アロマテラピー
毎日が色塗り。今日も今日とて色塗りだった。絵の具をもらって、何等分かされた巨大なパネルの一枚へと足を運ぶと、そこに有木亜梨沙がいる。早くももう真面目に色塗りをしているが、今日は友達といっしょらしい。三人で作業をしている。有木の友達は文化部で、活動のある日とまったくない日があり、今日はオフみたいだった。
じゃあ俺は一人で塗り塗りするかとその場を離れようとしていると、有木に見つかる。「丹羽、こっちおいでよ」
「え、いいよ。友達もいるし」女子に囲まれると息苦しい。
しかし友達の子は「大丈夫だよ」と言ってくれる。
「こっちで塗れって」有木がパシパシと地面を叩く。
「じゃあわかったよ」
と有木の隣に屈もうとすると「バカ! 横来るなよ」と言われる。
「いちいちバカって言うな」
「バカだよ。臭いから近くには来るなって言ってんじゃん」
「あーはいはい」
そうだった。有木は姫川さんと逆で、俺の匂いを強烈に憎んで忌み嫌っているんだった。普段は有木の方から適切な距離を取ってくれるから失念していたけれど、俺は臭すぎて有木に近づけないんだった。
「ひどー」と有木の友達が引き気味に言う。「亜梨沙、言い方きつくない?」
「いや、マジで臭いから。犯罪者として糾弾されてもおかしくないぐらい臭い。地獄の業火で煮詰めた罪人達のスープの匂いがする」
「ふふ」とちょっと笑いながらも、友達はさりげなく鼻をスンスンさせる。「臭くないけど? 亜梨沙、鼻おかしいんじゃない?」
「あたしは嫌いなの」と有木ははっきり言う。「鼻がおかしいとかおかしくないとかの話じゃなくて、あたしが個人的にすごく嫌いな匂いなの。あたしの心が『臭い』って叫んでんの。だからどうしようもないんだよ」
「好き嫌いは仕方ない」と俺は肩をすくめる。
「……じゃ、丹羽はそっち側で作業して」
「はいよ」
有木の友達二人は呆然としている。「匂いは嫌いなのに仲はいいんだ……」
「臭くても俺自身に罪はないし」
すぐに「臭いんだったらあんたにも罪はあるでしょ」と有木から言われる。「罪はあるけど話してあげてるだけじゃん」
「はいはい」
だけど、自分で言っていて思った。臭くても俺に罪がないんだとしたら、反対に、いい匂いだとしても俺に功績はないのだ。だからそれならば、有木の言うように『臭いのは俺のせい』ってことにしておいてもらった方がいい。それはつまり、『いい匂いなのは俺のおかげ』なのだから。
有木の友達が気を遣って、「丹羽くん? 亜梨沙、もともと口悪いから、気にしないでね」と言ってくれるのもありがたい。まあ気にはしていない。姫川さんの逆を行く子なんだ、と思えば気にもならない。だけど気を遣ってもらえること自体は嫌じゃない。
「俺は体が臭いけど、有木は心が臭いんだね」
「絵の具かけるよ?」
有木は本気で怒った顔をするけど、これくらいの言い合いなら平気だ。有木との距離感もなんとなく掴めてくる。
今日は有木の友達も参加していたので俺はあまり喋らず、有木達の会話を聞くともなく聞いているばかりだったが、それでも時間が過ぎるのは早く、あっという間に解散となる。
色塗りは汚れてもいいよう、体操服でおこなう。俺は二年四組の教室で着替えているので、作業後、いったん校舎へ戻らなければならない。体操服のまま下校してもいいんだけれど、あんまりそういう生徒はいないし、俺も右に倣う。
が、教室に戻ると机に置いておいたはずの俺の制服が消えている。あれ?教室間違えたかな? あるいは今日は別の場所で着替えたんだっけ?と困惑しているとスマホが鳴る。
