体操服を与える
体育があった日の放課後、すっからかんになった教室で姫川さんに体操服を嗅がせてあげる。あまりおおっぴらにやると危険なので、手提げのビニール袋を机の上に置き、口の部分を姫川さんの顔の方へ向けてやる。ビニール袋には体操服がみっちり入っているので匂いは充分に満ちているはずだ。
姫川さんは俺の席のひとつ前に座り、こちらを向いて体操服の匂いを吸う。目が虚ろで、口元に締まりがなく……体操服からなんか危ない成分でも発散されているんじゃないかと疑わしくなるほどに姫川さんはよくない顔をしている。よくないというか、いいんだけど、いいんだけれど、ちょっとエロい。俺が見ていて問題ない顔なんだろうか?と不安になるし、少し気まずくすらある。
俺は尋ねる。「姫川さん、臭くない?」
「ないよー」と姫川さんはぼんやり答える。「すごい……これを人目を気にせず嗅いでいいなんて、夢みたい」
「好きなだけ嗅いでいいよ」
「リラックスした状態で嗅ぐと……また一段と心地いいよ。森の奥の、滝壺の近くにいるみたい。疲れも取れる~……」
「大袈裟……」
「ホントにだよ」
「偉大だな、俺の匂い」
「偉大~……」
俺としては、こうして体操服を姫川さんの顔に近づけてやり姫川さんが黙ってそれをクンクンしているのを見ていると、なんかペットにエサを与えているみたいな気分にもなり複雑だ。複雑というか、嘘で、背徳的で少し興奮する。
「姫川さん、飽きない?」
「飽きないよ。ずっと嗅いでたいくらい……」
「さすがにいずれ飽きるでしょ」
飽きられてしまうとまずいが。
「飽きないって。この香りの中で生活したいもん。世界中の空気が丹羽くんの匂いだったらいいのに」
「他の人間が死んじゃうよ」
「死にはしないよ」
「どうだかな」
世界中の空気がこのビニール袋の内側だったら、けっこうな人間が生きていたくないと思うんじゃないだろうか。俺だって無理だ。
「でも」と姫川さんがうっとりしながらも言う。「実際にこの匂いが嗅げるのは、丹羽くんがこうして体操服を提供してくれてる間だけじゃない? いつでも好きなときに丹羽くんの匂いを嗅ぎたいよ」
「うーん」ハンカチは俺のポケットに入ったままだが、まだ十全なパワーは貯まっていない気がする。まだ出せない。「体操服は貸してあげられないしなあ。洗濯しないといけないし」
「そうだね」
「まあいろいろ考えとくよ」
「あ、ありがとう。ごめんね? 私の変な趣味に付き合ってもらって」
「いや、趣味……なのか?これ」
「なんだろう?」
「なんだろうな」
奇行? 変態行為? それらの言葉の方が適切な気もするが、言うと泣きそうなので黙っておく。趣味と言い張るのはポジティブすぎる。
喋っていると他人の気配を感知したので、俺は体操服を素早く下げる。「あ」と姫川さんが眉を困らせる。「な、なんで? なんで?」
「誰か来たよ」と俺が言うや否や、二年四組の教室にクラスメイトの女子達が何人か戻ってくる。危な。
女子が「姫~、何やってんの?」と話しかけてくる。
他の女子が「姫さ、最近丹羽くんと仲良くない? なんか怪しいんだけど」と鋭いことを言う。「二人で何してたの?」
「えっ、そ、それは、えっと……」姫川さんはすぐテンパる。
「仲良くはないよ」と俺が代わりに返す。「ちょっと勉強を教えてたんだ」
「え、机の上、なんにも出てないじゃん」とツッコまれる。
「もう終わり。今から帰るとこだよ」
「なんだ。そっか」と女子の人は納得してくれる。「でも、丹羽くんって頭いいんだね。姫に勉強を教えれるなんて」
「え」
なに? 姫川さんって賢いの? やべ。なんとなく俺の方が上みたいな口振りで誤魔化してしまったけど、よく考えたら俺なんて全然勉強できないじゃん。
俺は姫川さんを見遣る。姫川さんも俺を見て、「そうだよ。丹羽くんは頭いいんだから」と無駄に合わせてくる。
「へえ、すご。まあ勉強できそうな顔してるもんね」
「…………」それはなんだ? 地味ってこと? まあいい。なんでもいいや。俺は席を立つ。「そろそろ帰ろうかな」
「わ、私も!」と姫川さんも俺に倣うようにして立ち上がる。「じゃ、みんな。先に帰るね?」
「えー、姫も帰るのか。喋ってかない?」
「喋ってけばいいんじゃない?」と俺も勧める。
が、姫川さんは「用事があるから」と俺といっしょに教室を出る。「また明日ね。バイバイ!」
女子達と別れて、階段を下りる。少し怪しまれたが、匂い関連のことは特に指摘されなかった。まあ当然だ。体操服は最優先で除外したんだから。
姫川さんが俺の体操服を嗅いでとんでもない表情を浮かべていたなんて、やはり誰にも知られるわけにはいかない。俺ですらそう思う。姫川さんはただただ可愛らしいというイメージを死守しなければならない。間違っても俺なんかの匂いをクンクンしているだなんて悟られてはいけない。そうなったらさすがの姫川さんも迫害され忌避されるだろう。俺はそんな目に遭う姫川さんを見たくない。
生徒玄関まで辿り着いたところで「危なかったね」と姫川さんが安堵したふうに言う。「人が来てるなんて、よくわかったね」
「足音してたし」と俺。「姫川さん、俺に見つかったときもそうだったけど、ちょっと匂いに集中しすぎだよ」
「えぇ……気をつけてるつもりなんだけど」
「全然ダメじゃん。体操服を取り上げたあともまだ物欲しそうな目をしてたじゃん」
「だ、だって……」
「バレたくないんでしょ? 用心しないと」
「はい……」姫川さんはしゅんとなるが、すぐに顔を上げ、「丹羽くんこそ、『仲良くない』って何?」と質してくる。
「え、なに?」何の話?
「私と『仲良くはないよ』って答えてたでしょ? 仲良くないの?」
「や、あれは……あそこで『仲良しだよお!』って言うのもおかしいだろ、それはそれで」
「別におかしくは……おか、しいかな?」姫川さんはだんだん自信をなくし「おかしいか」と結論づける。
「おかしいよ」
それに実際のところも仲がいいのかなんてよくわからない。俺と姫川さんは匂いで繋がっているだけで、さっきも匂いを嗅ぎ・嗅がせていただけなのだ。
でも、仲良く見えていること自体は悪くないかもしれない。そうやって周りが認めてくれることで得られるパワーだってあるはずなのだ。それは六海を倒す助けに必ずなる。
靴を履き替えて外に出たあと、「もう少し気をつけた方がいいかもね」と姫川さんは今さら改めて言う。「できるだけ、みんなにバレる心配は減らしたいもんね」
「うん」過剰に用心されて姫川さんが俺に近寄らなくなるのもまずいが、警戒心がなさすぎるのもよくない。「まあそれもまたいずれゆっくり話し合おうか」
「作戦会議?」
「かな。そんな感じ」
「わかりました」手なんか上げて、姫川さんは元気だ。
もちろんただ元気なだけでなく、帰り道の途中、俺はビニール袋を再度開けさせられ、我慢が利かなくなった姫川さんにまた匂いを堪能されてしまうのだった。お金を取っても成立しそうなほどの依存具合で、それはそれでどうなのよと思わなくもない。