいか、部位を動かす綾子の手の動きは固い。
「うん。見えるよ」
「ここから先程の切り込みに向けて刃を入れる」
もう幾度となくやっているのであろう、無駄のない手つきで綾子は鹿の後ろ脚に一本の長い線を走らせる。そしてペロリと向けた皮を掴み、それと肉の間に刃を入れる。
「こうやって空いている方の手で鹿の皮を掴み、ナイフでめくったところから引きはがしてゆく」
そう言って綾子は、手にしたナイフを上手く使い、べりべりと鹿の皮をはがしてゆく。表皮が剥がれるにつれて、鹿が赤い物体に変ってゆく。そこには大自然を思いのまま駆けまわっていた鹿の面影はどこにもない。鹿が鹿ではなくなってゆく過程を目の当たりにしながら、綾子が剥がしているのは皮だけではないのだな、と思う。綾子が今鹿から剥がしているもの、それはきっと『尊厳』・・・・・・。鹿の面影を残したまま食べるのではなく、尊厳を剥ぎただの物体と化してから食らう。人が太古からやってきたこの営み。捕らえた獲物に対する手向けなのだろうが、何となく偽善めいたものを感じてしまうのは何故だろうか?どこか遠くの意識で思索の世界に浸りかけた僕を、綾子がその凛とした声で現実へと引き戻す。
「ここで注意する事一点。なるべく皮側に肉や脂を残さない様にしろ。あと、皮にナイフの傷をつけない様にする事も忘れるな」
綾子の手の中にある皮には、一かけらの肉も脂肪も付着してはいなかった。勿論少しの傷もほころびもない。
「・・・・・・難しそうだな」
僕は僅かに顔をしかめる。
「最初は難しく感じるだろう。だがすぐに慣れる。お前のご先祖は皆やっていた。先祖に出来てその子孫に出来ない筈はない」
時折炸裂する綾子のぶっ飛び発言にやや面喰いつつも、頑張る、とだけ答える。
「脚部を終えたら次は胴体部分だ。要領は同じ、下から上へと同じ要領でナイフを入れて剥がす」
綾子は同様にして、鹿の胴体から皮を剝がしてゆく。鹿が完全に『赤い物体』に変った。
「頭は残す。剥がすのは首のところまでだ」
そう言って綾子はナイフを鹿の首筋に走らせる。鹿の胴体から皮が完全に分離された。
「北斗、胴体を台からのけろ」
僕は言われた通りに、鹿の肉塊を床に敷いてあるビニールシートの上に置く。空いた台の上に綾子が鹿の皮を広げ、尻尾を指さして言う。
「尻尾は必ず落とす様にしろ」そう言って綾子は尻尾の付け根にナイフを当て、半円状にナイフを動かしそれを切り落とす。
「これで皮剥ぎは完了だ。関節のところを境目に、皮は袋状にならずに、切り開かれているのが理想だ。どうだ?やれそうか」
綾子の言葉を受け、僕は台の上に広げられた鹿の毛皮を見る。関節の下のところまでの半袖半ズボン状態の毛並みは生き生きとしており、綾子の手際の良さが伺えた。
「話としては理解できたけど・・・・・・」
自身の無さからそう言って口ごもる僕に、綾子は今日初めての笑みを浮かべ、言った。
「よし。次は内臓を抜くぞ」
綾子の言葉が瞬時に僕の顔を引き締める。いよいよ本番だ。しっかりと学び取れるだろうか。背筋がぶるっ、と震えるのを感じた。
「内臓を抜くにあたって、最初にとっかかるのはここ、尿道だ」
そう言って綾子は鹿の性器をぐわしっと掴み、ナイフを当てる。
「ひぃっ!」
「どうした?」
「い、いや何でもない。続けてくれ」
瞬時に縮こまった自分の性器を意識しつつ、僕は何とか平静を保つ。種は違えど同じ雄だ。自分のものではないとはいえ、デリケートゾーンが切り落とされる様子は見ていて気分のいいものではない。何やら狼狽えている僕を見る綾子の視線に鋭いものが混じる。やべ、やっちまったか?瞬時に身を引き締める僕を前に、綾子は集中しろ、とだけ言い、作業に戻る。良かった。殴られるかと思った。綾子は鹿の後ろ脚の付け根付近を指さし、
「ここに尿道があるので、カットしてゆく」
と言ってナイフを這わせ、該当箇所を楕円形に切っていく。肉と肉の狭間から、薄い膜に覆われた白い内臓が垣間見える。綾子のナイフによって開かれてゆく鹿の下腹部を見ながら、僕はある事に気付く。
「血は出ないんだな」
ナイフを扱う綾子の手が、一瞬止まる。ん?僕何か変な事言ったか?と不安になるも、それを問いただす気にはなれず、やや上目遣いで綾子の様子を窺う。視線の先での綾子は、まるで呆れた様に首をかしげ、ぼそりと呟いた。
