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姫川絵姫、変態バレする

 部活をやっていないから授業でしか体操服を使わなくて、洗濯してもらうために家へ持って帰らなくちゃいけないんだけどよくそれを忘れる。


 今日も忘れそうになった。生徒玄関で靴を履き替えてしばらく歩き、そこでようやく体操服の存在を思い出した。俺は慌ててユーターンし、校舎に戻って教室を目指す。別に必ずしも持ち帰らなくたっていい。持ち帰り忘れたところで死活問題に陥るわけじゃない。次回の体育もその体操服を着て臨まなければならなくなるだけだ。二連続で体操服を使い回して運動するだけなんだが、今や六月で、もう全然涼しいとは言えない気温になってきているので、正直汗まみれの体操服を繰り返し着るのは嫌だった。俺は体操服を二着持っているけれど、ウチの母親は俺が一着目を持ち帰らない限り二着目を出してくれないので、綺麗な体操服で運動したいならば意地でも持って帰るしかない。


 二年生のフロアである三階まで上ってきて、汗が嫌だのなんだの言っていたのに、慌てて戻ってきたのもあって悲しくも汗を掻いてしまう。暑い。俺は一息ついて、心持ちゆっくりと廊下を進む。目的地は二年四組の教室。


 帰りのガイダンスを終えてからしばらくダラダラしていたものの、そこまで間を置かずに下校したつもりだったのに、廊下にも教室にももう誰の姿も見えない。しんと静まり返っている。みんなそそくさと部活へ行ってしまったのだ。あるいは俺のように帰路に着いたか。


 あまりにも静かすぎて、そんな静寂を壊すのも忍びなく、俺もなんとなく物音を立てずに廊下を歩いたのだが……二年四組の教室に一人だけ、誰かが居残っている。女子だ。その子は机と机の間に屈んで何かしているようで、教室の出入り口からだと誰なのか見とめづらい。


 何をしているのかわからなくて不審すぎるので、俺も恐る恐るそっと入室し、そろりそろりと自分の席へ向かう。が、その子が屈んでいる席がまさに俺の席の傍らで、このポジショニングだと机の横に引っ掛けてある体操服を取る際に確実に気付かれてしまう。どうしたもんか。


 近づいていくと女子の正体もわかる。二年四組のクラスメイトで、姫川絵姫(ひめかわえひめ)さんだった。姫川さんっていったら芳日高校の二年生の中でも五本の指に入るであろうと噂される美人で、机と机の間に屈んでいる姿なんてまったくもって似つかわしくないのだが、それ以上の衝撃的な光景を目の当たりにしてしまい俺は息を呑んで硬直する。


 姫川さんはコソコソと誰かの体操服の匂いを嗅いでいた。ちょっと待って。それ俺のじゃん。服屋でもらった手提げのビニール袋に入れてあった俺の体操服を少しだけ引っ張り出してそれの匂いを嗅いでいる。俺は絶句していてまだ微動だにできないんだけど、姫川さんはそんな俺に背を向ける格好で黙々と嗅いでいる。


 なんで? 何が目的なんだ? 体操服の匂いを嗅いでいるんだから体操服の匂いを嗅ぐのが目的なんだろうけど、俺の体操服を誰かのものと間違えている可能性が非常に高い。なぜなら俺はイケメンでもなんでもない帰宅部の一般的な生徒だし、姫川さんのような美人に興味を持たれる要素が何ひとつとしてない。姫川さんはおそらく片思いをしている誰かの体操服の匂いを嗅ぎたかったんだろうが、ごめん、それ俺のだ。しかもあんなに集中して一生懸命に嗅いでいるのが余計に不憫だ。好きな男子の匂いを堪能しているつもりなんだろうけど、俺の匂いなんだよなあ……。


