第十一幕
北斗
「傷が痛む。もっとゆっくりと歩かんか」
「そんな事やっていたら日が暮れちまぅ。あと三十分程で暗くなる。それまで帰らないと」
あれから熊を追っ払った後、僕は綾子を担いで山道を降りていた。背中一杯に感じる女体の柔らかさに男としての喜びは覚えるも、疲れのせいか股間は反応しない。
辺りが少しずつだが確実に暗くなり始めている。僕は歩を速めた。
「なぁ」
綾子が声をかけてくる。その声色にはいつもの様な居丈高な感じはなく、どこか弱々しい、縋り付いてくる様な響きがある。
(この女こんな声を出せたのか)
内心で湧き起った驚嘆を悟られぬ様、意識して素っ気ない反応をする。
「なんだ?」
「何で危険を犯してまで私を助けに来た? 私はあの時お前を助けなかったのに」
『あの時』とは例の崖の一件らしい。
「そりゃ僕が人間だからだろ」
事も無げに言う僕。背後で綾子が息を呑む気配がする。僕は更に言ってやった。
「そしてお前も人間なんだぞ」
綾子から返事はなかった。
夜のとばりが山を包み込む寸前にどうにかして小屋に辿り着く。囲炉裏の横で疲れのあまり大の字に寝転ぶ僕の隣で、傷の手当てに勤しむ綾子。傷口を綺麗な水で洗い、ドロリとした液体を傷口に塗っている。そして清潔な包帯で傷口をギュッと縛った。手当を終えたあと、僕の顔を凝視する綾子。その視線に何とも言えない居心地の悪さを感じ、思わず声をあげる。
「何だよ」
「あの槍は自分で作ったのか」
「ああ。時間は山程あるしな」
更に問いかけてくる綾子。その声に何やら親しみのようなものを感じるのは気のせいだろうか?
「よくあの距離で当てられたな。風下だったぞ」
「練習の賜物さ」
綾子は感心したように僕を見ている。
「お前、いや北斗」
僕は思わず綾子の顔を凝視する。
「明日から狩りを手伝ってくれないか? 今の私は素早くは動けない。お前の手助けが必要だ」
何を今更、散々断っておいて何言いやがる! と一瞬言いかけるも、彼女の真摯な口調が僕のチンケな感情を溶かしてゆく。僕は上体を起こし、彼女と目線を合わせて言った。
「良いけど条件がある」
「なんだ?」
「獲物は平等に半々に分けること」
「いいだろう。当然の事だ。それだけか?」
「それともう一つ」
僕は人差し指を立てつつ言った。
「狩りやり方から獲物の捌きかたまで、一通りの事を教えて欲しい」
綾子は不思議そうな顔で聞いてきた。
「お前はずっとここで生きるつもりなのか」
「ずっとかどうかは分からない。だけど、暫くは山で暮らしたい」
「何故だ? 都会の方が便利だし楽しいだろうに」
僕は胸中の思いを苦労して言葉に変換し、口にする。
「確かに都会は便利だし楽しいよ。だけど窮屈なんだ」
「窮屈? 住まいが狭いという事か?」
くりっと首を傾げる綾子。少しドキッとする。可愛い娘がそれをやるのは反則だ。どうしたんだろう、いきなり。今までそんな事やらなかったのに。彼女の態度の変化に戸惑いつつも、それを表に出すことなく話す僕。
「そうじゃない。都会で生きる事自体が窮屈だと言っているんだ」
「よく分からん。あんなだだっ広い所で生きていながら、何故窮屈なんて言葉が出る?」
心底不思議そうな綾子の様子から、説明の必要を感じ、僕は順を追って内心を詳らかにしてゆく。
「都会は数えきれないほどの箱があってさ」
「箱?」
「うん、らしさ、とかこうあるべきだ、みたいな空気と言い換えてもいい。何をするにもこれに合わせなければならないんだ。例えそれが自分の意志に反するものであっても」
「嫌なら従わなければいいだけのことではないか?」
「そんな事したら大変だ。『和を乱す奴』と何やら訳の分からんレッテルを貼られて、あっという間に村八分。各段に生きづらくなる」
「・・・・・・」
呆れているのか驚いているのか分からないが、無言の綾子。そんな綾子に僕は言った。
「だから生きるために皆自分から箱に入るんだ。狭くて窮屈な箱にね。ぎゅうぎゅうとせまっ苦しい箱の中で、出たいと思いながらも誰一人出ることなく皆身を縮めて生きている」
「・・・・・・」
無言で、だけど真摯な表情で僕の話を聞いてくれる綾子。傷が痛むのか、時々顔をしかめながら。そんな綾子を前にして僕は続けた。「右へ倣えで皆で箱の中に入り、その窮屈さを右へ倣えで皆でひたすら耐える。その異様さがどうしても僕にはなじめなくて、気づいたら立派な社会的不適合者になっていた」
綾子が一瞬口を開きかけるも、何やら思い直した様に小さく首を振り、再び傾聴の姿勢に入る。
「でもここは違う。何をやっても自由だし、なにより『喜び』がある」
「都会には喜びはないのか?」
興味深そうに聞いてくる綾子。表情から推測するに彼女は僕の話に興味を持ってくれているようだ。僕は続けた。
「ない。都会にあるのは『楽しさ』だけだ。『楽』という感じが現わしているように、楽に手に入るけどそれは心や体には響かない。心体を震わせないものを『喜び』とは言わないと思う」
「『楽しさ』と『喜びか』。言われてみると確かに別物の様な感じはするな。どう違うのかは上手く言えないのだが」
綾子が大きく頷く事で、僕の主張に賛意を示す。紡いだ言葉を受け取ってくれる人がいる。
これが『幸せ』ってやつなのかな、と深いんだが浅いんだかよく分からない気付きをを胸に、僕は続ける。
「ここには何もない。電気ガス水道ネットコンビニスーパー全てが無い。全て自分でやらなければならない」
僕は傍らに置いていたスマホの画面をのぞいてみる。電池残量五十三パーセントで当然圏外。充電せずに使い続けたら、これはものの数時間でただのガラクタになる。こんなもの後生大事に持っていた自分が何やら急に阿保らしくなり、気付いたら手にしていたそれを部屋の隅へと放り投げていた。都会の生活においてはありえない行動だが、不思議と後ろめたさはない。それどころか爽快な感じがするのは何故だろうか? 僕が投げたスマホを横目で追う綾子を尻目に、僕は続けた。
「ここでは住まいも食糧も生活道具も全て自分の力で揃えなければならない。出来なければ死ぬだけだ。厳しくて大変だけど、ここでの生活には心体を震わせる『喜び』があるんだ」
「そうか」
綾子がとても嬉しそうにニコリと微笑んだ。綾子と僕、初めて通じ合った二人をまるで祝福するかの様に。居住まいを正し、改めて綾子に向き直る。そんな僕を前に、彼女はただ微笑んでいる。
「生まれて初めて味わう、この『生きている』という感覚、この五感ごと体が震えるダイナミックな感覚をもっと味わいたいんだよ」
「分かった。教えてやる。その前に飯にしよう。流石に腹が減った」
僕のお腹も悲鳴を上げた。その音の大きさに綾子はクスリと笑った。