なんでも
あまり人目につかない方がいいということで、放課後、姫川さんを連れて別棟へ向かうが、別棟だって目立ちにくいとはいえ絶対に見つからない安全地帯ではない。他人から見られる確率は相当減るだろうけれど、万が一見られてしまった場合、見られてしまっただけで、不審な行動をしていなかったとしても大ピンチに陥るリスクを孕んでいる。なぜって『放課後、別棟に二人きりでいる』というのはそれだけで普通じゃないからだ。
そうはいっても、基本的にはほぼほぼ心配不要な聖域のはずだ。別棟の部屋を使用する部活は存在しないし、居残ってわざわざこんな辛気臭い場所で駄弁ろうとする生徒もいない。放課後の別棟に用事がある者がいるとすれば、それは我々のような怪しい人間達だけで、仮に、もし仮に鉢会ったとしても、お互い見て見ぬフリみたいな感じになるんじゃないだろうか。もちろん俺は誰にも見つからないつもりでいるし、見つからない努力を怠らないけども。
「姫川さんって、俺以外の匂いを好きになったこととかあるの?」俺は訊く。雑談だ。
「ん? ないよ」と姫川さんは答える。「そもそも匂いになんて興味自体なかったかな。いい匂いがしたらいい気分になると思うけど、私鈍感だから、いい匂いがしてても別のことに集中してたら、きっと気付かないままスルーしちゃうよ」
「そんな感じなんだ?」俺は拍子抜けする。「日頃から匂いに敏感なんだと思ってた」
「全然」と姫川さんは照れ臭そうに笑う。「あ、すごくいい匂いだ~何?これ……なんて思ったの、丹羽くんが初めてだよ」
「それは……なんだろう、嬉しいよ」
誇らしくすらある。もともと匂いフェチなどではない普通の女子を覚醒させたというのだから。
「私はびっくりだよ。こんなに気になって、こんなに夢中になるものがあるの?って感じ。匂いなんだよ?ただの。不思議だね」
「うん」そんな奇跡に俺は助けられているのだ。「ちなみに、他にフェチみたいなのある?」
「ふぇ、フェチ……?」
「匂いみたいに、好きでたまらないものとか何かある?」
「特にないかな」
「ふうん」
特殊な性癖は他にナシか。匂いに目覚めたのも、姫川さんの口振りだと俺と出会ってからだ。つまり、高二に進級してからだろう。
「何のチェック?」と姫川さんに笑われる。
「姫川さんの変態経歴チェック」
「変態じゃないからー。失礼だよ、丹羽くん」
「でも今日は一般人だったら喜ばない品物を持ってきたんだ」俺はポケットから満を持してハンカチを取り出す。一週間以上を俺と共に過ごし、充分なフレグランスをチャージされたはずのハンカチだ。「つまらないものですが」
「わあ~……ついに完成した?」姫川さんは両目を爛々とさせる。
「わかんないけど、とりあえずいったんこれで引き渡しってことで」
「これでいつでも丹羽くんの香りを楽しめるってことかあ」
「たぶんね」でも、これを渡してしまうと、俺自身は不要になってしまう。姫川さんの欲求がハンカチだけで事足りるなら、俺は次のハンカチにチャージをして、今のハンカチが力を失う頃に交換で新しいハンカチを手渡すだけでよくなってしまう。姫川さんとの交流機会は激減してしまう。姫川さんのリスクを考えると、当然この方法がもっとも無難で安全なんだけど、姫川さんに匂いを提供することが最終目標でない俺からすると望ましい作戦ではない。渡す直前に気付いてしまった。しかし前々から告知していて楽しみに待たせていたこのハンカチを引っ込めるわけにもいかない。「……ちょっと寂しい」
「え?」
「少し寂しくなるなって」
「あ、長い間いっしょにいたハンカチだから?」と姫川さんは全然違う。「丹羽くんの匂いが消えたら洗って返すよ」
「いや、それは全然構わないんだけど……ハンカチさえあれば姫川さんはそれを嗅いでれば満足じゃん? 俺とこうして会って話す時間も減るでしょ? そういうのが寂しいって」
姫川さんは俺からハンカチを受け取り、さっそく匂いを嗅ぐ。「あ~~、ちゃんと丹羽くんの匂いがしてる。これがあるだけでもだいぶ生活水準が上がるよ」と姫川さん。「でも、丹羽くんを直接嗅ぐのと比べたら頼りない匂いだよ?」
「え、そう? かなりチャージしたんだけど」
「本体には敵わないってことだよ」と姫川さんは知ったように言う。「だから私は、丹羽くんのとこにも行くよ? 丹羽くんの匂いを直接嗅ぎに」
「…………」
「丹羽くんは私に構うのが面倒だからハンカチを用意してくれたのかと思ってた」
「いや、そんなわけないじゃん」付き合いたいって言ってるのに。
「丹羽くんの匂いのこととなると、私はガツガツでしょ? だから丹羽くんも疲れるんじゃないかなと思って」