姫川さんからメッセージが入り、『制服を返してほしければ生物講義室まで来よ』だそうだ。マジか。意外と可愛らしいことをするんだな、と俺は一人笑い、荷物をまとめて別棟を目指す。姫川さんと連絡先を交換しての、初のメッセージだった。あれが。
学校祭の準備で忙しいのもあるが、まあたぶん気まずいのもあって姫川さんとはあまり喋れていない。最近は気まずくなってばかりだ。俺の方もなんか、姫川さんが六海皐月といっしょにいるのを見ていると心に来るものがあり、少し意気消沈しているって部分もある。
渡り廊下から別棟へ移り、しんとした廊下をすたすた歩き生物講義室へ。そっと戸を開けると、姫川さんが着席して制服の匂いを嗅いでいる。有木から臭い臭い言われたあとに姫川さんを見ると、よりいっそう異常的に映る。
姫川さんはズボンの方の匂いを一生懸命嗅いでいたが、俺を見とめると素早く隠す。でも俺に気付くまでに三十秒ほどかかったので素早く隠す意味がなかった。「遅かったね、丹羽くん」
「姫川さんも俺に気付くの遅すぎるよ……」
「え、すぐ気付いたよ」
俺はツッコまず「周りを警戒しとかないとダメだよ」と指導する。
「はーい」と笑って、姫川さんは目を伏せる。
「……元気ない?」あまりやらない仕草だったので、俺は心配になる。「どうかした?」
「ううん」と姫川さんは首を振る。「丹羽くん、ちょっとだけ時間ある?」
「たくさんあるよ」
「ふふ。そこ、座って?」姫川さんが自分のひとつ前の座席を指差す。「そこに、正面を向いて座ってね」
「椅子を引かないでよ」
「しないよ」
「ん」俺は指定された座席に腰かけ、黒板の方へ体を向ける。「座ったよ」
後方から姫川さんが俺の両肩に手を置き、俺の背中……首の根本辺りを嗅ぐ。鼻先が触れたのですぐわかる。「……ちょっと疲れちゃった」
「あ、応援係?」
「うん」ため息混じりに姫川さんは言う。「みんな熱心なのはすごくいいと思うんだけど……譲らないし、すぐ言い合いになっちゃう。今日なんか三年生と口論になって、現場はピリピリしちゃうし、私なんて『やる気ないんだったら誰か他の人と代わってもらって!』って言われちゃったよ」
「あらー」さすが学校祭の花形役割。空気感が、色塗りとはえらい違いだ。殺伐としている。「大丈夫? 代わろうか?」
「ふふっ」とちょっと笑われる。「丹羽くんも向いてないと思うなあ。ホントに、やりたい人しかできないよ、あんな仕事」
「姫川さんは推薦だしね」
「ホントに。ね?」
「……六海もいるんでしょ?」
「……え?」
「あの……姫川さんの彼氏も、いるでしょ? 庇ったりしてくれないの?」
「ああいう場で庇うのも、ちょっと違うっていうか、なかなか難しいんじゃないかな? 私がイマイチ乗りきれてないのはたしかだし」
「でも姫川さんは進んで応援係やってるわけじゃないじゃん? 俺だったら、空気読まずに庇っちゃいそうだな……」目の前で姫川さんが何か言われている状況にそもそも耐えられない。
「…………」
「まあクラスの応援係の人に相談してみた方がいいんじゃない? 姫川さんが引き続きやるやらないも含めて」
「うん……」
「今日はゆっくりお風呂にでも入って、早く寝なよ」
「そうだね」姫川さんの鼻先が俺の首元を押してくる。「……丹羽くんといっしょにお風呂入りたい」
「え!? はい……?」俺の背筋が伸びる。
「あっ、へ、変な意味じゃなくって、丹羽くんの匂いを嗅ぎながら湯船に浸かりたいなって」
「ああ、うん」まあそういう意味だろうな。「ハンカチとか、あるでしょ?」
「うん。ハンカチはお風呂に持って入ってるけど」
