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第十三幕

「この斜面の中腹に鹿が三頭いる」

「何も見えないが」

僕の目には草木と岩がまばらに散っている、いつもの山肌にしか見えない。

「よく目を凝らせ。中腹の小さな木が数本繁っている辺りだ。いるだろ? 三頭?」

僕は綾子が指差す辺りに目を凝らして見た。・・・・・・いた。鹿かどうかは分からないが、確かに生物らしきものが見える。

「よくあんな豆粒みたいなの判別出来るな」

綾子の驚異的な視力を前にして、驚嘆するしかない僕。

「この程度は朝飯前にならないとここでは生きて行けないぞ」

綾子がやや嬉しそうに笑いながら言う。前途は多難だな、と若干めげている僕に構うことなく、綾子は話を続ける。

「お前はここを大回りして下り、奴等の風下に陣取れ。決して気付かれるなよ。そして下から大声を上げながら斜面を駆けあがりつつ鹿達を此方へと追いやれ。そこを私が狙い撃ちする」

「鹿さん達が上じゃなくて横に逃げたら?」

「鹿の進行方向にその槍を投げて威嚇しろ」

「分かった」

「覚えておけ、この猟法を巻き狩りと言う。本来はもう少し多人数でやるもんだが、まぁ取り敢えずやってみよう」

「上手くいくかな」

「いかなければ晩飯抜きだ」

「それは嫌だな」

「だったら気張れ」

「了解。んじゃ行くわ」

そう言い残して槍を手に斜面を駆け降りる。そんな彼の背中を、綾子は頼もし気な視線で見送った。


(いるいる、確かに鹿だ)

斜面を見上げた先には鹿が三頭、のんびりと草を頬張っている。

(美しいな、当に命そのものだ)

それを今から狩り、そして喰らう。その事に妙な高ぶりを覚える僕。なんなのだ? 胸の内から沸き上がってくるこの衝動。スリルとも違う。そんな安っぽいもんじゃない。

(遺伝子が震えている、そんな感じがする)

風向きに注意しながら一歩一歩匍匐前進で慎重に近づく。鹿から十メートル付近迄近づいた時、僕はいきなり起き上がり、大声をあげながら鹿に迫っていった。鹿は即座に反応した。僕から見て斜め左上の方向へと駆け上がっていく。

(そっちはマズイんだよ。綾子に叱られる)

僕は投擲の構えに入る。鹿の動きを予測し、それに風向きを考量に入れて力加減と方向を決める。狙いは遁走している鹿の少し前あたり。当てる必要はないから気は楽だ。リラックスして投げたのが良かったのか、槍は見事に走っている鹿の一メートル前付近に落ちる。鹿は慌てて向きを変え、綾子の狩り場へと向かった。

(あとは頼んだぞ)

響く銃声。先頭を走っていた鹿が吹っ飛び、斜面を転げ落ちてくる。残りの二頭はそのまま斜面を駆け上がる。撃つのかな、と思って見ていたが銃声はしない。どうやらこの二頭は見逃すようだ。

「乱獲はしないってか」

そう軽く呟いて、僕は山肌を滑る鹿の後を追った。


鹿を追って斜面を下る。鹿は凄い速さで滑っていくも、やがて途中の岩がその滑落を止める。追いついた僕の目の前で、まるで此方を威嚇する様に鹿が首を上げた。角がある。雄鹿だ。

「生きているのか」

見ると背中が赤く染まっている。急所ではないからだろう。鹿の動きには心なしか力が感じられる。

「撃つ瞬間足が痛んでな、狙いを外してしまった」

振り向くとライフルを手にした綾子が立っていた。一発で仕留められなかったのが面白くないのか、その口調にはどこか悔しさがにじんでいる。

「失敗は誰にでもあるよ。次外さなければいい」

僕の下手な慰めに、綾子はその柳眉を逆立てる。

「次があるなんて保証はどこにある?」

反論できずに言葉を飲み込んでしまった僕を前に、綾子は軽く息をつき、その目尻を和らげる。

「まぁ、いい。丁度いい機会だ。獲物が生きていた場合の扱いを教える」

そう言って綾子は、銃を岩に立てかけて、腰に差していた刃長が二十センチくらいのナイフを抜いた。

「最初は血抜きをする」

「血抜き?」

聞きなれない言葉に頭をかしげている僕を、横目に捉えつつ、綾子が鹿に近づく。

「文字通り獲物から血を抜くんだ」

「何でそんな事するのさ」

足下で鹿が痛みのあまりもがいている。一刻も早く痛みから解放してやらなければならない事を知りながらも、僕は好奇心を優先させてしまう。人間というやつは自分勝手で、残酷で、利己的だ。

