六海皐月
朝、登校して教科書だのノートだのの整理をしていると姫川さんもやって来る。「おはよう」「おはよう」などとみんなに挨拶しながら自分の席へ歩いていく姫川さんは今日も輝いていて綺麗で可愛い。俺に対しては挨拶なんてないんだろうなあとぼんやりしていると、俺の脇を通りかかった姫川さんが「丹羽くんもおはよう」と声をかけてくれる。
俺は即座にテンションが上がり、「おは、おはよう!」とどもりながらも力強い。俺が前のめりな感じで挨拶したからか、あるいは俺の話したいですオーラが漏れ出ていたからか、姫川さんは少し立ち止まって俺を窺うようにする。俺はテンパりながらも「あの、体操服は洗ったから」と謎の報告をしてしまう。
姫川さんが頬を赤くする。「そ、そうなんだ」
「うん……」なんだ?この会話。いらない。
しかし姫川さんが「洗っちゃったんだ。もったいないね」と口走るのでいよいよ我々は頭のおかしい二人みたいになる。
「はは……」
でもそうか。俺の匂いが好きな姫川さんにとっては、洗濯されることで体操服は価値をなくしてしまうのだ。匂いが消えてしまうから。洗い立ての柔軟剤の香りの方が遥かにいいと思うんだけど。
姫川さんは鼻をスンスンさせてちょっと笑う。「じゃ、丹羽くん。今日も一日頑張ろうね」
「あ、うん」
俺が頷くと、姫川さんも頷いて自分の席へ向かう。そして俺は気付く。姫川さんは教室後方の出入り口から入ってきて、必ず今のルートで自分の席へ行く。最短ルートではない、わずかに無駄のある行き方なんだけど、これって俺の横を通過して俺の匂いを少しでも嗅ぎたいからなのかもしれない。今も鼻をスンスンさせていた。なんか、ひとつわかると他のいろいろなことにも意味を見出だせて面白い。わざわざ俺の近くに来たがる姫川さんも可愛い。
あ、そうだ。姫川さんにときめいてばかりもいられないんだった。俺には確認しなければならないことがある。
六海皐月。姫川さんの彼氏の名前だ。昨晩、友達に教えてもらった。みんな知っていた。俺自身にそういった興味がなさすぎるだけで、姫川六海カップルは普通に有名だった。でもなあ、そんなこと知ってどうする?と昨日までの俺は思っていたからな。知らなくて恥を掻いたんだから、やはり知っておいて損することなどないのだ。
今朝は六海皐月を見に行く。俺が倒すべき相手。二年八組の生徒らしく、八組には知り合いがほぼいないのであまり馴染みがないが、とにかく行く。教室へ入り、教卓の座席表で『六海』を探し、その席を見据える。六海は既に登校してきている。が、めっちゃイケメ~ン。格好よすぎない、可愛らしさも見え隠れする爽やかなイケメン。姫川さんと並んでも様になる、姫川さんに相応しいビジュアルの男子生徒。死ね、と思わず思う。別に死ななくてもいいけど、反射的に死ねと思ってしまう。そんなイケメン。他のクラスメイトと駄弁っている様子から察するに性格も爽やかそうで、姫川さんにオラついたりもしなさそうだ。一安心。六海になら姫川さんを任せられる。いや、いずれは俺が倒すけれど。
いやしかし、マジな話、俺は六海に打ち勝たなければならないのだ。俺はあらゆる魅力において六海を上回り、姫川さんを振り向かせて完全勝利を得なければならないのだ。できるか? 見た感じ明らかに無理そうで、六海の傍に立っただけで俺はこの世から掻き消えてしまいそうだった。それくらい、存在としての価値に差があるように思えた。俺が唯一六海を超えているのは体臭のよさで、まあそれも姫川さん限定のアドバンテージなのだが、しかし今回の場合は姫川さん限定で充分なので、やはりそれを活かしまくる他ない。とりあえず匂いで勝負するしかない。
八組をあとにして廊下に出る。何はともあれ六海の姿を確認できてよかった……と思っていると、トイレにでも行っていたらしい姫川さんとばったり再会する。
「あ、丹羽くんだ」と姫川さん。「さっき教室で会ったと思ったのに。八組に用事?」
「ああ……まあね」
俺の微妙な態度から何かを察したらしい姫川さんが「あ」とまた言う。「昨日のこと、彼氏に言わないでね?」
「言わないよ」そういう作戦もなくはなかった。六海に姫川さんの性癖や俺のことをほのめかして翻弄し、疑心暗鬼からの破局も考えた……というか実行可能な案のひとつとしてなくはなかった。が、もちろん採用しない。その方法だと俺は六海に対してけっきょく何ひとつとして勝利できないままに終局してしまうし、ただただ汚く、悪い後味を残すだけだった。汚いのは俺の体操服だけでいい。俺は姫川さんに、六海よりも俺の方を好きだと思ってもらいたいのだ。六海を下げることで六海を上回りたいわけじゃない。「……彼氏以外になら言ってもいい?」