「入ってるんだ……」改めて告げられるとなんか照れる。「あ、だから匂いもすぐに消えちゃうのかな。浴室に入れてると消えやすそうじゃない?匂い」
「そうかも」姫川さんが呼吸なのか嘆息なのか、「はあ」と言う。「だから今、丹羽くんの匂いを覚えさせて」
「あ、いいよ。どうぞ」俺は依然として背筋を伸ばし、じっとしている。
「癒しだよ」と姫川さんは囁くように言う。「ありがとうね、丹羽くん。ホントに」
「いえいえ……」
「アロマテラピーだね」
「そんなに? それはすごすぎるね」
「すごすぎるよ、丹羽くんは。知らなかったの?」
「知らなかったかも」と俺。「俺のこと、メッチャ臭いって言う人もいるんだけど」
姫川さんが俺の肩をぐっと掴む。「誰? 誰がそんなこと言うの? 許せないんだけど」
「あ、いいんだ。友達が言ってるだけだから」姫川さんの唐突な剣幕に、俺は笑って肩をすくめておく。「平気だよ。気にしてない」
「こんなにいい匂いなのに。嗅覚が異常なんじゃないかな?その人」
「それは……」
姫川さんもだと思うけれど、まあ有木もベクトルこそ逆なものの似たような感じだし、何も言わないでおく。
「ふう……」姫川さんが力を緩め、またリラックスを始める。「ごめん。ちょっとだけって言っておいて、けっこう時間使ってる……」
「まだ十分ほどだよ」
「十分も丹羽くんを引き止めちゃってる……」
「一時間くらいは大丈夫」と俺は嘯く。実際はもっといけるけれど。「……ちなみに、なんで後ろから嗅ぐの?」
「……後ろからの方が嗅ぎやすくない?」
「どうだろう」
「……前からだと恥ずかしいから」と姫川さんは本当の理由をすぐ白状する。「力が抜けたら、また丹羽くんに迷惑かけちゃうし」
「迷惑じゃないよ」俺は我慢できなくなり、椅子をずらし、姫川さんの方に体を向ける。
姫川さんはとっくに蕩けていて、眠ってしまいそうな目付きになっている。「あ……ダメだよ、丹羽くん」
「大丈夫だよ」と俺は言い、左手を姫川さんの鼻先へ持っていく。姫川さんはその左手に対して自分が嗅ぎやすいように顔の向きを変える。俺は右手で姫川さんを撫でながら髪の匂いを嗅がしてもらう。「……姫川さんもいい匂いする」
「ちょ、ね、ねえ、ダメだよ……丹羽くん」
「なんでダメなの?」
「汗、いっぱい掻いたから……嗅がせられない」
でも姫川さんはもうぐったりしていて動けない。俺も躊躇なく姫川さんの髪に鼻をつける。「汗の匂いも嗅ぎたい」
「に、丹羽くん、変態じゃない……?」
俺はやんわり笑わされる。「姫川さんに匂いのことで何か言われたくないよ」
「丹羽くん、それに、私にあんまり触っちゃダメ……」
「彼氏に怒られる?」
姫川さんは頷く。「怒られる……」
「じゃあ秘密にしといて」俺は気にせず姫川さんを撫で撫でする。気にせずは嘘だが、六海に負けたくないし、最近は姫川さんが六海といっしょにいる光景ばかり見たり思い浮かべたりしてしまっており、俺はだいぶざわざわしている。「姫川さんに触りたい」
「丹羽くん、すごい強気なんだけど……」
姫川さんこそ、大胆すぎるし、俺も日に日に積極性が上がってきてしまう。可愛らしい、付き合いたい相手にこんなことをされて、無心でいられる人間なんていない。「姫川さんが俺の匂いに夢中なのといっしょで、俺も姫川さんに夢中だから」
「そんなふうに言われると、断り……づらいじゃない」
「断らないでよ。拒絶しないで」
「拒絶なんて、しないけど……」