「なんにも疲れないよ」むしろこれが楽しいくらいなのだ。俺にとっては。
「じゃあよかった」と姫川さんは少しホッとしているようで、やんわり微笑んでいる。
「ガツガツしてていいよ」
姫川さんはにっこりし、「それに私と丹羽くんはもう友達じゃない?」と言ってくれる。「匂いのこととは無関係に、話そうよ」
「もう友達でいいの?」
「早い? 私は人見知りするから、滅多にないよ?こんなこと」
「まあ……異常な状況を乗り越えた仲だからかな……?」
こっそり体操服を嗅ぐ女子、知らない間に嗅がれていた男子、その邂逅……。
「異常な状況って、なに?」と姫川さんは頬を膨らませるが、いい加減自覚を持ってもらいたい。
まあ人目に気を払ってくれればそれでいい。
「今日はそんな感じで。ハンカチはパワーが弱まってきたら教えて?」
「あ、うん。わかった」
「うん。そしたら帰ろうか」
別々にだ。この間は途中までいっしょに帰ってしまったけれど、あれを何度もやるのはまずい気がする。匂いがどうとかより、噂になってしまったら、いずれ六海皐月から反感を買いそうで恐い。今はまだそんな段階じゃない。
「ねえ丹羽くん」と姫川さんは少し大きい声で俺を呼ぶ。自分の声のボリュームに自分でビクッとなっている。「いつもありがとう。いろいろしてくれて」
「ううん。好きでやってるから気にしないで」
「や、でも時間を使ってもらって申し訳ないよ」
「全然」
姫川さんといっしょにいられる時間なので、『使って』いる感じじゃない。どちらかというと必死に確保している感じだ。
「私にもできることがあればするから。なんでも言ってね」
「え、なんでも?」今、なんでもって。
「なんでもって、死ねとかは嫌だよ?」
「小学生かよ。言わないよ、そんなの。姫川さんに死んでほしくないし」
「ふふ……例えばだけど、丹羽くんの趣味のこととか。私に手伝えることがあればだけど」
「趣味なんてないしなあ」
「へ、変な趣味のこととかでもいいよ……」姫川さんはおずおずと申し出てくる。
「マジで!?」
「わ、私ができる範囲でだよ!? 私、丹羽くんにばっかり変なことさせてる気がするから。丹羽くん、変わった趣味とかある?」
「ある……って言いたいんだけど、ないんだよなあ」
いや、ここで何かをでっち上げられるような男になれればたいしたもんなんだが、急には思いつかないし、姫川さんに対して嘘もつけない俺なのだった。
姫川さんは自分から言っておきながら安堵した様子だった。「そうなんだ……」
「…………」
だけど、こんなチャンスを逃していいんだろうか? いいはずない。姫川さんのお返しはもしかしたら今日だけかもしれないし、明日以降も継続なんだとしても日を置くとなんだかお願いしづらくなりそうだし、今、できれば何か、姫川さんにしてもらいたい。『付き合って』なんて言ったって当然却下だろうし、姫川さんの好意に感謝して弁えた発言をしなくちゃならない。
ぐるぐる悩んでいると、姫川さんが「とりあえず今日は帰ろっか」と締めにかかる。「ハンカチ、ありがとう。これで自宅でも匂いを味わえるね。画期的だよ」
「俺も……!」と俺は勢いよく言う。「姫川さんの匂い嗅ぎたい」
「え!?」
「ダメ?」
「ダメ……とは言えないよね」と姫川さんは苦笑する。「丹羽くんのはいつも嗅がせてもらってるのに」
「無理ならいいよ。姫川さんは女子だし、俺の場合とは全然違うよ」
「い、いや! 大丈夫……!」搾り出すように請け負う姫川さん。「でも、どうやって嗅ぐ? 今日は体操服持ってないし、ハンカチも私のだと毎日洗ってるから匂いしないだろうし……」
「あの、か、体の匂いで」自分で驚く。言ってから、よく言ったな!とおののいてしまう。
「か!? ど、どこ……?」
「どこならいい?」
「や、どこがいいかなー……」姫川さんは大変混乱しているようだ。「とりあえず丹羽くんが嗅ぎたいところを言ってみて。無理なら無理って言うから」
「…………」一番匂いがするのは腋とかだろうか? でも、それゆえに嫌がられそうだ。それに……そうだ。俺は匂いフェチじゃないから、クソ真面目に匂いがしそうな箇所を選ばなくたっていいのだ。例えば胸とか太ももを選んだって、匂いはあまりしないかもしれないけれど、違う意味で堪能はできるのだ。もちろん拒否される可能性も高いが。俺は悩みに悩んで「じゃあ、髪」と絶妙な部位を指定する。匂いはしそうだけど、嫌がられにくいし下心も見とめられにくそうな部位。え? 違う? 「…………」
果たして姫川さんは「か、髪かあ……」と目を細めるが「わかったよ」と言ってくれる。そして、俺が嗅ぎやすいように頭を傾けて差し出すようにしてくれる。「はい、どうぞ」