「理由は二つ。一つ目は体温を素早く低下させる為だ。体温が残っていると、腐敗がそれだけ早く進むんだ」

「なるほど。もう一つは?」

「後にしろ。鹿が苦しんでいる」

痛みのあまりその身をよじらせている鹿を見て、胸の奥に押し込んでいた罪悪感が大きく跳ねる。小さく唇を噛む僕を前に、綾子がナイフを鹿の首筋に当てる。

「ピーッ、ピィーーーーーーッ」

迫りくる死に恐怖した鹿があげる悲痛な叫び声。それが持つ抉られる様な響きにいたたまれなくなり、僕は思わず顔を背ける。

「北斗!」

綾子からの一喝。見ると綾子の背中が怒りで波打っている。何故僕が目を背けたのが分かったのだろう?こいつは背中に目でもついているのか、と半ば本気で思う僕の目前で、綾子がその身を怒りで滾らせる。


北斗、お前はこの鹿を食べるのではないのか?

北斗、それが何を意味するのか分からないのか?

北斗、この鹿はお前を生かす為に、一つしかないその命を捧げてくれるのだぞ。北斗、命を頂く身として立場として、今お前がしなければならない事はなんだ?


そうだよな、綾子。僕は己の行為を心の底から恥じた。


今から僕はこの鹿を殺して食べる。そしてその血肉を通して命を貰う。だから、それに関わる一切の行為から目を背けちゃだめだ。どんなに辛くとも全てを見届ける。それが命を捧げてくれた鹿に対する礼儀だから。絶命の瞬間から目を背けるなどとこの鹿に対する冒涜以外の何物でもない。僕はしっかりと鹿に向き直り、言葉短く言う。

「ごめん綾子。もう大丈夫」

そんな僕に綾子は何も言う事無く、もう一度ナイフを鹿の首筋に当てる。

「ピィィィィィィィィィィィィィ!」

望まぬ死を受け入れざるを得ない鹿の表情と最期の叫びが僕の心を激しく揺さぶる。どうにかして明後日の方へ飛びたがる目を意思の力で抑えつけ、僕は命を奪う者としての責務を果たす。

「ピィッ!」

刃が首筋をえぐった瞬間、鹿は一瞬だけ悲鳴を上げ、そしてぐったりと動かなくなった。その瞳にはまだ光は残っているものの、どこかうつろですぐにでも消え入りそうだ。綾子が刃を引き抜く。赤く染まった傷口は静かだ。特段の変化がない事に訝しみ、先程迄の戸惑いもどこへやら、傷口に顔を近づける僕。その瞬間

「うわっ!」

僕は思わずのけぞる。傷口から鮮やかな色の大量の血液が溢れ出て来たのだ。

「放血を十二分に行う事が品質の良い肉にするための必須条件だ」

そう言いながらナイフの血のりを鹿の前足の毛皮で拭う綾子。命を奪った直後だというのに、その手付きには寸毫の乱れもない。これは凄い事なのか、それとも残酷だと眉をひそめる類のものなのか、僕には分からない。千路に乱れる心を持て余す僕を前に、綾子のレクチャーは続く。

「放血が十分でないと臭くクセのある肉質になってしまう。あと、今回の獲物は大人しかったが、大体は獲物は大暴れする。あまりにも抵抗が激しい時は、獲物を固定するために足や首にロープをかけてひっぱり、保定しろ」

綾子の口調は淡々としていて、その瞳には何の色も浮かんでいない。まるでロボットの様なその様子から、直感的に彼女の心情の一端を垣間見る。

(心を殺しているんだな。一々同情していたらやってられないって事か)