「だ、ダメ!」と姫川さんは焦っている。「誰にも言わないで」
「わかってるよ。冗談」
「うう……」弱る姫川さん。「昨日は、ホントに異常なことしちゃったな。丹羽くんが体操服を置いて帰ったから、やったー!と思っちゃって、それで頭がいっぱいだった……」
「やったー!と思ったんだ」
「ごめん。気持ち悪いよね。ごめんなさい」
「いや、俺は全然平気だよ」びっくりしただけだ。「姫川さんに好きな匂いだって言ってもらえて嬉しい」
「……好きな匂いだよ」
「俺自身ですら臭いと思ってるけどな。悪臭だよ、あれは」
「いい匂いだよ!」
「まあ好みは人それぞれだから」それでも俺なんかの匂いを嗅ぎたがるのは世界中を探しても姫川さんくらいだと思うが。「……そういえば、俺が体操服を置いて帰ったってよくわかったね」
「うう!? うーん……まあね」
「そんなのすぐわかるもんなんだな……」
「わ、わざと言ってるでしょ?」と姫川さんは少し頬を膨らませる。「丹羽くんの持ち物を日頃からチェックしてたからだよ」
「やっぱりそうなのか」と俺は笑う。そんな、ふと置き忘れられた体操服を他人がいきなり察知できるはずない。よく見ていないとわかるわけないのだ。「姫川さん、余罪とかない?」
「ヨザイって何?」
「俺の体操服をこっそり嗅いでた以外に何かしてないですか?ってこと」
「し、してないよ!」はっきり否定するが、顔はメチャクチャ赤くなっている。
「いま白状したら許してあげるけど?」
「え、いや……放課後、丹羽くんの机とか椅子の匂いをこっそり嗅いだだけだよ」
「へえ」『だけ』なのか? もはやよくわからない。
「……丹羽くんのシャーペンとか消ゴムの匂いも嗅いだ」
「えぇ……」
「あんまり匂いしなかったけど」
「え、姫川さん、俺の匂いのこと好きすぎじゃない?」さすがに少し引くぐらい嗅がれていた。
「だから好きだって言ってるじゃない!」と姫川さんもいっそ堂々とする。「ご、ごめんね? でも本当の本当に好きな匂いなんだ。やめられないっていうか……」
「いつも嗅いでたい?」
「うん……」
俺はついさっき六海を上回って勝つ!と意気込んでいたのに、また「じゃあ付き合おうよ」と言ってしまう。
「や、彼氏いるって……」
「彼氏と別れて」
「彼氏のことは好きだから」
「…………」
ちぇ。ちぇっちぇっちぇっ。やはり俺は匂いだけの男か。匂いにしか強みがない。今のところは。
「ごめんね」
「ううん。でも俺の匂いは嗅ぎたいでしょ?」
「それは……うん」姫川さんはこくりと頷く。「嗅ぎたいよ」
「付き合わなくても嗅いでいいよ」
「ホント!?」姫川さんは目を輝かせる。もともと輝いているから、余計キラキラになる。「いいの? どうやって嗅げばいい?」
本当に匂いだけは格別に好きなんだろうなと思うと俺は苦笑しか出ないが「好きなときに嗅ぎに来ていいよ」と言う。
「うーん」姫川さんはきょろきょろと周囲を窺う。「でも、みんなが見てる前だとあんまり嗅げないよね」
「まあそれはね。……あとは、使い終わった体操服とか嗅がせてあげる」
「や、やったあ!」喜ぶ姫川さんはどう見ても変態的で複雑だが、俺には匂いで釣ることしかできない。「丹羽くん、ハンカチとか持ってる?」
「あー……ハンカチは持ち歩いてないな」
「そっか……」
「これからは持ち歩くようにするよ。一週間くらい肌身離さずポケットにでも入れてれば匂い付くかな? そしたらそれを姫川さんにあげる」
「!」姫川さんは声にならない声を上げて悶える。「く、くれるの?」
「うん」
「嬉しいけど……なんでそこまでしてくれるの?」
「や、だって……」付き合いたいもん。
姫川さんも察したようだけど、「ごめんね」とまた謝ってくる。「付き合うことはホントにできないよ?」
今のところは「いいよ」
「丹羽くんがいろいろしてくれても私はお返しできないこともあるかもしれない。怒らないでね?」
「怒らないよ」俺が好きでやっているのだ。
姫川さんが俺を見てにこにこする。「昨日の放課後、丹羽くんに見られたときは終わったと思ったけど、見つかってみるもんだね。より幸せになっちゃった」
「ふふっ」と俺は吹き出す。クラスメイトに聞かれでもしたら教室から追い出されかねないような、体操服がどうたらハンカチがどうたらという気色悪い話しかしていないのだが、ともあれ、こうして、俺の匂いによって、俺と姫川さんの縁が明確に成立する。