「わあ……マジで大丈夫?」
「臭かったらごめん」
「いや、臭いわけないだろうけど……」
「いや! わけなくはないから! 期待しないでね……!」
「うん」唾を呑んでしまう。「いい?」
「どうぞ」
「…………」
マジか。自分でリクエストしておいて申し訳なくなる。女子の髪を半強制的に嗅ごうだなんて。今からでも中止したっていいんだし、中止したいような気もするけど、もう頭を差し出してくれている姫川さんに失礼なので、嗅ぐ。嗅がせてもらう。
俺は姫川さんの頭頂部に鼻をつける。あ、鼻が当たっちゃった。姫川さんも「!?」と体を震わす。でも文句は言わないし逃げもせず、健気で可愛らしい。
鼻から空気を吸う。と、姫川さんの髪や頭皮の匂いが一気に鼻孔を通過して体内に入り込んでくる。肺が姫川さんの香りを貯蔵し始める。え、メチャクチャいい匂い。シャンプーとかの香りもあるんだろうけど、甘酸っぱくて濃厚なコクがある。この酸っぱさやコクが姫川さんの汗ばんだ匂いに当たるんだろうか? 俺はシャンプーの匂いと姫川さん本来の匂いを仕分けしたくて、さらに注意深く吸う。まとめて吸い込まずに、小刻みに吸ったり出したりして姫川さんの細かい匂いまでを味わおうと努める。やばい。俺は姫川さんみたいな匂いフェチじゃない。姫川さんみたいに匂いの虜じゃないし、匂いに恍惚としたり意識を支配されたりしない。だけど姫川さんの匂いに関しては素晴らしいと断言できる。ただただ可愛らしい綺麗な匂いってわけじゃないのだ。汗っぽさもあるし、姫川さんの少し抜けている部分を表しているかのような、人っぽい匂いも間違いなく混ざっている。女の子の、本当はどうでもいい男子なんかに嗅がせてはいけない匂い……。
「おお……」
俺がため息をついたことで振動があったのか、姫川さんはビクリとし「丹羽くん」と俺を呼ぶ。体を嫌々と揺する。「丹羽くん、ちょっと、ちょっと……」
「あ、ごめん」
俺のいつの間にか姫川さんの頭を両手でガッチリ掴んで鼻先を思いきり髪の中に差し入れていた。熱中しすぎ。姫川さんの気持ちが少しだけわかる。
姫川さんは顔を真っ赤にして「ふぅ、ふぅ……」と息を吐いている。
その様子がいつもと何か違っていて、俺はたじろぐ。「ごめん。ついつい……」
「……私だってこんな大胆に丹羽くんを嗅いだことないのに」
「ごめん。すんません」俺は謝るしかない。「でも姫川さんも、俺の脛の匂い嗅いでたじゃん」
「あんなの一瞬だったし、脛なんてたいしたことないでしょ?」姫川さんはまだ呼吸が整わないようだけど、真っ赤な頬のままでちょっと笑う。「私の髪、臭かった?」
「臭いわけないよ」と俺はまた言う。「メッチャいい匂い! 俺は姫川さんみたいにトランスしないけど、でも姫川さんが夢中になる気持ちもちょっとわかった! いい匂いする!」
「もう……」姫川さんは恥ずかしそうにうつむく。「トランスなんてしてないし……」
「とにかく、いい匂い」嗅いだ相手が姫川さんだからってのは確実にあるだろう。俺の場合。だけど、なんだっていい。「ありがとうございました」
「あは」と姫川さんは笑い、うつむいたまま、両手で顔を隠す。「恥ずかし~。恥ずかしいよ」
「全然」
「全然って、私が恥ずかしいの」
「はは」可愛い。
「私も、それくらい大胆に嗅ぎたくなってきちゃったじゃない……」
「嗅いでいいよ」
「無理」とすぐ言われる。「今日は恥ずかしすぎて……私ちょっと今おかしいから」
「大丈夫? 別におかしくはないよ」
「おかしいよ」と顔を上げた姫川さんはまだ真っ赤で、呼吸も整わない。酸欠の魚みたいな変な呼吸の仕方をしている。
「……保健室行く?」
「平気。ちょっと座るね? 丹羽くん、先に帰ってもいいよ」
「いや、何かあったらアレだから、体調が落ち着くまでいるよ」
「ごめんね。ありがとう」
「や、俺のせいじゃん。それ」
姫川さんは別棟のとある講義室の椅子に着席し、静かにふるふると首を振る。
リスクを考慮するなら長居は避けるべきだが、姫川さんがこんな状態になってしまったならそんなの度外視だ。姫川さんを危ない目には絶対遭わせたくない。
それにしても、姫川さんの匂いがよすぎて、だいぶ強気に嗅いでしまった。あのときの俺の様子を客観的に省みるに、姫川さんを恐がらせてしまった可能性もかなり高い。俺は男子で、しかも姫川さんと知り合ったばかりの馬の骨だ。姫川さんに対して適切な距離感を心掛けるようにしなければならない。うつむいている姫川さんを眺めながら、そう反省する。
匂いはメチャクチャよかったし、お返しとしては最上だったけれども。