俺は姫川さんの髪の毛に鼻を埋めて濃密な香りを全部吸う。姫川さんの甘いだけじゃない匂いが鼻孔の内側をくすぐりながら体の奥へ入っていく。「おかしくなりそうなんだけど」顔を姫川さんの髪にくっつけすぎているせいで、唇が姫川さんのおでこ辺りに触れている。俺はこの唇をもっと下へスライドさせていきたい。「頭おかしくなりそう……」
姫川さんが「私も」と言い、俺の左手を握ると、上半身をぐいっと前に出してきて、今度は俺の胸元の匂いを嗅ぐ。カッターシャツのボタンが開いている襟元を覗き込むようにして鼻先を持ってくる。「はあっ、また、のぼせて気絶しそう……っ」
姫川さんは上半身を机に乗っけるようにしたまま、俺の胸元で、がくりとうなだれる。俺はその間も姫川さんの髪を堪能して頭にこっそりキスしていたけれど、姫川さんが動かなくなったのでさすがにもうやめる。「……姫川さん?」
「…………」
なんとなく「姫ちゃん」と呼んでみる。
「……ん。意識飛びそう」
「姫ちゃん」
「ふふ……どうしたの?丹羽くん」
「姫ちゃんって呼んでいい?」
「……みんなの前でも?」
「や、二人でいるときだけ」
「ん、いいよ」
「わあ……」嬉しい。「姫ちゃんはなんでトランスするんだろう」
「トランスって……してないよ」
「おかしくなるじゃん、いつも」
「いい匂いだから」と姫ちゃんは言う。「あと、たぶん緊張してるからっていうか、恥ずかしいからだと思う。こう、気持ちが舞い上がって、わーってなるんだと思う」
「そっか」
「……丹羽くんもおかしくなりそうって言ったよね?」
「俺は……もう男として襲いたくなるってこと。姫ちゃんのことを」
「…………」
「襲わないよ? 絶対に襲わないけど、それくらいの気持ちになってるってこと」
「……私はどうなんだろう」
「気持ちが舞い上がるんでしょ?」
「そうだと思うんだけど、私は男として、女として、襲いたくなる……とか、あんまりよくわからないから。そんなふうに思いもしてなかったっていうか」
「…………」
「丹羽くんの匂いを嗅いでると、ふわ~ってなったり、ぐわーってなったりするけど、それはそれだけで完結する感覚なんだと思ってたけど……違うんだとしたら、私はどういう気持ちなんだろう?これ」
「…………」
俺が黙って聞いていると、姫ちゃんは「あ」と言い笑う。「一人でぶつぶつつぶやいてたね。ごめん」
「ううん。気持ちいいんでしょ?姫ちゃん」
姫ちゃんは頬を少し赤くして、迷うようにしてから「うん」と頷く。「それはそうだよ?」
「じゃあそれでいいんじゃない? 癒されてリラックスできるってことで」
「うん」姫ちゃんはパッと笑う。「そうだ。癒されたよ?丹羽くん。今日の嫌なことも、全部どっか行っちゃった」
「よかった」
「いつもありがとう」
「いつでも呼んで」
「うん。でもあんまり……私の匂いとか嗅がないでね。私に触るのも……」
俺は冗談めかして首を振る。「無理」
「だよね」と姫ちゃんも半ばあきらめている。「私だけが一方的に丹羽くんを頼ろうなんて、ホントに勝手だもんね……」
「本気で嫌なときは本気で拒否して」と俺は言っておく。「そしたらそれ以上は絶対なにもしないから。姫ちゃんには嫌われたくないし」
「丹羽くんを本気で跳ねのけるなんて、私にはできないかもしれない」と姫ちゃんは苦笑する。「私の方こそ、丹羽くんに嫌われたくないし」
「俺が姫ちゃんを嫌いになることは絶対にないから」
本当に。こんな子をどうやって嫌いになればいいんだろう? 今も、許されるんであればこの子にあらゆる愛情表現をしたくてたまらない。俺の頭も少しずつおかしくなっているかもしれない。タガが外れてきているかもしれない。くたっとしたまま頬を赤らめている姫ちゃんを眺めながら、そう思う。