「人間であれ獣であれ、死体は血を流さん。覚えておけ」
「全くこれだから都会人は」むかつく例の台詞こそ無かったものの、綾子の声には僕の無知を憐れむ響きがふんだんに込められていた。羞恥のあまり顔を赤らめる僕を尻目に、綾子は手際よく作業を進めていく。十字架から降ろされたイエスは血を流していたという。これが意味する事は・・・・・・。また頭のどこかでしょうもない事を考え始める僕の眼前で、綾子は手にしたナイフで骨盤のふちを切り、そこから骨盤に沿って更に穴を広げていく。
「ここ、この骨盤のふちに尿道がくっついているから、しっかりと切り落とせ」
そう言って綾子が開いた穴の一箇所を指差す。脂肪と肉の狭間に内臓らしき臓器が見え、そこから細長いものが伸びている。これが尿道なのだろうか?綾子はそれを手に取り、体外へと引きずり出したあと、その根本付近にナイフを当て、暫くギチギチと肉を裂く。そしてその尿道とおぼしき(?)ものを再び手に取り持ち上げ、その根本あたりにナイフを当て、ぐるりと円を描く様に切る。
「これでいい。作業中は出来るだけ尿道を傷つけない様にしろ。あと尿道は出来るだけ体外に出しておけ。理由は言わなくても分かるな」
「了解。しっかりと覚えたよ」
「よし。ではいよいよ内臓を抜く」
そう言って綾子は先ず、鹿の腹の中央にナイフを走らせる。そして開いたら箇所に広がる、皮膚と内臓を隔てる白く薄い皮の様なものにナイフを入れ、小さく裂いた。その大きさは人差し指と中指の頭が一緒にはいるくらい。
「こうやって隙間を作り、指を入れる。そして皮膚と指の間にナイフを入れ、その指に沿う形でナイフを走らせろ」
そう言って綾子は鹿の下腹を裂く。
「反対側もだ」
そう言って同様に今度は胸部付近も裂いていく。薄い膜に包まれた内臓が露わになった。何やら薄い灰色っぽい丸い玉と、それに寄り添う様に詰まっている腸。それらが持つ生々しさに命を感じ、妙に圧倒される。
「北斗、ちょっと寄って来い」
鹿の体内に両手を入れ、五臓六腑を丸抱えした状態で、綾子が言う。
「見えるか?これが心臓、これが肺、そしてこれがレバーだ。先ずこれらの境目を切ってゆく」
そう言って綾子がナイフを手に取り、該当箇所を切った。
「上半分を切れば、後は力でいける」
そう言って綾子が両手を使い、内臓を取り出しにかかる。名前も知らない臓器が腸と一緒にじわじわと体外に溢れ出てくるその様はちょっとしたスプラッター(?)だ。
「コツは円を描く様に、一箇所からではなく、全部分満遍なく手を入れ、全部分同時に引き上げる様に」綾子の手により内臓が露わになる。綾子が鹿の体の奥、胸の下あたりを指さして言う。
「見えるか北斗?これが心臓だ。今私が手にしている内臓はここにつながっている。今私が内臓を持ち上げているから浮いている状態であるんで、これを手で引きちぎる」
そう言ってブチッと綾子が鹿の心臓を引きちぎった。神漫画『寄生獣』で、主人公の泉新一が寄生生物の心臓を一撃で引きちぎる凄まじいシーンがあるのだが、それを生で拝めるとは思わなかった。手にした心臓をその大事そうな手付きでそっと傍らに置き、綾子は言った。
「さぁ、仕上げだ」
そう言って綾子は鹿の体内、その喉元付近に手を突っ込んで肺を掴み、五臓六腑全てをその両腕に抱える様にして肛門方向へ引きずり出して行く。その動きにつられる様に、内臓が鹿の体外に完全に余す事なく溢れ出た。
「大体こんな感じだ。大事なのは大腸を間違っても破らない事だ。あせらず焦らずとも優しく引っ張ってやれば出てくる」
そう言って綾子は下腹部に手を入れ、やや灰色がかった白い棒の様なものを引っ張り出した。
「これは膀胱だ。これも破らない様に気を付けろ」
そう言って手にした綾子は、手にした膀胱を破らない様にゆっくりとひっぱって取る。
「質の良い肉を手に入れるには、放血、洗浄後、なるべく速やかに内臓摘出を行い、その後冷水にさらすなどして体温を下げてやるんだ。そうする事で肉の鮮度を保ち、品質の劣化を防ぐ。質問あるか?」
そう言いながら、綾子は先程地に置いた鹿の心臓をそっと手に取った。
「それも食べるの?」
「そんな訳ないだろう!」
何気ない質問だったが、予想外に強い反応に僕は思わず面喰う。
「ど、どうしたのさ?」
「す、すまん。取り乱した」
謝罪する綾子に、少し怯みながらも僕は問いを重ねる。