 そう考えると、なんだか異様に興奮してくる俺もいる。可愛らしい姫川さんには片思いをしている相手がいて、その男子の体操服の匂いを嗅ぎに放課後の教室へこっそり戻ってきたのだが、焦りからか座席を間違えてしまい、全然たいしたことのないどうでもいい俺なんかの匂いを嬉々として吸引してしまうハメになってしまっている。俺はある意味でその男子から姫川さんを寝取っていると言えた。興奮してしまってもなんら不思議じゃない。


 俺は未だに動けなかったが、しかし興奮のあまりに呼吸が荒くなってしまったのか、姫川さんに気配を悟られてしまう。姫川さんは過敏な様子でこちらを振り返り、目を見開き、口もポカンとさせ、俺と同じくフリーズする。嫌な沈黙が漂う。フリーズしていても、頭は働いているのだ、お互いに。


「ふ」と声を漏らしたかと思うと、「ふわーーん!」と姫川さんが泣き出す。「ふわーーーん!」


 俺はビクッとなる。それでようやく体が自由を取り戻す。「ひ、姫川さん……」


「ごめん! ごめんなさい!丹羽(にわ)くん。ごめん!」すごく謝られる。


「いや、どういうこと……?」

 謎だった。あ、でも俺に謝ったってことは、俺の体操服だとわかっていて嗅いだということだ。なんだ? 何かの罰ゲームとかか?


「ごめん! 丹羽くん、ごめんね」と姫川さんは謝罪しかしない。涙を零し、手で拭い、涙を零し……を繰り返している。「ごめんなさい」


「いいよ」と俺は言うしかない。このシーンだけ切り取ると、俺が姫川さんを泣かせているふうにしか見えない。他に人がいなくてよかった。いや、俺が姫川さんを発見してしまったせいで姫川さんは泣いているんだから、だとしたらやはり俺が泣かせたことになるんだろうか? いやいや、どっちでもいい、そんなことは。「あの、体操服を取りに来たんだけど」


「あっ」姫川さんは俺の体操服をビニール袋にグイッと戻し「はいっ」と手渡してくれる。


「ありがとう」ありがとう? 「えっと……じゃあ」


 逃げるように退散しようとすると、姫川さんが「あっ」とまた声を上げる。「待って……」


 俺は立ち止まらざるを得ない。「うん?」


「こ、このことは、誰にも言わないで……?」


「…………」誰にも言わないから、姫川さんの体操服も嗅がせてよ……みたいなエロ漫画の序盤のやり取りを一瞬で連想してしまうが、俺にはそんな取り引きを持ちかける勇気もない。今だって、どうして姫川さんが俺の体操服の匂いを嗅いでいたのか?気になるけれどなんか恐ろしくて訊けずに逃げ去ろうとしていたんだから。「……誰にも言わないよ」


「ホントに……?」と姫川さんは神経質だ。「みんなに言い触らしたりしない?」


「え、俺そういうタイプに見える?」ショックだった。


「や、違う違う!」姫川さんはぶんぶん首を振る。「でも私、変質者みたいなことしてたから。丹羽くん、引いたし、怒ってるでしょ? 私は何をされたとしても文句言えないし……」


「別に引いても怒ってもないよ。じゃ、また明日」


「えぇ、り、理由とか訊かないの?」


「罰ゲームで『丹羽の体操服を十分間嗅げ!』とかだったら傷つくじゃん」と俺は笑う。


 姫川さんも少し笑ってくれる。「罰ゲームじゃないよ」


「そうなんだ」


 強烈な告白をされる。「丹羽くんの匂いが好きなんだ」


「は!?」開いた口が塞がらない。この子は何を言っているんだろう。


「丹羽くんが近くを通りかかったときとかにする匂いが前から好きで、もっと嗅ぎたいなって思ってたら、丹羽くんが体操服を置いて帰ったから」


「えええ……」俺の匂いが好きって、そんなことある? 「いい匂いがするなんて言われたことないけど。そんな、嗅ぎたいような匂いする?」


「春の」と言われる。「木漏れ日で暖まった草木みたいな優しい匂いがするよ。心が安らぐし、ずっと嗅いでたい」


「…………」そんな詩的な匂いするはずないし、そんなバカな話があるわけない。俺は香水とかも使わない、芋臭い男子高校生だ。試しに手元にある体操服の匂いを嗅いでみる。「うおっクッサ! 臭いけど!?姫川さん」