生きるとは綺麗ごとではない。不意にそんな一文が心に浮かぶ。

「聞いているのか?」

新たに得た悟りに思いを馳せている僕に、綾子が鋭い視線を向けてきた。

「あ、ああ。すまない。聞いているよ」

命を扱う現場での上の空は失礼に当たる。集中せねば。僕は気を取り直し、綾子に向ける目ん玉に力を込める。そんな僕を見て軽く頷いた綾子は、鹿の傷口を指さして言った。

「放血箇所は、心臓上部の頸動脈だ。位置で言うとこのあたりだ」

そう言って綾子は鹿の首と胸の境目辺りを指さす。当然そこには先程綾子が抉った傷口があった。

「刺す時は鎖骨の中心からいくんだ。ポイントは二つ。一つは速やかに血管以外の組織を出来るだけ損傷しない様に行う事、もう一つは放血の為の刃の差し入れ口は出来るだけ小さくし、必要最小限にする事。それと放血の際は足から吊るしたり、傾斜で頭側を下にしたりして、血が流れ落ちて行く様にする事。分かったか」

「分かった」

僕の答えに綾子が形の良いその眉を寄せる。

「ほう、分かったのか。ならもう出来るのだな」

「いや、いきなりは無理だよ」

「なら何故『分かった』などと言った?」

うっ、と言葉に詰(?)まる僕。酢を飲んだ様な顔で立ち尽くす僕に、綾子が追い打ちをかけてきた。「都会ではどうだか知らないが、ここにいる間は『分かる』『出来る』は同じ意味で使え」

綾子が怖い。彼女が纏う、まるでカミソリの様な空気にひたすら圧倒される僕。命をその手で扱う綾子は今、真剣そのものだ。そこに命の重みと尊さを感じ、自然と背筋が伸びるのを感じる。

「分かった。気を付けるよ」

そう言って僕は、足元に横たわる鹿に感謝の眼差しを向ける。いつの間にか血の奔流が止まっている。出きったのかな、と思った瞬間、またドバっと溢れてきた。どうやら頸動脈の血というやつは、ダラダラ流れるものではなく、一定の間隔を隔てて周期的に溢れ出すものらしい。

「血ってダラダラと流れるんじゃないんだな」

心臓から山肌へとかえってゆく血を見ながら僕は呟く。

「心臓は拡張と収縮を繰り返しながら全身に血液を送る。自然と血の流れもそれに沿ったものになる。別に不思議な事ではないだろう」

そう言って綾子が流れ落ちる血をその人指指ですくい取り、それをぺろりと舐める。いつの間にか溢れ出る血がどす黒くなっている。鹿はまだ息があるのか、時々ピクリ、ピクリと動く。

「血抜きの理由二つ目」

綾子が言う。

「解体個所を汚さない様にするためだ」

「どういう事?」

首を傾げている僕に、綾子が言う。

「解体作業では本体を部分肉にしていくのだが、その過程で太い血管を切断する。この時そこに血管内に血が残っていると肉に付着してしまうんだ。北斗、お前も知っての通り、血には沢山の栄養素が詰まっている。その為血が付いた場所は細菌が繁殖しやすくなり、腐敗臭を出す原因になってしまうんだ」

成程なぁ、と僕は大きく頷く。全く、本当に何も知らん事だらけだ。それにしても、と思う。世界は『学び』に溢れている。何も無い大自然の中ですらこれ程の『学び』があるのだ。物資と人で溢れている都会なら、その量は膨大なものになる筈。なのに何故、僕は都会から何一つ学べなかったのだろう。何故僕は二十年以上も無為に過ごしてしまったのだろう。これは社会構造の問題なのか、それとも僕の心の問題なのか。

「暫くは私がやるのを見ろ。十数回も見れば自分の中で朧気ながら形が出来る。後はそれに沿えばいい。心配するな。数をこなせばいい誰でも出来る様になる」

そう言って完全に動かなくなった鹿を軽々と担ぎ上げる綾子。鹿の瞳からはいつしか光が消えていた。生きるとは綺麗事ではない、とふと思った。人間は他の他の生き物の命を奪わなければ生きていけない生き物だ、と頭では分かっていたが、今初めてその業の深さを実感した。


これまでに奪い取ってきた命と、これから奪い取るであろう命。


それらに見合うだけの男に、僕はなれるのであろうか。


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