「何故鹿の心臓を食べちゃいけないの?毒とかあるの?」
「そんな事はない。上から下まで全部食える。毒などない」
僕の物言いの何かがおかしかったのか、綾子がクスリと笑う。
「食べられるなら食べればいいだろ?それとも不味いのか?」
「心臓は筋肉の塊だ。美味いに決まっている」
「じゃあ食べようぜ」
野生の鹿の心臓、一体どんな味がするのか、空きっ腹で目を輝かす僕を前に、綾子が手の内にある心臓をどこか愛おしそうな手付きで撫でる。
「北斗」
「なに?」
「心は鹿に返してやろう」
「はぁっ?」
またもや飛び出してきた綾子のぶっとび発言に、僕の下あごががくんと落ちる。呆けた様に固まっている僕を前に、綾子が言う。
「私達がこの鹿に望むのは『肉』であり『心』じゃないだろう。この鹿の一生はこの鹿のものだ。我々が奪っていいものではない」
「・・・・・・。ごめん綾子、君が何を言っているのかさっぱり分からない」
見えぬ話に苛立ち、僕は右手で後頭部をバリバリとかく。綾子がその眼差しで僕を正面からとらえる。それが持つ、包み込まれる、抱かれる様な感じに何故だか畏怖を覚え、気付いたら一歩後ずさっていた。見ようによっては拒絶ととられかねない振る舞いだが、綾子は特に気にした風でもなく、目尻を和らげて言葉を紡ぐ。そう、初めて彼女から聖母マリアを感じた、初めて会ったあの日の様に。
「私は『記憶』は脳ではなく心に宿ると思っている。『記憶』すなわちそのものの生きた痕跡そのものだ」
血と脂。その身に穢れを纏い、また一つ業を重ねた綾子。悟りにも仏にも縁遠いその姿に何故か神々しさを感じてしまい、僕はひたすら恐れ入る事しか出来なかった。そんな僕の目の前に、綾子がしなびた心臓を掲げた。
「分かるか北斗。これはこの鹿の心、即ち生きた証そのものだ。それを口に入れ噛み砕き、胃袋で消化した挙句にクソにするするなど私には出来ない」
「・・・・・・・返すってどうすんのさ」
沈黙に耐えかねたのか、僕の口が勝手にどうでもいい事を聞く。
「頭と一緒に丁重に埋める。心は心のまま大地に返すんだ」
よく分からない。綾子が何を言っているのか。食う為にこの鹿を殺した。ならば、感謝と共に全て美味しく食べてあげるのが、命を捧げてくれた鹿に対する敬意じゃないだろうか?そう思いながらも、僕な内心の想いとは裏腹の事を口にする。
「・・・・・・分かった。君の言う通りにするよ」
何故こうも容易に己の意見を引っ込められたのか、自分でも分からない。綾子の言葉によるものなのか、それとも彼女が纏う雰囲気にやられたのか、それは分からない。ただ分からなくていいと思う。大事なのは、僕がこの決断を後悔していないという事だ。これは常に答えを出さないといけない受験ゲームではない。『人間とは何か』『命とは何か』『生きるとはどういうことか』と言った、ソクラテスやプラトンやアリストテレスが喜びそうな、生物の尊厳にかかわる問題だ。人類がその歩みの中で考え続ける命題に、答えなど野暮の極みだろう。僕の答えを聞いた綾子が、ぱっと顔を明るくする。
「ありがとう北斗。お前と分かり合えて嬉しいぞ」
喜びのあまり瞳をくりっとさせる綾子を見て、僕の心臓が大きく跳ねる。畜生、それやめろ。美人がそれをやるのは反則だ。
「次はどうするの?早く冷やさなきゃいけないんだろ?」
内心を悟られぬ様、あえてぶっきらぼうな口調で話を逸らす。そんな僕の想いを知ってか知らずか、綾子がいたずらっぽく微笑んで言った。
「そうだな。次は肉の解体だ」
綾子は内蔵を抜いた鹿肉を吊るし、先ずは前脚を切り落とした。そして肩甲骨に沿って肉をはぎ取っていく。首肉、肩肉、腕肉が盥に積まれてゆく。
「次は下胴だ」
そう言って綾子は鹿の後ろ脚を切り落とし、鹿の下胴から外モモ、内モモ、シンタマ、ひれもどきと呼ばれる部分を取ってゆく。
「結構簡単に取れるんだな」
手際よく肉を剥がしてゆく綾子の様子に、僕は思わず呟く。
「それぞれの部位は筋膜同士でくっついているだけだからな。ナイフの刃先を使えば簡単に剥がせる」
額に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら綾子が言う。
「次は背ロースだ。ここは筋が多く付いているので、予め取っておく」
そう言って綾子はナイフを振るい、背ロースから筋を取り除いてゆく。