 一瞬で鼻がひん曲がる。身だしなみにあまり気を遣わない少し汚い男子の汗がこもって雑菌とかが繁殖している不潔な匂いしかしない。姫川さん、これによくずっと鼻をくっつけられていたな。シンプルにただ臭い。


 姫川さんは笑っている。「臭くないよ」


「いや、これは我ながら臭いけど」


「私にとってはすごく落ち着く匂い」


「……姫川さん、ちょっと鼻おかしいんじゃない?」

 つい、そう指摘したくなるぐらい、姫川さんの発言は異様だった。おかしいとしか言いようがない。


「おかしくないよ。みんながいいと思う匂いは私にとってもいい匂いだし、みんなが臭いと思うものは私にも臭いよ」


「俺のこれ臭いよ」


「丹羽くんの匂いは特別!」と言われる。「もしもみんなが臭いって言ったとしても、私は大好き!」


 俺はキュンとなる。改めて正面から姫川さんを見ると、五本の指に入るというのは誇張でもなんでもなくメチャクチャ可愛くて、そんな姫川さんが俺の匂いを好んで嗅ぎたがり、それを大好きだと評してくれるだなんて、ここが俺の人生のピークか?


 ピーク? いや、俺はまだ上を目指せる! 目指したい!


「そんなに好き?」と俺は姫川さんに尋ねる。


「好きだよ。瓶に詰めて持って帰りたいくらい」と絶賛される。


「じゃあ、付き合わない?」

 勢いで告白! 今しかない。人生のピークを錯覚するほどの今この瞬間しかない。今、姫川さんが俺に興味を抱いている間に。今、俺が調子に乗れている間に。


「ごめんなさい」すぐ終わる。「彼氏いるから」


「あ……」

 ピーク過ぎちゃった。彼氏いた。いや、姫川さんほどの美人で高二にもなったら彼氏くらいいるよな。いない方がドン引きだよ。うん。


「ごめん。丹羽くんの匂いは大好きだけど、匂いのことしか知らないし、丹羽くんのことあんまり知らないから……ごめんね。ありがとう」


「あ、ううん……」ダッサ。匂いだけの男だった。


「あの、丹羽くん、そろそろ私帰るね」そして気まずい流れになったからか姫川さんは離脱しようとしている。「今日は見苦しい姿を見せちゃってごめん。でも丹羽くんの匂いが好きなのはホントだよ! 告白も、付き合うことはできないけど嬉しかったよ! あ、あと、みんなには絶対言わないでね! バイバイ」


「う、うん、バイバイ」などと呆けている間に姫川さんは言いたいことだけ言って教室を去ってしまう。


 俺は教室に一人取り残され、フラれてむなしいはずなんだけど、むなしいだけではないなんだか熱い思いが膨らみつつあるのを感じる。姫川さん可愛い。姫川さん好き。彼氏がいるらしく、現状、俺に勝ち目は一切ないが、しかし俺は姫川さんが好む体臭を有している。この匂いを上手く使って姫川さんに接近すれば、いつしか姫川さんをこちらへ振り向かせ、彼氏を排斥することもできるかもしれない。やってやる。普段の俺だったら自信もやる気もないし、姫川さんなんて雲の上の存在すぎて逆に見向きもしないくらいだったが、匂いが俺と姫川さんを結びつけ、俺は姫川さんがどれほど可愛らしいのかを実感しなおせた。そして自分の特別な武器も見つけた。戦ってやる。俺の人生のピークは今日じゃないんだってことを世界に悟らせてやる。早く帰って、いろいろ考えなくてはならない。

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