不安と恐怖
「チカ?」
ラインハルトの体がこちらを向いた。
月光は、寝台のところまでは充分届かない。ガラス扉の所とくらべれば、薄暗がりになっている。しかし、軍人であり剣士であるラインハルトは夜目がきく。
ラインハルトは、こちらに向き直った途端オロオロし始めた。
「わわわ、チ、チカ、いったい、いったいどうした? 怖い夢でも見たのか?」
ガラス扉の前で両手を振りまわしつつ、いろいろ尋ねてきた。
そして、一瞬だけ躊躇した後、意を決したようにゆっくり向って来た。
そのとき初めて、自分の両頬に涙が伝っていることに気がついた。
「チカ、どうしたんだ? 眠ってしまったから、そのままにしたのだが。起こしたくなかったから。ほんとうは、うつ伏せだと苦しいだろうから仰向けにしたかった。しかし、マッサージ以外で、その、きみに触れるわけにはいかないだろう? チカ、その、す、すまない。きみを泣かせた理由がわからないのだ」
彼は、寝台の近くで立ち止まった。
彼がわたしの涙の原因を必死に探っているのがわかる。
「いえ、ち、違います。陛下、違うのです」
鍛錬用のシャツの袖で涙を拭きつつ、出てくる言葉は同じものだけ。しかも、意味をまったくなさない。
「どこか痛むのか? もしかして、鍛錬のときにどこか痛めたとか? まさか、マッサージでとか?」
彼は自分で言いながら、ますます慌てふためいている。
月光の中で慌てふためきしどろもどろになっている彼を見ながら、不意に何かが頭の中に閃いた。それこそ、脳内ですさまじく発光した感じである。
その光がおさまると、モヤモヤとした光景が頭の中に浮かび上がってきた。
この光景、どこかでみたことがある。
これが小説で読んだことのあるデジャブという感覚かしら?
それにしても、頭の中のモヤモヤははっきりしない。
たしかに、以前いまのこの光景と同じようなことがあった。「ような気がする」というのは、やはりわたしの勘違いなのかしら。
「チカ? 大丈夫なのか?」
「は、はい、陛下」
現実に引き戻され、慌てて答えた。
「その、近づいていいかな? 涙の理由は、これ以上は尋ねないから。きみが嫌でなければ、すぐ側についていたい」
「陛下、その……、不安なのです。怖いのです」
寝台の上から訴えていた。
このまま黙っていてもよかった。そうしようと思いもした。
だけど、このままでは遠からず不安と恐怖に押しつぶされてしまう。そうなってからでは遅いかもしれない。
それなら、いまここではっきり言ってもらった方がいい。はっきりきいた方がいい。
ラインハルトの本音を……。
「不安? 恐怖? ああ、明日のことか。すまない。ムダに不安を煽るようなことを言ってしまった……」
「違うのです。陛下、あなたのことです」
「お、おれのこと?」
ラインハルトは、またアワアワし始めた。
「おれの何が? 何かしたかな? そもそも、そうだな。きっと悪いことだらけだ……」
彼の狼狽ぶりは、先程ガラス扉の前で外の様子を眺めていたときの様子と真逆である。違いすぎて可笑しくなってきた。
だけど、笑うのはグッとガマンした。
「陛下のわたしに対する気持ちです」
「おれの気持ちだって?」
「はい。陛下は、人としても男性としても皇帝としても大将軍としても、じつに立派な方です。そんな立派な方が、利用価値のない、しかもちんちくりんの「メガネザル」を愛するわけはありません」
寝台の上から彼に訴えた。
「その証拠に、その証拠に、陛下は、陛下はわたしを抱いてくれないではないですか」
ついに叫んでいた。みずから叫んだにもかかわらず、叫んでしまってから急に恥ずかしくなった。
顔は、燃えているかのように熱くなっている。
「抱いて? いつも抱きしめて……」
彼はそう言いかけた。言いかけた途端に、彼の顔も真っ赤になった。
「いや、それは、それはだな……。誤解だ。そう、誤解だ。それはきみが、きみが嫌だろうと思って、怖いだろうと思って、とにかく、誤解なのだ」
しどろもどろすぎて、何を言っているかさっぱりわからない。
「誤解なのだ」
彼は、どうやら言い訳するのを諦めたらしい。
筋肉質の両肩が、ガックリと落ちた。
 




